葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

天皇制を廃止すべき理由

天皇制を廃止すべきなのは、まず何よりも天皇制が神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置であり、それは人民を差別人民の人権を抑圧するものだからです。

天皇制を廃止すべきだと言えば、天皇制を支持する国民から「国民の大多数が天皇制を支持している*1のだから、天皇制は維持されるだ」と反発を受けるでしょう。たしかに、天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」(日本国憲法第1条)ことに鑑みれば、「国民の大多数が天皇制を支持しているのだから、天皇制は維持されるべきである」というのは一見正論のように見えます。しかし、人民を差別・抑圧して支配する天皇制の問題は、人民に対する差別・抑圧という人権問題です。そして、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等」(世界人権宣言第1条)ですから、「国民の多数意思」は少数派の人民に対する人権侵害を正当化しません。さらに、天皇制によって差別・抑圧されているのは「日本国民」だけではありません。むしろ最も差別・抑圧されているのは日本の民主主義制度から疎外されている「日本国民」ではない人民です。それゆえ、「国民の大多数が天皇制を支持している」ことは、人民の人権を侵害する天皇制を正当化する理由にはならないはずです。つまり、「国民」の大多数が天皇制を支持していようが、人民の人権を侵害する天皇制は廃止されるべきなのです。それに、そもそも国民の大多数が天皇制を支持するような状況を作り出しているのは、ほかならぬ天皇制による人民支配です。すなわち、国民の大多数が天皇制を支持するような状況は、神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制と、それを支える暴力装置の人民抑圧によって作り出されるものなのです。「リベラル」派の間では、天皇制の存廃を「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟したときに、はじめて解決できる問題」だとする意見*2も根強いようですが、日本の真の民主化を妨げているのが他ならぬ天皇制であることを考えると、天皇制が安泰である限り、時が来れば自然に「日本の国の主人公である国民の間で、民主主義をそこまで徹底させるのが筋だという考えが熟」するということは決して起こりえません。また、先にも述べたように、天皇制によって差別・抑圧されるのは、決して「日本の国の主人公である国民」だけではなく、むしろ、天皇制によって最も差別・抑圧されているのは、「日本の国」の民主主義制度から疎外されている「日本の国の主人公である国民」ではない人民なのです。

天皇制を廃止すべき理由については、天皇制廃止論者の中にも、天皇制について「天皇や皇族の人権を侵害するものだから、天皇制は廃止されるべきである」と考える人が少なからず見受けられます。たしかに、個人としての天皇や皇族の人権は、天皇制によって制約されています*3。しかし、それは人民を差別・抑圧して支配する天皇制を維持するためです。つまり、天皇制の目的は人民を差別・抑圧して支配することであり、個人としての天皇や皇族の人権に対する制約は、(天皇制国家にとって)天皇制の目的を実現するための「必要悪」なのです。それゆえ、天皇制廃止の議論においては、何よりも「天皇制に差別・抑圧される人民の人権」を考えるべきです。天皇制廃止の目的は何よりも「人民を天皇制の支配から解放すること」であり、これによって天皇や皇族が天皇制から解放されたとしても、それは人民が天皇制の支配から解放されたことの反射的効果にすぎません。

 

天皇制は、このように人民を差別し人民の人権を抑圧するものですが、それのみならず、民主主義と本質的に相容れないものです。

「戦後の日本は民主主義国家であるから、戦後の天皇制も民主的な制度である」と思っている国民も多いことでしょう。たしかに、戦前とは異なり日本国憲法は、天皇の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」ものとしています。しかし、そもそも「主権の存する日本国民の総意」とはいったい何でしょうか。私は「日本国民」とされる人民の一人ですが、決して天皇制を許容しません。それなのに、天皇制が「日本国民の総意」だというのは、まさに天皇ファシズムの横暴です。

民主主義のは「治者と被治者の自同性」すなわち人民が治められる者であると同時に治める者であることを本質とするものであり、それは平等原理のうえに成り立つものです。これに対して、神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置である天皇制は、人間の間に差別や身分的秩序をつくりだす身分差別制度です。つまり、平等原理のうえに成り立つ民主主義と身分差別制度である天皇制は本質的に矛盾するものであり、この矛盾は、妥協不可能な敵対的矛盾なのです。

