葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本人が「遠いよその国の悲劇」を通じて確かめるべきこと

「あそこのことをみんなが大きな声でしゃべるのは遠いよその国だからなのよ。政治問題は遠い国のことほど単純に、壮絶にしゃべりたくなるものなのよ。自分の国のことになると一ミリも振動でもびくびくしてたちまち口ごもってしまうくせに、そうなのよ。つまり、きれいに苦悩できるのよ。」(開高健『夏の闇』)

「『平和』で『民主的』な『戦後日本』」が誕生してから70年近くを経た今日でも、世界各地では悲惨な戦争が後を絶たず、また自由と民主主義を求める人民たちの闘いが国家の暴力によって無残に押しつぶされています。

そうした「遠いよその国の悲劇」にマスメディアを通じて触れた日本人は、きっと「それに比べて、日本は何と『平和』な国だろうか」、あるいは「それに比べて、日本は何と『成熟した民主主義の国』だろうか」と言うことでしょう。しかし、日本人が「遠いよその国の悲劇」を通じて確かめるべきことは、本当に「『遠いよその国』に比べて、『戦後日本』がいかに『平和』で『民主的』な国であるか」なのでしょうか。

このように問えば、良心的な日本人からは「『戦後日本』の『平和』は、『われわれ』のかけがえのない宝である憲法9条によって守られてきた。その9条が変えられてしまったら、日本は再び戦争に巻き込まれる。『遠いよその国の悲劇』は、決して他人事ではなく『未来の日本の悲劇』かもしれないのだ」、あるいは「『戦後日本』の『われわれ』にとってかけがえのない宝である『民主主義』も、これを守る努力を怠れば瞬く間に失われれてしまう。現に、アベ・スガの暴政によって『われわれ』の尊い『民主主義』が失われようとしているではないか。『遠いよその国の悲劇』は、決して他人事ではなく『未来の日本の悲劇』かもしれないのだ」という答えが返ってくるかもしれません。もちろん、「遠いよその国の悲劇」が他人事ではないというのはそのとおりです。しかし、私が言いたいのは、そういうことではありません。

たしかに、「戦後日本」は、「平和憲法を持つ国」ですし、「自由民主義体制をとる国」です。しかし、「戦後日本」は、「平和憲法を持つ国」であるにもかかわらず、これまで朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争アフガニスタン紛争、イラク紛争……等といった数々の「盟主」アメリカの戦争に加担し、その「恩恵」にあずかってきました。そして、今もなお「安全保障」に名を借りた日米軍事同盟の下で「盟主」アメリカの戦争に加担し続けています。また、「戦後日本」は、「自由民主義体制をとる国」であるにもかかわらず、人民の自由を抑圧する反民主主義的な天皇制が装いを変えて今もなお存続しています。つまり、日本人が「遠いよその国の悲劇」を通じて確かめるべきなのは、「『遠いよその国』に比べて、『戦後日本』がいかに『平和』で『民主的』な国であるか」ということではなく、「『遠いよその国の悲劇』に、『平和憲法を持つ国』であるはずの『戦後日本』がどれほどかかわり、その『恩恵』にあずかっているか」、あるいは「『戦後日本』は本当に、自由と民主主義を求める人民たちの闘いが国家の暴力によって無残に押しつぶされている『遠いよその国』とは違って『成熟した民主主義の国』なのだろうか。すなわち、『戦後日本』は本当に、未だ民主化を成し遂げられずにいるその『遠いよその国』とは違って、民主主義の主役である人民の力によって既に民主化を成し遂げたのだろうか」ということです。

もし「戦後平和主義」が、継続する日本の戦争加害を隠蔽し忘却させ、「戦後民主主義」が日本の真の民主化を妨げるのだとすれば、なんとも皮肉なことであると言わざるを得ません。「戦後日本」の「われわれ」が、本当に平和と民主主義を希求するのであれば、やはり「戦後平和主義」と「戦後民主主義」を問い直すことが必要です。「『平和』で『民主的』な『戦後日本』」は、決して「歴史の終わり」ではありません。

朝日新聞は、一体いつまで日本軍性奴隷制問題を「日韓『歴史』対立」だと言い続けるのか。

(社説)日韓「歴史」対立 融和へ果断な行動を:朝日新聞デジタル

 

朝日新聞は、一体いつまで日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)を「日韓『歴史』対立」だと言い続けるのでしょうか。

