あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

ヘイトスピーチの法規制に反対する「有識者」の「知的不誠実さ」について。

(憲法を考える)ヘイト規制、表現の自由と両立は 全国初の罰則条例、川崎市で施行:朝日新聞デジタル

 

“「規制は例外的で、ヘイトスピーチ規制も慎重であるべきだ」という榎透・専修大教授(47)は、表現の自由の大切さを指摘する。……しかし、差別的な表現まで保護する価値はあるのか。「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と榎教授。”(以上、2020年7月28日付け朝日新聞朝刊より)

もちろん、表現の自由に対する規制が例外的であるのはそのとおりですし、表現の自由が大切であることは私も否定しません。しかし、そもそも表現の自由憲法上の人権として保障されるのは、それが究極的には「個人の尊厳」の確保に資するからです。それゆえ、いくら表現の自由が大切といえども、それが個人の尊厳に根ざすマイノリティの人格権に常に優越するなどということは決してありません。しかるに、表現の自由の大切さだけを強調してヘイトスピーチの法規制によるマイノリティの人格権保護を否定することは、憲法表現の自由を人権として保障する趣旨を忘れて、マイノリティの個人の尊厳(ヘイトスピーチが傷つけるのは、マイノリティという「記号的存在」ではなく、一人ひとり違う顔を持った生身の人間です。)を軽視あるいは無視した暴論であると言わざるを得ません。

「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」というのも、たしかにそれはそのとおりです。しかし、それは「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という問いに対する答えとして適切なのでしょうか。思うに、「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という問いに対して「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と答えるのは、抽象的思考レベルの議論と具体的思考レベルの議論を混同して話をはぐらかすものです。つまり、「常に権力の乱用の危険がある」というのは「いかなる表現が保護に値しない『差別的な表現』であるか」を判断あるいは裁定するための規範を定立する具体的思考レベルの議論(もっとも、そこで定立される規範は「法規範」ですから、それは一般的かつ抽象的なものでありますが)における問題であって、それを「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という抽象的思考レベルの議論において問題とするのは、論理が飛躍しています。「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という問いに対する答えとして適切なのは、「差別的な表現まで保護する価値はある」か「差別的な表現まで保護する価値はない」のいずれかです。規範の「漠然不明確性」や「過度の広汎性」による権力の乱用の危険は、具体的思考レベルの議論において問うべきことであって、抽象的思考レベルの議論における問いの答えではありません。それに、もし抽象的思考レベルの議論における「ヘイトスピーチ」の概念が漠然とした不明確なものだというのなら、およそあらゆる抽象的思考レベルの議論における概念が漠然とした不明瞭なものだということになるでしょう。

「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」としても、それは決して最終的な答えではありません。先述したとおり、いくら表現の自由が大切といえども、それが個人の尊厳に根ざすマイノリティの人格権に常に優越するなどということは決してないことを考えれば、本当に問うべきなのは「権力の乱用を防ぎつつ、いかにヘイトスピーチによる侵害からマイノリティの人格権を法的に保護していくか」ということです。しかるに、「常に権力の乱用がある」というだけでヘイトスピーチによる侵害からマイノリティの人格権を法的に保護することを否定するというのは、マイノリティの個人の尊厳をあまりにも軽視するものであって、それはマジョリティの怠慢かつ傲慢であるというほかありません。

私は、憲法表現の自由を人権として保障する趣旨に鑑みて、マイノリティの個人の尊厳を踏みにじるヘイトスピーチ表現の自由の保障の範囲外である*1と考えます。ただ、ヘイトスピーチ表現の自由の保障の範囲外であるとしても、それが表現の自由にかかわるものであることまでは否定できませんから、ヘイトスピーチの法規制が厳格かつ明確な要件の下に行われなければならないのは当然のことです。しかし、だからといって、ヘイトスピーチを政権批判と同列に扱うのは、前者がマイノリティの個人の尊厳を踏みにじるものであるのに対して後者が究極的には個人の尊厳の確保を目的とする民主政に資するものであることに鑑みれば、甚だ不適切です。

日本の「有識者」の多くは、どうやら表現の自由の大切さを強調してヘイトスピーチの法規制に反対するのが原理原則に忠実な態度であると考えているようです。しかし、それは「個人の尊厳」という根源的な原理原則を軽視あるいは無視するものです。もし、それが「故意」によるものだとしたら、それは「知識人」として恥ずべき知的不誠実な態度だと言わざるを得ないでしょう。