そもそも、いわゆる「象徴天皇制」は、天皇制を延命させたい昭和天皇裕仁や日本の権力者層と天皇制を日本の間接統治に利用したいGHQ連合国軍総司令部)の思惑が一致した産物です*4。そして、その取引において、アジア太平洋戦争で「皇国」を守るための「捨て石」とされた沖縄は、自己保身に腐心する昭和天皇裕仁によってアメリカに売り渡されました*5。つまり、「戦後の日本は民主主義国家であるから、戦後の天皇制も民主的な制度である」というのは、そういったことを忘れさせるための詭弁なのです。また、リベラル派の中には「天皇や皇族の人権を奪っているのはわれわれ主権者だ」と言う人がしばしば見受けられます。しかし、そのような言説は、「民主的な天皇制」という欺瞞を通して天皇制国家の被抑圧者たる人民に罪悪感を植え付け、天皇制国家の被抑圧者であることを忘れさせるための「方便」に過ぎません。つまり、「天皇や皇族の人権を奪っているのはわれわれ主権者だ」と言うリベラル派は、意図せずして天皇ファシズムに絡めとられ、天皇制による人民抑圧に加担してしまっているのです。

 

さて、天皇制を支持する多くの国民にとって「笑顔あふれる天皇ご一家」*6の様子は、さぞかし微笑ましいものであるに違いありません。しかし、「天皇ご一家」の「あふれる笑顔」の裏には、なんともグロテスクな真実が隠されています。「天皇ご一家」の「あふれる笑顔」の裏に隠されたグロテスクな真実、それはすなわち「笑顔あふれる天皇ご一家」は、暴力装置の人民に対する人権侵害によって支えられている、という真実です。

たしかに、天皇制は戦後、戦前の絶対主義的天皇制から象徴天皇制へと変わりました。しかし、それでも神話という虚構に由来する天皇の権威によって人民を抑圧し支配する装置であるという天皇制の本質に何ら変わりはありません。それゆえ、天皇制を維持するためには相変わらず暴力装置の人民に対する人権侵害が不可欠なのです。つまり、天皇制を維持するための暴力装置による人民への人権侵害は、決して過去の話ではないのです*7

 

以上のことからわかるように、天皇制を容認するということは、人民への差別と人権抑圧を容認するということであり、「治者と被治者の自同性」を本質とする民主主義を否定するということです。つまり、天皇制を許容するか否かという問題は、人民の人権や民主主義という普遍的な問題であって、決して天皇のことが好きか嫌いかの問題ではないのです。それゆえ、人民の人権や民主主義という普遍的な価値を共有するのであれば、たとえ国民の大多数が、天皇に親しみや好感を抱き、天皇制を支持しているとしても、人民を差別・抑圧し民主主義と敵対的に矛盾する天皇制は廃止すべきなのです。

群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去に断固として抗議する。

群馬・山本一太知事「歴史を修正する意図はない」 朝鮮人追悼碑撤去 [群馬県]:朝日新聞デジタル

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群馬県山本一太知事は1日の定例会見で、朝鮮人追悼碑を代執行で「群馬の森」(高崎市)から撤去したことについて、「碑自体や、碑の精神を否定するものではない。過去の歴史を修正しようとかいう意図はない」と述べたうえで、「すべて私の責任。県民のみなさんは必ず理解してくれる」と強調した。

 

群馬・山本一太知事「歴史を修正する意図はない」 朝鮮人追悼碑撤去 [群馬県]:朝日新聞デジタル

今般の群馬県による群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去は、「官製ヘイト」*1と言っても過言ではない暴挙であり、断じて許容できるものではありません。