韓国政府の言うとおり*1、日本軍性奴隷制問題は「普遍的な人権問題」です。私も、拙ブログでそのことをこれまで繰り返し述べてきました。

日本軍性奴隷制問題において、日本と韓国の間に「歴史」の対立はありません。なぜなら、「歴史問題」としてそこにあるのは、日本軍性奴隷制度が女性に対する深刻な人権侵害を引き起こしたという歴史的事実を日本の政府と国民が共有するか否か、だからです(この点については、残念ながら日本の政府も国民の多くも、日本軍性奴隷制度が女性に対する深刻な人権侵害を引き起こしたという歴史的事実を共有していないのが現状と言わざるを得ません。)。そして、そもそも日本軍性奴隷制問題は、前述したように「普遍的な人権問題」です。それゆえ、あえて「対立」ということを言うならば、そこで対立しているのは「人権」と「反人権」です。

朝日新聞は、日本軍性奴隷制問題を「国民感情が絡み合う歴史問題」だと言いますが、それは大きな誤解です。日本軍性奴隷性問題は、「国民感情が絡み合う歴史問題」などではなく、人権という国際社会共通の普遍的な価値*2を共有するかどうかの問題です。それとも、朝日新聞は、人権という国際社会共通の普遍的な価値を共有しないことが日本国民の「国民感情」に沿うとでも言うのでしょうか。もっとも、世論に鑑みると、日本軍性奴隷制問題に関しては、人権という国際社会共通の普遍的な価値を共有しないことが日本国民の「国民感情」に沿うのかもしれませんが。

先日の三一節で文在寅大統領が「(日本軍性奴隷制)被害者の名誉と尊厳を回復するためにも最善を尽くします」と述べた*3ことについて、朝日新聞は「その言葉を行動で示してほしい。文氏は直近の歴史問題への対応策を具体化し、速やかに日本との協議を始めるべきだ」と主張していますが、これは傲慢な勘違いです。日本軍性奴隷制問題は、日本軍による女性の人権侵害の問題であり、それについて第一義的に責任を負うのは日本政府です。そして、日本軍性奴隷制問題が一向に解決しないのは、日本政府が日本軍性奴隷制被害者に対する法的責任を一向に果たそうとしないからです。それを棚に上げて文在寅大統領に責任転嫁するのは、日本政府の責任逃れに加担するものであることを、朝日新聞は自覚しているのでしょうか。

「歴史の事実を回避するような態度は、慰安婦問題での日本政府としての考え方を表明した、1993年のいわゆる『河野談話』にも逆行する」と日本政府を批判する朝日新聞は、どうやら日本軍性奴隷制度が女性に対する深刻な人権侵害を引き起こしたという歴史的事実を日本の政府と国民が共有するかどうかの問題であることは分かっているようです(それなのに、どうして朝日新聞は日本軍性奴隷制問題を「日韓『歴史』対立」だと言い続けるのでしょうか。)。しかし、日本軍性奴隷制問題は、単に日本政府が歴史の事実を回避しなければよいという問題ではありません。日本軍性奴隷制度が女性に対する深刻な人権侵害を引き起こしたという歴史的事実を日本の政府と国民が共有することは、それ自体が目的ではありません。つまり、それは日本軍が犯した戦時性暴力について日本政府が法的責任を果たし、二度と同じ過ちを繰り返さないために必要なことなのです。朝日新聞のみならず、リベラル派の多くが称賛する「河野談話*4ですが、たしかに「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」点は評価に値するものの、法的責任を回避することで日本政府の責任をあいまいにするものである点に鑑みると、私は「河野談話」を手放しで称賛することはできません。

日本軍が犯した戦時性暴力について日本政府が法的責任を果たすためには、その前提として日本による朝鮮植民地支配の不法性を認めなければなりません。日本政府が日本軍性奴隷制被害者に対する法的責任を一向に果たそうとしないのは、つまるところ日本による朝鮮植民地支配の不法性を認めたくないからです。しかし、植民地支配について「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」した、いわゆる「村山談話*5を今の日本政府も承継しているのであれば、日本政府は日本による朝鮮植民地支配の不法性を認めて日本軍性奴隷制被害者に対する法的責任を果たすことができるはずです。それとも、「村山談話」は、植民地支配について「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」しているにもかかわらず、日本による朝鮮植民地支配の不法性とそれに関する日本政府の法的責任を認めるものではないのでしょうか。もしそうであれば、「村山談話」も日本軍が犯した戦時性暴力について日本政府が負うべき責任をあいまいにするための方便であると言わざるを得ません。

