葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本人が三・一独立運動を記憶しなければならない理由

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三一節 | 歳時・記念日 | 韓国文化と生活|韓国旅行「コネスト」

 

三・一独立運動を知っている日本人がどれくらいいるかはさておき、おそらく三・一独立運動を知っている日本人の多くは、三・一独立運動を朝鮮(韓国)近代史の出来事の一つだと思っていることでしょう。

たしかに、三・一独立運動は朝鮮(韓国)近代史の出来事の一つです。しかし、それは日本人にとって、単なる「朝鮮(韓国)近代史の出来事の一つ」にとどまるものではありません。なぜなら、三・一独立運動は、日本による植民地支配に抗する闘いだからです。つまり、日本人にとって三・一独立運動は、日本による朝鮮植民地支配という、自国の負の歴史における出来事なのです。そして、それゆえに日本人が三・一独立運動を知らないということは、すなわち自国の負の歴史を知らないということなのです。

もちろん、日本による朝鮮植民地支配は、現在の日本社会に生きる日本人が自ら犯した罪ではありません。だからといって、日本による朝鮮植民地支配について、現在の日本社会に生きる日本人には何の責任もないということにはなりません。

日本による朝鮮植民地支配について、「自分が犯した罪ではないから、自分には何の責任もない」と思っている日本人がいたとしたら、その人は日本による朝鮮植民地支配について現在の日本社会に生きる日本人が果たすべき責任を誤解しています。日本による朝鮮植民地支配について現在の日本社会に生きる日本人が問われているのは、過去の国家や国民が犯した罪についての責任ではありません。日本の植民地主義という「負の遺産」は、清算されることなく私たちの生きる現在の日本社会に引き継がれています。そして、その「負の遺産」からは、朝鮮(韓国)蔑視観や在日コリアン差別が再生産され続け、それによって日本による朝鮮植民地支配の被害者や在日コリアンの人権が踏みにじられ続けています。こうした日本の人権問題を解決するためには、現在の日本社会に生きる日本人が、現在の日本社会に引き継がれた日本の植民地主義という「負の遺産」を自ら清算しなければなりません。そして、そのためには、現在の日本社会に生きる日本人が日本による朝鮮植民地支配という自国の「負の歴史」と真摯に向き合うことが必要不可欠であり、それこそが日本による朝鮮植民地支配について現在の日本社会に生きる日本人が果たすべき責任なのです。

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日本人が三・一独立運動を記憶することは、まさに現在の日本社会に生きる日本人が日本による朝鮮植民地支配という自国の「負の歴史」と真摯に向き合うことです。つまり、現在の日本社会に生きる日本人にとって、三・一独立運動を記憶することは、単に世界史の知識を習得することではなく、日本による朝鮮植民地支配について現在の日本社会に生きる日本人が果たすべき責任の一つなのです。日本人の中には、三・一独立運動を祝う「三一節」を「反日」だと言う人がいます。しかし、日本人が三・一独立運動を記憶することの意義がわかれば、「三一節」を「反日」だと言うのがいかに愚かで恥ずかしいことかよくわかるはずです。

ロシアのウクライナ侵攻に抗議する日本の人民が忘れてはならないこと

ロシア各地で反戦デモ、警察は1600人余りを拘束 | ロイター

jp.reuters.com

 

在日ロシア人がウクライナ侵攻に抗議活動 大使館前で | 毎日新聞

mainichi.jp

 

在日ウクライナ人 渋谷駅前でロシアによる軍事侵攻に抗議 | NHK | ウクライナ情勢

www3.nhk.or.jp

ロシアのウクライナ侵攻に関して、日本の人民がウクライナの人民やウクライナ侵攻に抗議するロシアの人民に連帯して反戦を訴えることは、言うまでもなく必要なことです。もちろん、私もロシア・プーチン政権のウクライナ侵攻に断固として抗議します。

ただ、くれぐれも忘れてならないのは、もし日本が他国に軍事侵攻したとして、そのとき日本の人民は同じように反戦を訴えることができるかどうか自問することです。

もしかすると、リベラル派の中には「日本には憲法9条があるのだから、日本が他国へ軍事侵攻することなどあるはずがない」と言う人もいるかもしれません。たしかに、戦後の日本は、憲法9条のおかげで自らの手を血で汚さずに済んできました。しかし、戦後の日本が、憲法9条があるにもかかわらず朝鮮戦争ベトナム戦争といった「アメリカの戦争」に加担し、暴利をむさぼってきたのもまた真実です。そして、いまや日本は、憲法9条があるにもかかわらず世界第5位(2022年現在)*1の強大な軍事力を持つ軍事大国となりました。つまり、もはや日本は「いつでも戦争ができる国」であって、「日本には憲法9条があるのだから、日本が他国を軍事侵攻などするはずがない」とは決して言えないのです。現に日本は、世界の注目がウクライナに集まるその裏で、アメリカとともに対中国戦争の準備を着々と進めています*2。「今日のウクライナは明日の日本だ」とのたまう日本の右翼たちは、大きな勘違いをしています。というのも、いまだ帝国主義を克服できない日本は、依然として侵略する側だからです。