「過去の歴史を修正しようとかいう意図はない」とお決まりの言い訳をする群馬県山本一太知事ですが、山本知事の意図がどうであったかは問題ではありません。つまり、群馬県日帝強制動員の史実を否定する極右主義者たちの声に迎合して*2朝鮮人労働者の追悼碑を強制撤去し、日本社会とそのマジョリティである日本人が再び同じ過ちを繰り返さないよう日帝の植民地体制下における強制動員という人権侵害の歴史に真摯に向き合うという碑の精神を否定すること、そして日帝の植民地体制下における強制動員という人権侵害の歴史を記憶するための場を暴力的に破壊した*3ことで日帝強制動員の史実を否定する極右主義者を勢いづかせたり*4在日コリアンに対する差別や憎悪をさらに助長させたりしてしまったことが問題なのです。

群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去は、日帝の植民地体制下における強制動員によって踏みにじられた日帝強制動員被害者の尊厳を追悼碑の強制撤去と破壊という形で二重に踏みにじる所業です。日帝は、いったいどれだけ日帝強制動員被害者の尊厳を踏みにじれば気が済むのでしょうか。「今の日本はかつての日帝とは違う」というごまかしはもはや通用しません。いつまでも日帝の植民地体制下における強制動員や日本軍性奴隷制といった人権侵害の歴史と向き合わず、被害者の尊厳を踏みにじり続ける今の日本は、まさに日帝そのものです。

群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去によって勢いづいた極右主義者は「日本国内にある慰安婦朝鮮半島出身労働者に関する碑や像もこれ(群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去)に続いてほしい」と戯言をぬかしていますが、こういう輩がいるからこそ、日帝の植民地体制下における強制動員や日本軍性奴隷制といった人権侵害の歴史を記憶するための場が日本に必要なのです。私は、今般の群馬県による群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去に断固として抗議します。

*1:「朝鮮人追悼碑を守れ」群馬県の撤去命令に市民ら抗議 レイシスト妨害も 時代の正体 差別禁止法を求めて | カナロコ by 神奈川新聞

*2:“撤去の論議が始まったのは、第2次安倍内閣が発足した2012年からだ。「新しい日本を考える群馬の会」などの右翼団体が、2004年の除幕式から毎年行われてきた追悼式の新聞記事を調べ、発言者の表現一つひとつを問題視した。例えば「戦争中に強制的に連れてこられた朝鮮人がいた事実を記憶することが重要だ」などの発言が攻撃の的になった。右翼は「強制連行」は日本政府が認めていない内容だとし、追悼碑を作る際の「政治的行事を行わない」という約束を破ったと主張。そのため市民の会(「守る会」)は2013年から追悼式もできずにいる。2014年4月、「追悼碑10年許可」を延長しなければならない時期が近づくと、右翼はより露骨に動いた。

東京都横網町公園にある「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」などの撤去を主張し続けてきた日本の右翼団体「そよ風」が提出した群馬県への追悼碑撤去請願を、2014年6月、自民党議員が多数だった県議会が採択する。待っていたかのように県は7月、追悼碑設置期間の延長不許可を決めた。”

[ルポ]撤去危機の群馬「朝鮮人追悼碑」…「韓日友好20年の象徴、なぜなくすのか」 : 日本•国際 : hankyoreh japan

*3:朝鮮人追悼碑、群馬県が撤去し更地に がれきの山も、本社ヘリ確認 [群馬県]:朝日新聞デジタル

*4:朝鮮人追悼碑「日本に不要」 自民杉田氏、歴史修正扇動|47NEWS(よんななニュース)

「東アジア反日武装戦線」が本当に壊そうとしたもの

桐島聡容疑者と名乗る人物 死亡を確認 入院先の病院で|NHK 首都圏のニュース

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私たちが今、自分たちの活動としたいと思っていることは、突き詰めて言うと「反戦」、戦争に反対し、戦争をなくす、させないようにしてゆくことです。それを「東アジア反日武装戦線」の人たちは、「戦争責任を問う」、アジアへの侵略の責任を問うという所に求めました。過去の戦争を、被害者としてしか捉えなかった日本人の意識を問いつめました。その中に自分たちもいるということ、何もしないでいる自分たちがいることに気付きました。そしてそれは過去の戦争に対する追及だけでなく、当時、多くの日本企業が続けていた資本主義的な侵略的行為に向けられていきます。

 