繰り返しになりますが、植民地支配について「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」した、いわゆる「村山談話」を今の日本政府も承継しているのであれば、日本政府は日本による朝鮮植民地支配の不法性を認めて日本軍性奴隷制被害者に対する法的責任を果たすことができるはずです。朝日新聞は、文在寅大統領に対して偉そうに「言葉を行動で示せ」と言う前に、日本政府に対して「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」というその言葉を行動で示せと言うべきです。そして、それこそが「日本を代表するリベラル紙」と評される朝日新聞の矜持であると、私は朝日新聞の一読者として思います。

日本人が「在日」という言葉をローマ字表記して用いることの本質的な問題は何か。(前エントリーの補足)

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

前回のエントリーで取り上げた、日本人が「反差別運動」のスローガンとして「在日」という言葉をローマ字表記して用いた問題について、マジョリティの中には、これを日本人が「反差別運動」のスローガンとして「在日」という言葉をローマ字表記して用いることが不快であるかどうかの問題、すなわち個人的感情の問題であると捉えている人が少なくないようです。

たしかに、議論のきっかけは「不快だからやめてほしい」というマイノリティ当事者からの抗議の声です。しかし、今般の問題を「快・不快」という個人的感情の問題であると捉えるのは、問題の本質を見誤るものです。

前回のエントリでも述べましたが、思うに、「在日」という言葉は、在日コリアンエスニック・アイデンティティにかかわるものであり、さらには、抽象的な「記号的存在」では決してない在日コリアン一人ひとりの実存的アイデンティティにまとわりつくものです(私はマジョリティですが、しかし在日コリアンの子として、切実にそう感じます。)。それゆえ、日本社会のマジョリティである日本人が「在日」という言葉を軽率に扱うことは、マジョリティ当事者である在日コリアンアイデンティティを弄ぶものであり、つまりそれはマジョリティ当事者である在日コリアンの尊厳を傷つけるものなのです。そして、マジョリティがマイノリティのアイデンティティを弄ぶことは、差別構造においてマジョリティがマイノリティのアイデンティティを収奪するものであり、それは構造的差別と密接にかかわるものです。それゆえ、マジョリティがマイノリティのアイデンティティを弄ぶことは、「快・不快」という個人的感情の問題ではなく、たとえ今般の問題に関してマイノリティ当事者の中に「在日」という言葉をローマ字表記して用いることを不快に思わない人がいたとしても、それは差別構造においてマジョリティがマイノリティのアイデンティティを収奪することを正当化する理由にはならないのです。

このように、日本人が「反差別運動」のスローガンとして「在日」という言葉をローマ字表記して用いることの本質的な問題は、「なぜ日本人が『反差別運動』のスローガンとして『在日』という言葉をローマ字表記して用いることに対してマイノリティ当事者である在日コリアンの中から『不快だからやめてほしい』という抗議の声が上がるか」ということです。そして、これを真摯に考えなければならないのは、ほかでもないマジョリティです(なお、その問いに対する私の答えは、先に述べたとおりです。)。しかるに、マジョリティが「快・不快」の問題のレベルで思考を止めて、「マイノリティ当事者の中にも不快に思わない人がいる」などと屁理屈をこねるのは、それこそ特権を持ったマジョリティの傲慢でしょう。

なお、誤解のないようにお断りしておきますが、今般の問題が「快・不快」という個人的感情の問題ではないというのは、決して「不快だからやめてほしい」というマイノリティ当事者からの抗議の声を軽視する趣旨ではありません。「不快だからやめてほしい」というマイノリティ当事者からの抗議の声を軽視したマジョリティによる議論は、傲慢なマジョリティによる独りよがりでしかないのですから。「不快だからやめてほしい」というマイノリティ当事者からの抗議の声は、日本人による「在日」という言葉の軽率な扱いが在日コリアンの尊厳を傷つけるという本質的な問題を表象するものです。だからこそ、マジョリティは、「不快だからやめてほしい」というマイノリティ当事者からの抗議の声を真摯に受け止めなければなりません。そして、マジョリティがマイノリティ当事者の声を真摯に受け止めることは、「マジョリティがマイノリティ当事者に寄り添う」云々ではなく、マジョリティが自身の言動の加害性を自覚するために必要なことなのです。

