葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

差別を「生き抜く本能だ」と言う暴論

「犬や猫にだって差別がある」と言う研究者 それは生き抜く本能だから:朝日新聞GLOBE+

 

上記リンク先の記事ですが、全体としての論調は差別に肯定的なものではありません。しかし、犬や猫もする差別は生き抜く本能であり、人種差別など歴史的・文化的な刷り込みによる差別も本能による差別とは程度の違いに過ぎない、と考えるのは、いささか暴論であると思います。それは、あたかも「犬や猫もする性行為は生き抜く本能であり、性暴力も本能による性行為とは程度の違いに過ぎない」と言うようなものです。

人種差別のような「歴史的、文化的な」差別の基底として本能レベルでの差別があるというのは、たしかにその通りなのでしょう。私も、その自然科学的知見を否定するつもりはありません。しかし、私が思うに、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別は、本能レベルでの差別とは「程度の違い」にとどまらず、質的に異なるものです。なぜなら、人種差別などが「歴史的、文化的な」ものであるならば、それは人間によって作られた文明社会が生み出したものであるからです。たとえ差別が生物の生き抜く本能であったとしても、「人間」が存在しなければ歴史も文化もないのですから、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別もないはずです。人種差別のような「歴史的、文化的な」差別が「人間存在」の産物であることを看過して、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別を本能的レベルでの差別と「程度の違い」に過ぎないと考えることは、「人間存在」を否定するものだといえます。

おそらく、斎藤教授や朝日記者の意図とは裏腹に、レイシストたちは「差別は生き抜く本能だ」という自然科学的知見を人種差別の正当化に悪用するでしょう。しかし、前述のとおり人種差別のような「歴史的、文化的な」差別が本能レベルでの差別とは質的に異なることを考えれば、「差別は生き抜く本能だ」という自然科学的知見によって人種差別が正当化されないことは容易に分かるはずです。

たとえ本能レベルでの差別をなくすことができなくても、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別といった理性レベルでの差別をなくすことはできます。すなわち、たとえ差別感情をなくすことができなくても、差別構造をなくすことはできるのです(もっとも、差別構造があるからこそ生まれる差別感情も、決して少なくないでしょう*1)。そして、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別が「文明」という人間の理性の力で作られたものであるならば、私たち人間は、それを「人文知」という人間の理性の力で克服することができるのです。

日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。

 

梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史*2

*1:" 排泄物はその悪臭のために私たちの胸をむかつかせるのだ、と私たちは考える。しかし、排泄物がもともと私たちの嫌悪の対象となっていなかったら、果たしてそれは悪臭を放っていたろうか。"(G.バタイユ『エロティシズム』)

*2:

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