映画『狼をさがして』(原題:The East Asia Anti-Japan Armed Front) | 憲法研究所 発信記事一覧 | 憲法研究所

たしかに、「東アジア反日武装戦線」による爆弾闘争は、方法としては誤りだったと思います。

しかし、彼らが本当に壊そうとしたものは、日帝の植民地体制下で植民地人民を搾取して肥え太ってきた日帝植民地主義と、アメリカ帝国主義を後ろ盾として戦後再び東アジアを経済的に侵略し韓国をはじめとする東アジアの勤労人民を搾取してますます肥え太っていく日帝新植民地主義です。そして、それは本当であれば戦後の日本人が民主主義的な方法で壊さなければならなかったはずの継続する植民地主義なのです。

日本人の多くは、「東アジア反日武装戦線」を「凶悪な極左テロリスト」と呼んで否定的な評価を下します。もちろん、先にも述べたように「東アジア反日武装戦線」による爆弾闘争は方法として誤りだったと思いますし、左翼を自認する私も彼らがとった冒険主義的な方法を手放しで肯定するつもりはありません。しかし、彼らがとった暴力的な方法とは異なる民主主義的な方法で継続する植民地主義を壊すことをせず、日帝新植民地主義によって搾取され抑圧される東アジアの勤労人民の犠牲の上に成り立つ「戦後日本の経済繁栄」を謳歌してきた多くの日本人に、はたして「東アジア反日武装戦線」の目的までも否定する資格があるのでしょうか。

群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去に断固反対する。

群馬の森「朝鮮人追悼碑」代執行で撤去方針…それで「政治的な紛争」はなくなる? 抗議が止まらない理由とは:東京新聞 TOKYO Web

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埋もれていた史実を調べたのは、戦後50年にあたる1995年に県民らが結成した調査団。メンバーを中心とした「建てる会」が賛同金を集め、2004年にできたのが群馬の森の追悼碑だった。

後継団体の「守る会」によって毎年追悼式典が開かれてきたが、12年、参加者が「強制連行」に言及したことを挙げ「碑文は反日的」などと県に撤去を求める苦情があった。こうした抗議を受けて県は14年に更新を不許可とした。「政治的行事を行わない」との設置条件に反したからという。

更新を求めて「守る会」は県を訴え、18年の前橋地裁判決では勝訴したが、21年の東京高裁で逆転。「追悼碑自体が政治的な紛争の原因」「設置の効用を失った」として不許可処分を適法と認定され、最高裁で守る会の敗訴が確定した。

 

群馬の森「朝鮮人追悼碑」代執行で撤去方針…それで「政治的な紛争」はなくなる? 抗議が止まらない理由とは:東京新聞 TOKYO Web

差別主義者たちの声*1に迎合して県立公園「群馬の森」にあるに朝鮮人労働者追悼碑を強制撤去する群馬県の方針は、断じて許されないものです。

群馬県日帝強制動員被害者である朝鮮人労働者の追悼を「政治的行事」だと言い、また。最高裁は「追悼碑自体が政治的な紛争の原因となっている」と言いますが、朝鮮人労働者追悼碑をめぐる問題を政治的な問題と捉えるのは誤りです。すなわち、朝鮮人労働者追悼碑をめぐる問題は、政治的な問題ではなく人権の問題です。朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去は、それ自体が表現の自由の侵害*2という人権侵害ですが、朝鮮人労働者追悼碑をめぐる問題が人権の問題だという意味は、それだけにとどまるものではありません。日帝強制動員被害者である朝鮮人労働者の追悼碑は、日帝の植民地体制下における強制動員という人権侵害の歴史を記憶し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明するものです*3。このことに鑑みれば、朝鮮人労働者追悼碑をめぐる問題では、日本社会が日帝の植民地体制下における強制動員という人権侵害の歴史と真摯に向き合い、人権という人類の普遍的な価値を共有するかどうかが問われているのです(「人権の砦」であるはずの最高裁は、皮肉なことに人権という人類の普遍的な価値を共有する気がないようです。)。それゆえ、朝鮮人労働者追悼碑をめぐる問題は、政治的な問題ではなく人権の問題なのです。そして、群馬県朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去という暴挙に踏み切るのだとしたら、日本社会は日帝の植民地体制下における強制動員という人権侵害の歴史と真摯に向き合わず、人権という人類の普遍的な価値を共有しないということです。日本社会のマジョリティである日本人は、本当にそれで良いのでしょうか。