われわれ日本の人民は、ロシアのウクライナ侵攻に抗議しつつも、ロシアのウクライナ侵攻を養分として肥え太る日本の軍国主義への警戒も決して怠ってはなりません。現に日本政府と政権与党である自民党は、軍備増強を正当化する口実としてウクライナ情勢を利用しようと目論んでいます。ロシアのウクライナ侵攻に抗議することは、日本の人民が日本の軍国主義への警戒を怠ることの「免罪符」には決してなりません。

世界平和のために必要なのは、軍事力の増強や軍事同盟の拡大ではありません。それらは戦争を生み出しこそすれ、戦争を抑止することはありません。真に必要なのは、平和を希求する世界人民の連帯です。

「戦後の日本は民主主義国家である」という誤解が日本の真の民主化を妨げている

戦後の日本は民主主義国家である、日本国民の多くはそう信じて疑わないでしょう。

たしかに、戦後の日本では、主権が「国民」にあると憲法で定められていますし、主権者である「国民」の選挙によって選ばれた代表者で構成される議会もあります。しかし、そうだからといって、戦後の日本が民主主義国家であるとただちに結論づけることはできません。

戦後の日本が民主主義国家であるかどうかは、民主主義の本質から考えなければなりません。そうして、「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に鑑みれば、「戦後の日本は民主主義国家である」というのは大きな誤解です。なぜなら、日本国民が民主主義国家であると信じて疑わない戦後の日本には、民主主義とはおよそ相容れない天皇制が相変わらず存続しているからです。たしかに、戦前とは違い、戦後の日本は天皇主権ではありません。しかし、だからといって戦後の天皇制が戦前のそれと本質的に異なるとはいえません。すなわち、神話という虚構に由来する天皇の権威によって人民を支配する装置であるという天皇制の本質は、戦後の天皇制も戦前のそれと何ら変わりはないのです。そして、神話という虚構に由来する天皇の権威によって人民を支配する装置である天皇制は、人民が被治者であると同時に治者であるとする民主主義と本質的に相容れないものなのです。

戦後の日本が民主主義国家であるといえないのは、民主主義とはおよそ相容れない天皇制が相変わらず存続しているからだけではありません。「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質に鑑みれば、日本国籍ではない永住者あるいは定住者も日本国籍者と同じ義務を負う「被治者」ですから、民主主義の下では彼らも「治者」であるはずです。しかるに、彼らは、ただ「日本国籍ではない」というだけで、「治者」として本来保障されるべき参政権を奪われています。つまり、民主主義の本質に鑑みると、「治者」ではない「被治者」が存在する戦後の日本は民主主義国家であるといえないのです。

「日本国民の多くが民主主義を手放そうとしている」としばしば言われます。しかし、「日本国民の多くが民主主義を手放そうとしている」というのは真実ではありません。なぜなら、日本国民は、まだ一度も民主主義を手にしたことがないからです。すなわち、日本国民は「戦後の日本は民主主義国家である」と「お上」に言われたからそう信じているだけで、自らの手で民主主義を確実に掴んだわけではないのです。それにもかかわらず、日本国民の多くは、日本を「成熟した民主主義国家」だと勘違いしています。日本国民の多くがこのような勘違いをし続ける限り、日本の真の民主化が実現することは決してありません。つまり、日本国民が「日本は成熟した民主主義国家である」という勘違いを改めて、日本が未だ民主主義国家ではないことを正しく認識することが、日本の真の民主化を実現するための第一歩なのです。

朝鮮人強制労働の問題は、日本国民が向き合うべき日本の人権問題である。

日韓、新たな火だねの佐渡金山 外相会合でも対立 見えぬ関係改善:朝日新聞デジタル

www.asahi.com

日本国民の中には、日帝下の朝鮮人強制労働の問題を「国同士の揉め事であって、自分には関係ない」と思っている人も少なくないでしょう。

たしかに、日帝下の朝鮮人強制労働は、現在の日本社会に生きる日本国民が自ら犯した罪ではありません。しかし、だからといって日帝下の朝鮮人強制労働の問題を「国同士の揉め事であって、自分には関係ない」と思うのは大きな間違いです。

