葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

歴史を忘れた「日韓関係」に未来はない

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朝日新聞のこの社説は、一口で言うと、非対称な「どっちもどっち論」で「問題の本質」をはぐらかす、(朝日新聞らしいといえば朝日新聞らしい)浅薄な社説です。

たしかに、この社説も、「『過去の直視』を日本が怠り……」と、日本の責められるべき点について触れてはいます。しかし、靖国問題や教科書問題、あるいは旭日旗問題といった具体的問題には触れていません。その一方で、「宣言が乗り越えようとした『不幸な過去』がくすぶり続ける」要因として、6年前の李明博大統領(当時)の独島訪問や、秋元康氏作詞のBTS(防弾少年団)新曲が発売中止となった件を挙げるなど、あたかも「韓国側の反日的な態度こそが宣言が乗り越えようとした『不幸な過去』をくすぶらせている」とでも言いたげな論調です。これは、この社説を読んだ(リベラルな)日本国民に「日本の側にも非はあるかもしれないが、韓国側の反日的な態度こそが未来に向けた良好な日韓関係の構築を妨げている」という印象を抱かせるでしょうが、しかしそれは「日韓関係」の問題の本質を見誤らせるものでしかありません。

そもそも6年前の李明博大統領(当時)の独島訪問は、日帝による植民地支配を正当化する日本政府(当時は野田政権)への対抗として行われたものであって*1李明博氏が右派政治家であることを考慮しても、単なるナショナリズム高揚のためのパフォーマンスとして行われたものではありません。しかるに、その点に触れずに「『不幸な過去』がくすぶり続ける」要因としてあげるのは、読者に「韓国側の反日的な態度こそが未来に向けた良好な日韓関係の構築を妨げている」という印象を抱かせる「悪意」があると思えてなりません。

また、「BTS新曲発売中止問題」に関しては、古家正亨氏の「文化に政治やナショナリズムを持ち込もうとする新たな動きが、日韓双方に出始めている。とても心配だ」というコメントを紹介していますが、古家氏のこのコメントこそ、まさにフジロックに出演したSEALDsの奥田愛基氏が浴びせかけられた「音楽に政治を持ち込むな」ではないでしょうか*2。なお、古家氏に関しては以前のエントリ*3でも批判しましたが、韓国のポップカルチャーを「歴史を忘却させるためのコンテンツ」にしてしまうのは、まさに愚の骨頂です。

そして、この社説は「慰安婦問題」に関しても、大きな誤りを犯しています。

「韓国政府は合意の破棄を否定しつつも、前政権の失政だとして事実上の形骸化を図り、責任を果たそうとしない」と言いますが、文在寅政権は日本軍性奴隷被害者に対する責任を果たそうとするからこそ、欺瞞的な日韓「慰安婦」合意に対して消極的な態度をとり、日本政府に対して自発的で誠実な謝罪を求めているのです。日本軍性奴隷被害者に対する責任を果たそうとせず、被害者救済(被害者の名誉と尊厳の回復)の形骸化を図っているのは、紛れもなく日本政府です。それを認識せずに韓国政府をあげつらう朝日新聞は、もはや「慰安婦問題」に関して日本政府と「同罪」であるといってよいでしょう。

おそらく、「共同宣言の核心である『過去の直視』を日本が怠り、韓国が『未来志向の関係』を渇望しないのならば、いつまでたっても接点は見つからない」という言説に共感する読者は少なくないでしょう。しかし、この「過去」と「未来」の捉え方は間違っています。「韓国が『未来志向の関係』を渇望」する・しない以前に、他でもなく日本自身が「負の歴史」という「過去」と向き合い、これを克服してはじめて「未来志向の関係」を構築することができるのです。日本の政府やマスメディア、そして国民が日帝による植民地支配を美化し、あるいは正当化し続ける限り、いくら「シャトル外交」などを行ったとしても、決して「未来志向の関係」など構築することはできないでしょう。歴史を忘れた「日韓関係」に、未来はないのです。

もっとも、そもそも「日韓共同宣言」は、権赫泰先生が『平和なき「平和」主義」*4で指摘しておられるように*5、(日本の)植民地支配の責任問題を曖昧にしてしまった「六五年(日韓基本条約)体制」を根本的に問い直すものではなく、むしろ「(『おわび外交」と「国民基金」方式からなる)九五年体制」によって「六五年体制」を補完することで、日本の国家としての責任を矮小化するものにすぎないのかもしれません。皮肉にも朝日新聞のこの社説は、そのことを如実に表しているように思えます。

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역사를 잊은 민족에게 미래는 없다(歴史を忘れた民族に未来はない)光州学生独立運動記念館にて撮影

*1:

https://japanese.joins.com/article/376/157376.html

*2:

www.huffingtonpost.jp

*3:

yukito-ashibe.hatenablog.com

*4:

平和なき「平和主義」 | 法政大学出版局

*5:「例えば、一九九八年一〇月の金大中大統領と小渕恵三総理が共同で発表した「日韓共同宣言——二一世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」は、九五年体制の代表的成果といえる。……だが重要なことは、九五年体制は六五年体制の補完物であって代替物ではないということである。「おわび外交」と「国民基金」方式からなる九五年体制は国家責任と国家賠償を否定し、「おわび」という形に言いかえて、「縫合」を通して「戦後」が生み出した矛盾を体制内へと吸収し、六五年体制を延命させる試みであった。この頃から植民地支配の責任問題は、六五年体制を根本的に問い直すのではなく、「おわび」の内容やその表現を争点とし、矮小化された。」(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局、2016年、15頁–17頁)