群馬県朝鮮人労働者追悼碑について「当初の設置目的である日韓・日朝の友好推進から外れてしまった」と言いますが、日本社会が日帝の植民地体制下における強制動員という人権侵害の歴史と真摯に向き合うことをなおざりにした「日韓・日朝の友好推進」は、真の日韓・日朝の友好推進では決してありません。真の日韓・日朝の友好は、日本社会が植民地主義を克服した先にあるはずです。また、朝鮮人労働者追悼碑を設置する意義は、日本社会の支配層が日帝の植民地体制下における強制動員という人権侵害の歴史を消し去ろうと腐心していることに鑑みれば、まったく失われておらず、むしろますます大きくなっています。

以上より、私は、群馬県による群馬の森朝鮮人労働者追悼碑の強制撤去に断固として反対し、群馬県に対して撤去方針の撤回を強く求めます。

生存権が人権=人間の普遍的な権利であることを無視した千葉地裁の不当判決に抗議する。

世界人権宣言

 

第二十二条

すべて人は、社会の一員として社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する。

生活保護「外国人だから」受給認めず 千葉地裁 病気になり就労を禁じられたガーナ人男性の請求を「門前払い」:東京新聞 TOKYO Web

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岡山裁判長は判決で、同法の保護対象について「日本国民を意味する」と最高裁判例*1を踏襲し、訴えを棄却した。

[……]

判決後に千葉市内で記者会見したジョンソンさんは「この裁判は自分のためだけではなく、他の外国人らのためにも勝ちたかった。希望は失いたくない」と控訴の意向を表明。代理人の及川智志弁護士は「訴えを門前払いする判決で、多くの外国人が隣人として存在している現在の社会を全く踏まえていない。共生社会をつくるきっかけになる判決を期待していたが、見るべきところは全くなかった」と憤った。

「外国人に生活保護法に基づく受給権はない」などとする今般の判決は、生活保護制度の根拠である生存権が人権=人間の普遍的な権利であることを無視した不当な判決であると言わざるを得ません。

生活保護制度の根拠である「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」すなわち生存権は、「人種、性、身分、国籍などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる権利」すなわち人権=人間の普遍的な権利です。つまり、生存権は「日本国民の権利」ではなく人間の普遍的な権利ですから、それが保障されるのは「日本国民」だけに限られず、それゆえ生存権を保障した憲法25条を具体化した制度である生活保護も「日本国民」に限定されるべきものでは決してないのです。そして、そのように解することは、日本も批准している*2経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)第9条(この規約の締約国は、社会保険その他の社会保障についてのすべての者の権利を認める。*3)の趣旨に鑑みても妥当です。

外国人の生存権保障を否定する論者は、よく「外国人の生存権保障は出身国がやるべきことだ」と言ったり「外国人の生活保護費が国の財政を圧迫する」と言ったりします。たしかに、「生存権保障の実現は当該外国人が本来所属する国の責任である」とする学説もあります。しかし、先に述べたように生存権は「日本国民の権利」ではなく人間の普遍的な権利ですから、国は人権である生存権の保障を実現する責任を「国民」ではなく人間に対して負っているはずです。また、憲法25条が保障する生存権は「生活を営む権利」なのですから、これについては、現時点における生活の本拠こそが重要なのであって、国籍は全く重要ではありません。それゆえ、外国人の生存権保障は当該外国人が現在居住している国の責任であると考えるべきです。また、財政面の心配についても、「日本国民の権利」ではなく人間の普遍的な権利である生存権の保障について「日本人」と「外国人」を分けて考えるべき理由はありませんし、日本が本当に「平和国家」であるならば、国が戦争という人殺しのために莫大な予算をつぎ込むことをやめて、その分の予算を人間の生きる権利である生存権の保障を国籍によって差別することなく実現するために使えばいいだけの話です。