日帝下の朝鮮人強制労働の問題は、「国同士の揉め事」ではなく、日帝による朝鮮植民地支配を背景に強制動員された朝鮮人労働者に対する人権侵害という人権問題です。そして、それは植民地主義という「負の遺産」を引き継いだ現在の日本社会に生きる日本国民が向き合うべき日本の人権問題です。

日帝下の朝鮮人強制労働の問題について、「自分が犯した罪ではないから、自分には何の責任もない」と思っている日本国民がいたとしたら、その人は日帝下の朝鮮人強制労働について現在の日本社会に生きる日本国民が負うべき責任を誤解しています。現在の日本社会に生きる日本国民が問われているのは、過去の国家や国民が犯した罪についての責任ではありません。先にも述べたように、私たちの生きる現在の日本社会では、植民地主義という「負の遺産」が清算されることなく引き継がれています。その結果、「戦後日本」の〈新植民地主義〉が、日帝による朝鮮植民地支配を背景に強制動員された朝鮮人労働者の人権を踏みにじり続け、そして、それはさらに「技能実習」の名を借りた外国人労働者搾取という既視感ある新たな人権問題を生み出しています。こうした日本の人権問題を解決するためには、「戦後日本」に引き継がれた植民地主義という「負の遺産」を清算することが必要不可欠です。つまり、日帝下の朝鮮人強制労働について現在の日本社会に生きる日本国民が負うべき責任は、「戦後日本」に引き継がれた植民地主義という「負の遺産」を清算するべく、日帝による朝鮮植民地支配を背景に強制動員された朝鮮人労働者に対する人権侵害という日本の人権問題と真摯に向き合うことなのです。それはまさに、植民地主義という「負の遺産」を引き継いだ現在の日本社会に安住している、日本社会のマジョリティたる日本国民の責務です。

もっとも、朝鮮人強制労働問題と真摯に向き合うことで植民地主義という「負の遺産」を清算するといっても、それは決して朝鮮人強制労働という「負の歴史」を忘却することではありません。もし「負の歴史」を忘却してしまえば、日本は再び同じ過ちを犯すでしょう。日本が植民地主義を真に克服し、再び同じ過ちを犯さないようにするためには、政府や国民が「負の歴史」を記憶し、継承していくことが必要不可欠なのです。

日帝下の朝鮮人強制労働について、何よりもまず考えなければならないのは強制労働被害者の人権とその救済であることは、言うまでもありません。とはいえ、朝鮮人強制労働問題と真摯に向き合うことで植民地主義という「負の遺産」を清算することは、日本国民の一人ひとりが真に自由な人間として生きるためにも必要であるということを、最後に付け加えておきます。

民族差別や排外主義を許してはならないのは、「日本の国益を損ねる」からではない。

日本社会にはびこる民族差別や排外主義を批判する言説の中には、「民族差別や排外主義は日本の国益を損ねる」というものがしばしば見受けられます。きっと、これは「外国人あるいは民族的マイノリティが日本の国益を損ねる」と主張する極右・排外主義者への対抗言説なのでしょう。

たしかに、日本社会にはびこる民族差別や排外主義ゆえに日本という国が国際社会からの信用を失うことによって、日本の「国益」が損なわれるということもあるかもしれません。しかし、民族差別や排外主義に関して、「日本の『国益』が損なわれる」というのは本質的な問題ではありません。

民族差別や排外主義を許してはならないのは、それらが外国人あるいは民族的マイノリティの個人の尊厳を傷つけるからです。そして、たとえもし民族差別や排外主義によって日本の「国益」が損なわれることがなくても、民族差別や排外主義が外国人あるいは民族的マイノリティの個人の尊厳を傷つける以上は、民族差別や排外主義を許してはならないことに変わりはありません。率直に言って、民族差別や排外主義によって傷つけられる外国人あるいは民族的マイノリティの個人の尊厳に比べたら、日本の「国益」など取るに足らないものです。

民族差別や排外主義を批判するに際して「国益」を持ち出す人は、もしかすると「国益」を持ち出すことが、日本社会のマジョリティである日本国民が日本社会にはびこる民族差別や排外主義と向き合うモチベーションになると考えているのかもしれません。しかし、民族差別や排外主義を批判するに際して「国益」を持ち出すことは、外国人あるいは民族的マイノリティの個人の尊厳が傷つけられるという民族差別や排外主義の問題の本質を見失わせかねません。それに、日本という国民国家のマジョリティが、日本という国民国家の構造的問題である民族差別や排外主義について「問題を解消することが日本という国にとって得かどうか」という日本本位の損得勘定で考えるのは、やはりマジョリティの傲慢であると言わざるを得ません。

