あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

天皇制反対を冷笑する「リベラル」派の誤解

昨今、天皇制に反対する人を冷笑するような「リベラル」派の言説を見聞することが、しばしばあります。すなわち、天皇制反対を訴えることを、「天皇制を支持する国民が多数という現実から目を背け、己の信条に固執する教条主義的な態度」だというのです。

おそらく、そのような言説に共感する「リベラル」派は少なくないでしょう。しかし、今の日本の状況で天皇制反対を訴えることを「教条主義」だなどというのは、大きな誤解です。天皇制は、身分差別という「多数決の論理」が妥当しない人権の問題なのですから、私たちが直視すべき「現実」は、「天皇制を支持する国民が多数であること」ではありません。“天使の顔”をした「象徴天皇制」という天皇ファシズムに次々と人民が絡めとられ、それにより個人の尊厳がますます蔑ろにされていくというのが今の日本の状況であり、それこそが、私たちが直視すべき「現実」なのです。そして、だからこそ左翼は天皇制反対を訴えるのです。

「現実を見る」ことは、権力に迎合し、権力によってつくられた現状を追認することでは、決してありません。そのような現状追認は、修正主義どころか右翼日和見主義でしかありません。そもそも、人権の問題で「国民の多数が支持している」などという話を持ち出すこと自体、詭弁と言わざるを得ません。

教条主義」云々を言うのであれば、たとえば「天皇の制度というのは憲法上の制度なのだから、天皇制を尊重し天皇に敬意を持つのが当然だ」などと考えることのほうが、よほど「教条主義」だといえます。もっとも、こう言うと「それならば憲法9条を変えないことも教条主義だと言わなければならなくなる」と批判されるかもしれません。しかし、その批判は妥当なものではありません。なぜなら、平和主義は憲法の究極の目的である個人の尊厳の確保に資するものであるのに対し、身分差別制度である天皇制は個人の尊厳と本来的にそぐわないという、本質的な違いがあるからです。過去のエントリでも書きましたが*1、「護憲」とは、必ずしも「憲法を変えないこと」ではありません。

天皇制に反対する人を「現実を見ていない」と冷笑する「リベラル」派は、どうか「現実を見る」ことの意味を履き違えないでください。