以上からわかるように、生存権が人権=人間の普遍的な権利であることを無視して「外国人は生活保護法の対象外」とすることは、なんら合理的理由のない外国人差別にほかならず、さらに言えば、それはつまるところ人間の否定にほかなりません。不当判決を下した裁判所と被告の千葉市、そして外国人が生存権保障から疎外されていることに疑問を抱かない多くの日本国民は、本件の原告であるシアウ・ジョンソン・クワクさんの「わたしはにんげんです。ろぼっとではありません」という言葉*4を真摯に受け止めるべきです。私は、生存権が人権=人間の普遍的な権利であることを無視した千葉地裁不当判決に断固として抗議します。

*1:なお、当該判例最高裁2014年7月18日判決)は、「外国人は[……]生活保護法に基づく保護の対象となるものではない」と判示するにとどまり、生活保護法で外国人に生活保護受給権を付与することが憲法上禁止されているか否かについては判示していません。したがって、当該判例を根拠として援用した「在日外国人の生活保護受給は憲法違反である」という言説は誤りです。

「外国人の生活保護は違法」は誤り ”最高裁の判決”がネットで拡散、厚労省の見解は?

*2:日本弁護士連合会:社会権規約 日本の批准状況

*3:経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)

*4:「わたしはにんげんです」 突然の病で就労資格を失ったガーナ人男性が生活保護を受けられない不条理:東京新聞 TOKYO Web

やはり日本軍「自衛隊」と靖国「神社」のいずれも解体するべきである。

(社説)陸自靖国参拝 旧軍との「断絶」どこへ:朝日新聞デジタル

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憲法が定める「政教分離」の原則に抵触するというだけではない。侵略戦争と植民地支配という戦前の「負の歴史」への反省を踏まえ、平和憲法の下で新たに組織された、自衛隊の原点が風化しているのではないかと疑わせる振る舞いではないか

[……]

帝国陸海軍が敗戦で解体された後、民主主義体制の下で再出発したのが自衛隊である。人脈や文化など、旧軍の伝統との継続性も指摘されるが、基本的な理念、役割は、戦前と「断絶」しているはずだし、そうあらねばならない。

 

(社説)陸自靖国参拝 旧軍との「断絶」どこへ:朝日新聞デジタル

今般の日本軍「自衛隊」幹部らによる靖国集団参拝からは、日本軍「自衛隊」の旧軍との断絶というのが欺瞞にすぎないことが改めてよくわかります。

朝日新聞の社説は、日本軍「自衛隊」が「侵略戦争と植民地支配という戦前の『負の歴史』への反省を踏まえ、平和憲法の下で新たに組織された」と言いますが、これは一種の歴史修正主義と言わざるを得ません。日本軍「自衛隊」の前身である警察予備隊は、アメリカの冷戦政策上の必要性から日本の再軍備の第一歩として創設されたものであり*1、それは決して「侵略戦争と植民地支配という戦前の『負の歴史』への反省を踏まえ」て組織されたものではないのです。つまり、そもそも「自衛隊の原点」は侵略戦争と植民地支配という戦前の「負の歴史」への反省を踏まえていないのであって、今般の日本軍「自衛隊」幹部の振る舞いは「自衛隊の原点が風化」云々という話ではありません。

日本軍「自衛隊」が創設された経緯に加え、戦後の日本が米国主導の東アジア国際秩序に組み込まれることを通じて「国体護持」(=天皇制の維持)を達成したことに鑑みると、日本軍「自衛隊」の基本的な理念・役割は、米国主導の東アジア国際秩序を守ることを通じて天皇制国家を守ることだといえます。それを考えると、日本軍「自衛隊」の基本的な理念・役割が戦前と断絶していると言い切ることはできません。