マジョリティは、マイノリティのアイデンティティを弄ぶな。

ある「大和民族」を自認する日本人男性が「反差別運動」のスローガンで「在日」という言葉をローマ字表記して用いたことに対して、マイノリティ当事者である在日コリアンから「ローマ字表記は不快である」との旨の抗議の声が少なからず上がっています。

「反差別運動」のスローガンで「在日」という言葉をローマ字表記して用いることについては、日本社会のマジョリティである私も違和感を覚えますし、マジョリティはマイノリティ当事者からの抗議の声を真摯に受け止め、その使用をやめるべきだと思います。

もっとも、私は、「マイノリティ当事者が不快だと言っている」ことを、ローマ字表記をやめるべき理由そのものだとは考えていません。なぜなら、問題の本質は「マイノリティ当事者が不快だと言っている」ことの先にあるからです。すなわち、問うべきは「なぜマイノリティ当事者である在日コリアンが、日本人が『反差別運動』のスローガンで『在日』という言葉をローマ字表記して用いることを不快に感じるのか」ということであり、そして、民族差別が日本社会のマジョリティの問題であるならば、それはマジョリティが自ら問い、自ら考えるべきことなのです。しかるに、マジョリティがマイノリティ当事者に対して、「ローマ字表記をやめろと言うのなら、まずはマイノリティがローマ字表記の何が問題か説明すべきだ」と言ったり「マイノリティがローマ字表記をやめろと言うから、仕方なくやめてやるのだ」と言ったりするのは、マジョリティがマイノリティ当事者に責任転嫁する卑怯な態度です。「なぜマイノリティ当事者である在日コリアンが、日本人が『反差別運動』のスローガンで『在日』という言葉をローマ字表記して用いることを不快に感じるのか」をマジョリティが自ら問い、自ら考えることは、ほかならぬマジョリティの責任であり、その責任を果たせば、マジョリティがどうすべきかはおのずとわかるはずです。

日本社会のマジョリティの一人として私が思うに、(「在日」という言葉そのものの是非は、本稿ではさておき)「在日」という言葉は、日本社会のエスニック・マイノリティである在日コリアンエスニック・アイデンティティにかかわるものであり、それはさらに、抽象的な「記号的存在」では決してない在日コリアン一人ひとりの実存的アイデンティティにも影響を与えるものです(事実、コリアにルーツを持つ私の実存的アイデンティティにも、「在日」という言葉は少なからぬ影響を与えています。)。そのような「在日」という言葉をマジョリティが軽率に扱うことは、つまりマジョリティがマイノリティのアイデンティティを弄ぶものであり、それはマイノリティの尊厳を傷つけることにほかなりません。マイノリティのアイデンティティは、マイノリティ自身のものであって、それは決してマジョリティが収奪して所有し、好き勝手に弄んでよいものではありません。そして、そうである以上、たとえマイノリティ当事者の中にマジョリティがマイノリティのアイデンティティを弄ぶことを許す人がいても、それは決して「免罪符」になりません。

日本人が「反差別運動」のスローガンで「在日」という言葉をローマ字表記して用いることに対して、マイノリティ当事者である在日コリアンから「ローマ字表記は不快である」との旨の抗議の声が上がるのは、それが「在日」という言葉をマジョリティが軽率に扱うものであって、マジョリティがマイノリティのアイデンティティを弄ぶものだからです。そして、先にも述べたように、マジョリティがマイノリティのアイデンティティを弄ぶことは、マイノリティの尊厳を傷つけるものであって、決して許されることではありません。それゆえ、マジョリティである日本人は、「在日コリアンが『在日』のローマ字表記を日本人に使わせないようにするのは、表現の自由の侵害だ」などという戯言を吐くのではなく、「ローマ字表記は不快である」というマイノリティ当事者である在日コリアンの抗議の声を真摯に受け止め、自主的にローマ字表記の使用をやめるべきであり、それが日本社会のマジョリティとして責任ある態度だと、私は日本社会のマジョリティの一人として思います。くだんの日本人男性が、日本社会の差別問題に日本社会のマジョリティとして主体的に取り組むというのであれば、なおのこと「ローマ字表記は不快である」というマイノリティ当事者である在日コリアンの抗議の声を真摯に受け止め、自主的にローマ字表記の使用をやめるべきです。日本社会の差別問題に日本社会のマジョリティとして主体的に取り組むというのは、「反差別」のためならば、マジョリティがマイノリティのアイデンティティを好き勝手に収奪して己の所有物とし、それに対するマイノリティ当事者の抗議の声を無視して好き勝手に振舞ってもよいということでは、決してありません。

