葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

高橋哲哉教授の「米軍基地引き取り論」への疑問

「なぜ「県外移設」=基地引き取りなのか」東京大学教授・高橋 哲哉 | 特集/混迷する世界への視座

 

沖縄への異常な基地偏在が「沖縄差別」であることについては、もちろん私も異論はありませんし、私自身が構造的には「差別している側」の人間であることは言い逃れできない事実です。しかし、高橋先生ご自身がおっしゃるように沖縄への異常な基地偏在が「構造的差別」の問題であり、また、「平和主義の憲法」を持つ国である(はずの)日本国の国民が真摯に向き合うべき「日米安保条約」の問題であるからこそ、私は高橋先生の「米軍基地引き取り論」にはどうしても疑問を禁じえません。

まず、高橋先生は「本土(私は、そもそもこの「本土」という言葉に違和感を禁じえないのですが……)への米軍基地引き取り」を正当化する理由として、「日米安全保障条約が『日本の平和と安全に役だっている』という人は、近年の世論調査で80%を超えている。安保条約を『今後も維持することに賛成』の人も、同じく80%に達している」ことを挙げておられます。たしかに、「本土」の「日本国民」の多数が日米安保条約を必要だと考えているということは、「本土への米軍基地引き取り」に一理あるようにも思えます。 しかし、ここで忘れてならないのは、日米安保条約の問題というのは「平和的生存権」という人権の問題である(なお、「平和的生存権」については名古屋高裁自衛隊イラク派遣差止訴訟判決を参照してください*1)ということです。つまり、「平和的生存権」という人権の問題である以上、「多数決の論理」によって日米安保条約による平和的生存権の侵害を正当化することは許されないはずです。しかるに、なぜ高橋先生はその点を無視するのでしょうか。もちろん、「多数決の論理」によって沖縄の人々の平和的生存権が侵害されている現状を正当化することが許されないことは言うまでもありません。しかし、そうであれば、同様に「多数決の論理」によって「本土」の人民の平和的生存権の侵害を正当化することも許されないのです。

もっとも、「沖縄の人々が、米軍基地を存置する決定に一度も参加させられたことがない」のであるから、米軍基地の存置は民主主義的根拠を欠く不当なものであるというのは、たしかに高橋先生のおっしゃるとおりです。しかし、高橋先生はひとつ大事なことを忘れておられます。それは、被治者であるにもかかわらず民主主義のプロセスから疎外されている人々の存在です。そのような人々を「『本土』の国民」に束ねるというのは、全体主義的であると言わざるを得ません。

つぎに、高橋先生は反戦平和運動における「米軍基地は沖縄にも日本のどこにもいらない」というアピールを批判し、「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け、今や8割を超え9割に達しようとしている。反戦平和の立場であっても、こうした状況で直ちに『安保廃棄』が見通せない限り、『安保廃棄』が実現するまでは、『県外移設』によって沖縄の基地負担を引き受けるしかないのではないか」ということを主張しておられます。たしかに、直ちに「安保廃棄」が見通せないのは事実です。しかし、だからといって「『県外移設』によって沖縄の基地負担を引き受けるしかないのではないか」というのは、「現状追認」にほかなりません。それは、あたかも「憲法は『戦力』の保持を禁止しているが、現実には自衛隊という『戦力』が存在するのであるから、憲法を改正すべきである」と言うのと同じです。それに、「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け、今や8割を超え9割に達しようとしている」ことを理由に、「安保廃棄」を唱えることが無駄だというのであれば、「本土」に米軍基地を引き取ったところで、在日米軍が拡大・増強するだけであって、それは沖縄の人々に米軍基地を押しつけている「真の主犯」である米日両政府を利するだけです。そもそも、沖縄への異常な基地偏在が「構造的差別」の問題だとすれば、その差別構造を真に必要としているのは、いったい誰でしょうか。この点について、私は「米軍基地引き取り論」に、「一億総懺悔論」に通ずるものを感じてしまいます。

