葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

差別の問題で「分断」という言葉を使いたがる人たち

 

このごろ、よく差別の問題を「差別ではなく、異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するものである」と言う人が少なからずいます。彼らの言説に従えば、例えば人種差別は「異なる人種間の対立」であり、また女性差別は「男女間の対立」なのでしょう。

たしかに、一つの階級についてだけ見れば、人種差別や女性差別も「異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するもの」のように見えるかもしれません。そして、そのような対立が権力者によって、いわゆる「分断統治」に利用されることがあるのも事実でしょう。しかし、その根底には、まさに社会の差別構造があります。しかるに、差別の問題を「差別ではなく、異なる属性間の対立であり、それは社会を分断するものである」と言う人は、そのような社会の差別構造を看過する過ちを犯しています。

差別は構造の問題であり、そこではマジョリティとマイノリティの間に圧倒的な非対称性が存在するのですから、「分断」云々をいうのであれば、むしろマジョリティは「圧倒的な非対称性」という分断に安住しているのです。差別の問題に関してマジョリティが使いたがる表層的な「分断」という言葉は、差別構造における「圧倒的な非対称性」という、より深い分断を覆い隠してしまいかねません。

差別の問題で「分断」という言葉を使いたがるマジョリティたちは、きっと「我々だって、決して好き好んで差別するわけではない。社会の分断を利用したい権力者によって対立を煽られるのだから、仕方がないのだ。対立を煽られる点ではマイノリティにも落ち度があるし、分断される我々マジョリティだって本当は被害者なのだ」と言いたいのでしょう。たしかに、社会の差別構造は〈力〉を持つ者によってつくられるものです。しかし、それを支えているのは紛れもなくマジョリティであり、そうした構造のうえにマジョリティが「特権者」として安住していることに鑑みれば、「分断」という言葉を用いて社会の差別構造から目をそらし、被害者ヅラするのは、いささか醜悪で卑怯だといえます。例えば、日本社会の在日コリアン差別に関して、日本人が「日本社会に在日コリアン差別などというものはなく、あるのは日本人と在日コリアンの対立だ。安倍や極右によって社会を分断され、在日コリアンと対立させられる日本人だって本当は被害者なのだ。それに、対立を煽られる在日コリアンにも落ち度がある」などと言うのがどれだけ醜悪で卑怯であるか、民族差別について真摯に考えている人であれば容易に分かるはずです。

先に述べたように、社会の差別構造は〈力〉を持つ者によってつくられるものです。しかし、それは人がつくったものだからこそ、私たちはそれをこわしていくことができるのです。そして、社会の差別構造をこわしていく、それこそまさに私たちが差別を克服するためにしなければならないことなのです。そのためにも、私たちは「分断」などという言葉を安易に用いて社会の差別構造から目をそらしてはなりません。