なお、本稿はあくまでも、日本社会のマジョリティの一人である私が「なぜマイノリティ当事者である在日コリアンが、日本人が『反差別運動』のスローガンで『在日』という言葉をローマ字表記して用いることを不快に感じるのか」について出した私なりの「答え」であり、マジョリティである私がマイノリティ当事者を勝手に代表するものではありません。言うまでもなく、マジョリティである私にマイノリティ当事者を勝手に代表する資格などないのですから。

私は特権を持つマジョリティである日本国籍者ですが、決して「大和民族」ではありません。

私は、日本国籍者として生まれ、日本国籍者として生きている、特権を持つ日本社会のマジョリティです。私は、この事実を否定することはできませんし、この事実を否定して特権を持つマジョリティとしての責任から逃れるつもりもありません。

しかし、私が特権を持つ日本社会のマジョリティである日本国籍者だからといって、私を「大和民族」と決めつけるのはやめてください。私は、コリアにルーツを持つ(私の母方の祖父は、慶尚南道出身の在日コリアン1世です。)日本国籍者ですが、私が日本国籍者であるのは、家父長制的イデオロギーに立脚した父系優先血統主義の結果にすぎません(なお、現行の国籍法(1984年改正法)は、父母の少なくともどちらか一方が自国民であれば国籍を付与する父母両系血統主義を採用しています。)。そのような私を、特権を持つ日本社会のマジョリティである日本国籍者だからというだけで「大和民族」と決めつけるのは、私のルーツを否定するものです。現代の「日本」という国民国家において、特権を持つマジョリティは、決して「大和民族」だけではありません。

もちろん、日本国籍者である個人が「大和民族」を自認するのは自由です(ただし、そもそも「大和民族」という概念は、近代(1880年代)以降に統一国家形成の過程で、「記紀神話」に民族のルーツを求め、大日本帝国のマジョリティ民族として創り出されたものです*1。)。しかし、それならば私が他者から「大和民族」と規定されない自由もあるはずです。国家はもちろん、あなたにも私のエスニック・アイデンティティを決める権利はありません。私のエスニック・アイデンティティは、私が決めます。私は特権を持つマジョリティである日本国籍者ですが、決して「大和民族」ではありません。これは、「大和民族」を自認する人たちからすれば「つまらないこだわり」かもしれませんが、しかし、私にとっては実存にかかわる切実な問題なのです。

民族差別煽動デマを「冗談」の一言で済ませてはならない。

地震でまたも飛び交ったデマや差別発言 桁違いの拡散、どう対処? - 毎日新聞

mainichi.jp

大規模な災害が起きるたびに、SNSなどインターネット上では、関東大震災直後に多数の朝鮮人や中国人が虐殺された事件(「1923年関東大震災ジェノサイド」)*1の引き金となった「○○人が井戸に毒を入れた」というデマを模倣した民族差別煽動デマが流されます。このような民族差別煽動デマが卑劣かつ危険なものであることは、先に述べた事件を想起すれば容易に分かるはずです。それにもかかわらず、そのような民族差別煽動デマを「つまらない冗談ではあるが、それは決して民族差別煽動ではない」と言う人が少なからずいるというのは、本当に由々しきことです。

たしかに、デマの張本人は「ほんの軽い冗談」のつもりなのでしょう。しかし、だからといって卑劣かつ危険な民族差別煽動デマを「冗談」の一言で済ますことは許されません。「○○人が井戸に毒を入れた」というデマは、特定の民族や国籍に属する人々を敵視して罪人扱いするものであり、そして民衆の憎悪を特定の民族や国籍に属する人々に向けさせるものです。したがって、「○○人が井戸に毒を入れた」というデマは、たとえそれが現代においていかに荒唐無稽なものであっても、民族差別煽動以外の何ものでもありません。

民族差別煽動デマを「冗談」の一言で済まそうとする人たちは、きっと自分たちが中立的な立場にいるものと思っていることでしょう。しかし、卑劣かつ危険な民族差別煽動を「冗談」に矮小化する彼らは、民族差別煽動の立派な「共犯者」です。また、彼らは「冗談」に対して真剣に怒る人たちを冷笑することで、自分が利口な人間であることをアピールしたいのかもしれません。私は、そんな利口ぶった冷笑家気取りの輩に嗤われようとも、卑劣かつ危険な民族差別煽動デマを絶対に許しません。何度でも言います。「○○人が井戸に毒を入れた」というデマは、「冗談」の一言で済ませてはならない、卑劣かつ危険な民族差別煽動です。