こうして考えてみると、日本軍「自衛隊」は、旧軍と本質的に変わらないと言わざるを得ないでしょう。日本軍「自衛隊」は、旧軍と本質的に変わらないからこそ、幹部が天皇の国のために戦争で死ぬことを顕彰する施設である靖国神社に平気で参拝できるのです。そして、天皇の国のために戦争で死ぬことを顕彰する施設である靖国神社に組織的に参拝するということは、日本軍「自衛隊」は天皇の国のために殺し殺されることもいとわないということです。つまり、日本は同じ過ちを繰り返しかねないのです。「リベラル」派の皆さんは戦後の日本が「平和憲法」の下で「平和国家」に生まれ変わったと信じたいでしょうが、戦後の日本が「平和憲法」を持っているにもかかわらず米国の戦争に加担して暴利をむさぼり、いまや世界有数の強大な軍事力を持つ軍事大国となって*2アメリカの侵略戦争に参加する準備を進めている*3ことを考えると、残念ながら憲法を変えただけでは軍国主義という日本の本質はそう簡単に変わらないようです。

戦後の日本が本当に侵略戦争と植民地支配という戦前の「負の歴史」を反省しているならば、そもそも日本軍国主義の象徴である「旭日旗*4を臆面もなく掲げる軍隊*5天皇の国のために戦争で死ぬことを顕彰する施設も存続できないはずです。つまり、戦後の日本が本当に侵略戦争と植民地支配という戦前の「負の歴史」を反省しているならば、やはり日本軍「自衛隊」と靖国「神社」のいずれも解体するべきであり、そして究極的には、それらの根底にある天皇制を廃止するべきです。

大災害時に繰り返される民族差別煽動デマ――大災害時のジェノサイドは日本社会の「今ここにある危機」だ

「火事場泥棒が」SNSで飛び交うデマ 能登半島地震の被災者不安|【西日本新聞me】

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日本では大災害のたびに悪質なデマが繰り返されます。岸田首相は、今般の能登半島地震に関して「被害状況などについての悪質な虚偽情報の流布は決して許されるものではない」と述べましたが*1、問題なのは「被害状況などについての悪質な虚偽情報の流布」だけではありません。日本では大災害のたびに卑劣な民族差別煽動デマが繰り返されますが*2、今般の能登半島地震でも、過去同様に卑劣な民族差別煽動デマが繰り返されています。

地震発生直後からインターネット上では多くのSNSアカウントによって、関東大震災時のデマを模倣した「○○人が井戸に毒を入れた」というデマや、東日本大震災の時にも問題となった*3「外国人窃盗団が現地に向かっている」というデマがしきりに流されました。このような民族差別煽動デマは、「冗談」の一言で済まされるものでは決してありません。「○○人が井戸に毒を入れた」というデマについて、「井戸に毒を入れた」というのが現代ではありえない設定だからつまらない冗談に過ぎないと言う人もいるかもしれません。しかし、「○○人が井戸に毒を入れた」というデマは、特定の民族や国籍に属する人々を敵視して罪人扱いすることで民衆の憎悪を特定の民族や国籍に属する人々に向けさせるものであり、たとえ「井戸に毒を入れた」というのが現代ではありえない設定だとしても、それはヘイトクライム*4につながりかねない実に危険な民族差別煽動にほかなりません。また、「外国人窃盗団が現地に向かっている」というデマについては、東日本大震災の時にデマに煽られた右翼団体の構成員たちが中国人を見つけたら殺しても構わないと鉄パイプやスタンガンで武装して石巻に乗り込んだ*5ことに鑑みれば、関東大震災時のような民族虐殺を引き起こしかねない極めて危険な民族差別煽動です。

デマを流す連中やデマを拡散する連中にとっては「ほんの軽い冗談のつもり」なのかもしれません。しかし、ヘイトクライムやジェノサイド(民族大量虐殺)につながりかねない極めて危険な民族差別煽動が「ほんの軽い冗談のつもり」でまるで娯楽のように消費されるというのは、本当に恐ろしいことです。それはつまるところ、日本人の多くが「1923年関東大震災ジェノサイド」*6に真摯に向き合ってこなかったということなのでしょう。そして、日本人の多くが「1923関東大震災ジェノサイド」に真摯に向き合ってこなかったということは、日本人の多くが再び同じ過ちを繰り返しかねないということです。つまり、大災害時のジェノサイドは、決して遠い昔や海外の話ではなく、日本社会の「今ここにある危機」なのです。だから私は、たとえ誰かに「ネタなんだからマジになるなよ」と冷笑されようと、卑劣かつ危険な民族差別煽動デマを絶対に許しません。