お断りしておきますが、私は厄介だから(もっとも、基地周辺の住民にとって基地は厄介以外の何ものでもないでしょうが)というだけの理由で「米軍基地引き取り論」を批判しているのでありません。日本に米軍基地が存在することそれ自体がアメリカの戦争への加担であるから、批判しているのです。高橋先生も「在日米軍基地から海外の紛争地域に米軍が出撃し、戦後日本は朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争、『対テロ戦争』、イラク戦争などで事実上米軍に加担してきた」とおっしゃっています。そしてまた、「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」ともおっしゃっています。それなのに、どうしてアメリカへの戦争への加担を容認するのでしょうか。その点に関して、高橋先生は「問題解決のプロセスのなかで安保条約を『前提』せざるをえないことと、安保条約を『容認』することとは違う」とおっしゃっていますが、私には苦し紛れの言い訳にしか聞こえません。「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」のであれば、問うべきは「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」です。しかるに、「安保条約は『前提』なのだから不問に付すべし」というのは、「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」を容認することにほかなりません。そもそも、「問題解決のプロセスのなかで安保条約を『前提』せざるをえない」とは、いったいどういうことでしょうか。「安保条約が事実として存在し、それを前提として現実が動いている以上、基地問題について対応しようとすれば、誰もがそれを前提として動かざるをえない」というのも、やはり「現状追認」でしかありません。また、差別的な地位協定に関しては、その根源である「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」そのものを問うこともできるのであって(「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」立場からは、むしろ「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」そのものを問うのが筋でしょう)、「日米安保条約」を絶対的な前提として話を進めるのは、はっきり言って詭弁です。

「前提」についていうのであれば、そもそも日本の人民が米軍駐留の「利益」を享受しているというのは、あくまでも日米両政府の「言い分」であって、正しくはありません。在日米軍は、あくまでも米軍の世界戦略というアメリカの利益のためのものです。日本の利益は、アメリカの戦争に加担することで得られる反射的なものにすぎず、しかも、それはあくまでも「国家」の利益であって、人民の利益ではありません。そうであれば、「本土への米軍基地引き取り」を正当化する理由として「利益の享受」云々を持ち出すのは、まったくのナンセンスです。それこそ、国家の「言い分」を鵜呑みにした、まさに「思考停止」ではないでしょうか。「茶色の朝」を迎えたくなければ、思考停止をやめることです*2

しばしば「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」ということが言われますが、それは間違いです。「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」のではなく、日本がアメリカの戦争に加担しているのです。米軍基地問題に関しては、よく「日本国民は当事者意識を持て」ということが言われますが、憲法9条の存在にもかかわらず日本がアメリカの戦争に加担していることをしっかりと認識するのも、これもまた日本国民に必要な「当事者意識」ではないでしょうか。

「当事者意識」について、高橋先生が「『本土』の有権者が『県外移設』=基地引き取りに向き合うことは、安保廃棄の道筋としても必要であ」るとおっしゃるのは、「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができないだろう、ということなのでしょう。たしかに、沖縄の米軍基地問題を他人事と思っている「『本土』の有権者」には、そのような荒療治が効果的かもしれません。しかし、私はそれに「平和のための徴兵制」論と同様の危うさを感じます。はたして「アメリカの戦争への加担」を伴うものだけが、沖縄の米軍基地問題を他人事と思っている「『本土』の有権者」に「当事者意識」を持たせるために採るべき唯一の方法でしょうか。米軍基地問題の解決という恒久平和主義の実現のために、「アメリカの戦争への加担」を容認するというのは、それこそ本末転倒ではないでしょうか。そもそも、「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができない」と決めつけるのは、「教育者」の態度としていかがなものかと思います。もし「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができない」というのが真実だとすれば、それはまさに「知性の敗北」でしょう。

沖縄タイムスは、高橋先生の「米軍基地引き取り論」を「筋の通った理(ことわり)は胸に響く」と称賛しています*3。しかし、残念ながら私には、それが「筋の通った理」であるとは思えません。それどころか、学者としての「知的誠実さ」を欠くものであるように感じられます。私自身、高橋先生の『国家と犠牲』*4から多くを学んだ一人ですので、ほかならぬ高橋先生ご自身が国民動員の巧妙な「犠牲の論理」に囚われてしまったことを、大変残念に思います。

最後に、高橋先生は「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け……」と冷笑なさるでしょうが、それでもあえて言います。米軍基地は、沖縄にも日本のどこにもいらない!これ以上誰も、殺し、殺されるな!