そもそも「ほんの軽い冗談のつもりだった」というのは、何の言い訳にもなりません。「○○人が井戸に毒を入れた」というデマはれっきとした民族差別煽動ですが、民族差別が娯楽として軽い気持ちで消費されるというのは、実に恐ろしいことです。しかも、「○○人が井戸に毒を入れた」というデマは、冒頭で述べたように「1923年関東大震災ジェノサイド」を引き起こしたものです。それが「ネタ」と称されて軽々しく娯楽として消費され、「冗談」の一言で許されてしまうというのは、日本人の多くが「1923年関東大震災ジェノサイド」に真摯に向き合ってこなかったことを如実に表しています。日本人の多くが「1923年関東大震災ジェノサイド」に真摯に向き合ってこなかったこと、それはつまり、「1923年関東大震災ジェノサイド」が、まさに「今ここにある危機」だということです。だから私は、どんなに冷笑されようとも、卑劣かつ危険な民族差別煽動デマを絶対に許しません。

 

問うべきは「誰のための不買運動か」ではなく、「日本製品の不買運動が何に対する闘争であるか」だ。

誰のための不買運動?(「どこにいても、私は私らしく」#13)|クオンの本のたね|note

 

2019年に日本による対韓輸出規制強化を受けて韓国で起きた日本製品不買運動に関しては、たしかにそれを迷惑だと思う韓国人もいたことでしょう。成川さんが、日本人である前に一人の人間として、日本製品不買運動を迷惑だと思う韓国人の意見に同調するのは、もちろん自由です。

しかし、「誰のための不買運動なのか、みんな冷静に考えてほしい」と言うのは、不買運動に参加した韓国の市民を「理性的な我々とは違う、感情的な彼ら」と、ある種の植民地主義的なまなざしで見ているように思えてなりません。

「誰のための不買運動?」と問う成川さんは、要するに「日本製品不買運動なんて、ただ迷惑なだけで誰のためにもならない」と言いたいのでしょう。しかし、ここで問うべきは「誰のための不買運動か」ではなく、「日本製品不買運動が何に対する闘争であるか」です。

私が思うに、日本製品不買運動は、決して日本に対する感情的な反発ではなく、不買運動の発端である日本政府による経済侵略の背後にある新植民地主義に対する闘争です。すなわち、それは、日本政府による経済侵略の背後にある新植民地主義的な「日韓65年体制」を支え、その恩恵を受けている日本資本と親日派韓国資本に経済的な打撃を与えることを通じて、日本政府による経済侵略とその背後にある新植民地主義に対して抵抗する闘いだということです。

成川さんは、「商品が消費者に届くまでには、企画した人、作った人、運んだ人、販売した人、本当にたくさんの人が関わっていて、そこには日本人もいるだろうし、韓国人もその他の国の人もいるかもしれない。いろんな人が汗水流して生まれた商品のはずだ」と言います。しかし、資本主義の下では、資本家が労働者を搾取することで生み出された「商品」は、あくまでも資本家の所有物でしかありません。そして、日本製品不買運動は、そのような「商品」を新植民地主義的な「日韓65年体制」の下で売ることによって利益を得る、日本資本主義に対する闘争です。それゆえ、不買の対象である日本製品が「いろんな人が汗水流して生まれた商品のはずだ」ということは、資本主義に対する闘争についての議論においてはナンセンスな感情論でしかありません。このことは、冷静に考えれば分かるでしょう。また、新植民地主義に対する闘争である日本製品不買運動を極右主義的な朝日新聞不買運動と並べて語るというのも、実にナンセンスです。

日本人が、不買運動を「ただ迷惑なだけで誰のためにもならない」と言うのは、まるで労働者のストライキを「ただ迷惑なだけで誰のためにもならない」と言うようなものであり、それはプチブル的な冷笑主義です。もちろん、日本人が、日本人である前に一人の人間として、韓国の市民による不買運動に対して冷笑的な態度をとるのは自由です。しかし、日本人がそのような態度をとることができるのは、つまるところ、日本人である前に一人の人間であっても、やはり「日本人」だからでしょう。成川さんも、日本製品不買運動は日本側に原因があると認識しているようです。しかし、それならば「誰のための不買運動?」と言う前に、不買運動に込められたメッセージがいったい何であるかを考えるのが誠実な態度であるといえるのではないでしょうか。