日本社会にはびこる民族差別や排外主義に反対するマジョリティは、民族差別や排外主義に関して何よりもまず考えなければならないのは外国人あるいは民族的マイノリティの人権であること、そして、人権の問題は「問題を解消することが日本という国にとって得かどうか」という日本本位の損得勘定で考えるべきものではないことを忘れてはなりません。

もはや日本共産党は「共産党」の名に値しない。

「天皇制廃止?絶対しません」共産リーフレット作成「不安」解消狙う [共産]:朝日新聞デジタル

www.asahi.com

与党になっても天皇制を絶対に廃止しないと言い切る日本共産党ですが、同党は天皇制を絶対に廃止しない理由について、安全保障政策や天皇制に関する党綱領への疑問や批判に応えるリーフレット*1で「綱領で、天皇の制度を含め『憲法の全条項を守る』と決めてい」るからだと述べています。

たしかに、日本共産党の志位委員長がおっしゃる通り*2天皇制は「現行の憲法に定められている制度」です。しかし、それを理由に天皇制を絶対に廃止しないというのは、憲法の本質を無視する悪しき形式主義です。

たとえば、憲法9条を変えるべきではないのは、9条の趣旨である平和主義が憲法の究極目的である個人の尊厳の確保に資するからであって、単に9条が憲法で決められたものだからではありません。日本共産党の理屈に従えば、もし自民党が目指す改憲が実現してしまったとして、その時は「国防軍や緊急事態条項は現行の憲法に定められている制度だから、絶対に廃止しない」ということになりますが、それははたして日本共産党の本意とするところなのでしょうか。日本共産党は大きな誤解をしていますが、「護憲」とは、憲法の条文を変えないことではなく、憲法の基本理念を変えないことです。つまり、たとえ「現行の憲法に定められている制度」であっても、それが憲法の基本理念に悖るものであれば、その制度は変えるべきなのです。そして、差別制度である天皇制は、基本的人権の尊重という憲法の基本理念に悖るものですから、これを廃止すべきなのです。

「(天皇制を)続けるか、なくすかは、あくまで憲法にもとづいて国民の総意にゆだねる」というのも、一見すると「国民主権」の理念に沿った主張のようにも思えますが、しかし、これは天皇制に対する日本共産党日和見主義的な態度を正当化するための詭弁です。日本共産党は、「(天皇制の)存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決される」*3と考えているようですが、日本の民主主義を妨げているのが他ならぬ天皇制であることを考えれば、天皇制が安泰である限り、「情勢が熟したときに、国民の総意によって解決される」ということは決して起こらないでしょう。また、天皇制によって差別・抑圧されるのは、決して「主権の存する国民」だけではありません。それとも日本共産党は、まさか「主権の存する国民」ではない人民は排除されても仕方がないとでも言うつもりでしょうか。しかし、それはまさに天皇制と結びついた国民主義の「同化と排除」の論理です。

日本共産党日和見主義は、日本軍「自衛隊」に対する態度にもあらわれています。日本共産党は、前述のリーフレットで「共産党は、いますぐ自衛隊をなくそうなどとは考えていません。将来、アジアが平和になり、国民の圧倒的な多数が『軍事力がなくても安心だ』と考えたときに、はじめて憲法9条の理想に向けてふみだそうと提案しています」と述べています。しかし、これもやはり日本軍「自衛隊」に対する日本共産党日和見主義的な態度を正当化するための詭弁です。

かつてアジアを侵略し、それゆえに戦力の不保持を定めた憲法9条があるにもかかわらず、日本は、いまや世界第5位*4(2022年現在)の強大な軍事力を持つ軍事大国となり、世界第1位の軍事超大国(2021年現在)であるアメリカの戦争に主体的かつ積極的に関与し続けていることに鑑みれば、憲法9条に違反するれっきとした「戦力」である日本軍「自衛隊」こそが、まさにアジアの平和にとって大きな脅威なのです。つまり、世界第1位の軍事超大国であるアメリカの戦争に主体的かつ積極的に関与する、れっきとした「戦力」である日本軍「自衛隊」がある限り、「アジアが平和にな」ることは決してないのです。それに、日本政府は、日本軍「自衛隊」を存続させるために「仮想敵国の脅威」を強調し「国民」の不安を煽りますから、日本軍「自衛隊」がある限り、いつまでたっても「国民の圧倒的な多数が『軍事力がなくても安心だ』と考え」るようになる日は来ないでしょう。

日本共産党は大きな勘違いをしていますが、憲法9条は単なる「理想」ではなく、法規範です。つまり、もはや日本軍「自衛隊」が憲法9条に違反するれっきとした「戦力」である以上、本当はいますぐ日本軍「自衛隊」をなくさなければならないのです(日本国憲法第98条第1項。だからこそ、日本政府はこれまで「自衛隊は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから、憲法第9条第2項で保持することが禁止されている『陸海空軍その他の戦力』には当たらない」という詭弁を弄してきたのです。)。それとも、日本共産党も、もはや日本軍「自衛隊」が憲法9条に違反するれっきとした「戦力」であるという現実を無視して、政府と同様に「自衛隊憲法の禁ずる『戦力』ではなく、『自衛のための必要最小限度の実力』である」という詭弁を弄するのでしょうか。

日本共産党は、「国民の圧倒的な多数が『軍事力がなくても安心だ』と考え」ることを日本軍「自衛隊」をなくす条件としています。しかし、憲法9条に違反するれっきとした「戦力」である日本軍「自衛隊」によって世界人民の平和的生存権という人権が侵害されるのであれば、「国民の圧倒的な多数が『軍事力がなくても安心だ』と考え」なくても、日本軍「自衛隊」をなくすべきです。なぜなら、人権侵害は「国民の圧倒的な多数」云々という「数の論理」で正当化できるものではないからです。

もちろん、天皇制や日本軍「自衛隊」は、日本共産党の考えだけでなくせるものではありません。しかし、そのことは、人民を差別・抑圧する天皇制の廃止や、世界人民の平和的生存権を脅かす日本軍「自衛隊」の解体に向けて人民を導く前衛党としての責務を怠ることの言い訳にはなりません。たとえ天皇制や日本軍「自衛隊」が日本共産党の考えだけでなくせるものではないとしても、日本共産党が人民の前衛党として「主人公」である人民に対して、人民を差別・抑圧する天皇制の廃止や、世界人民の平和的生存権を脅かす日本軍「自衛隊」の解体を訴えかけることはできるはずです。しかるに、人民を差別・抑圧する天皇制や世界人民の平和的生存権を脅かす日本軍「自衛隊」を温存したい「国民」の顔色をうかがい、そういった「国民」期待に応えるべく詭弁を弄する日本共産党の態度は、まさに日和見主義であり、それは人民の前衛党たる共産党としてふさわしくない恥ずべきものであると言わざるを得ません。中国共産党を「社会主義と無縁の覇権主義」であって「『共産党』の名に値しない」と批判する日本共産党ですが、残念ながら右翼日和見主義の日本共産党も、もはや「共産党」の名に値しません。

「日本人である前に一人の人間」であればこそ

日本軍「慰安婦」(日本軍性奴隷制)問題や徴用工(日帝強制動員)問題に関して、日本人の中には「私は日本人である前に一人の人間なのだから、日本軍『慰安婦』問題も徴用工問題も私には関係ないことだ」と思う人もいるかもしれません。

たしかに、日本人であるあなたが「日本人である前に一人の人間」なのはその通りです。しかし、日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題は、日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害という人権の問題です。それゆえ、「日本人である前に一人の人間」であればこそ、一人の人間として日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題といった人権の問題と真摯に向き合うべきです。「日本人である前に一人の人間」であることは、日本人が日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害という人権の問題から目を背ける言い訳には決してなりません。

もっとも、日本人が「日本人である前に一人の人間」であるとしても、「日本国民」という日本社会の特権者として振舞う日本人が都合よく「日本人である前に一人の人間」であることを持ち出すというのは、あまりにも不誠実な態度です。日本軍性奴隷制日帝強制動員といった日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害という歴史的事実を否定する歴史修正主義は、歴史修正主義者個人の問題にとどまるものではなく、日本社会の構造的な問題です。そして、歴史修正主義を生み出す構造を構築し温存しているのは、日本社会の特権者である「日本国民」です。それゆえ、日本人が「日本人である前に一人の人間」として日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題といった人権の問題と真摯に向き合うためには、まず日本人は、日本社会の特権者である「日本国民」として自分たちが構築し温存している、歴史修正主義を生み出す構造をこわしていく必要があるのです。「日本人である前に一人の人間」であることは、日本人が、日本社会の特権者である「日本国民」として自分たちが構築し温存している、歴史修正主義を生み出す構造をこわしていく責任から逃れるための言い訳には決してなりません。