あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

「多様性」は、差別を決して許容しない。

 

「差別は多様性のひとつの形である」という柴田英里氏の言説に賛意を示す人は、残念ながら少なくないようです。おそらく、柴田氏らは「違い」に着目して差別的取扱いをすることが「多様性」の意義に適うと考えているのでしょう。しかし、柴田氏らは「多様性」が求められることの意義を誤解しています。

「多様性」が求められるのは、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」(世界人権宣言第1条)*1だからです。すなわち、一人ひとり違う人間の「個人の尊厳」を確保するために「多様性」が求められるのです。

かかる「多様性」が求められることの意義に鑑みると、マイノリティの個人の尊厳を踏みにじる差別は、「多様性」が求められることの意義に適うどころか、むしろ悖るものです。つまり、「多様性」は、差別を決して許容しないのです。

「多様性とは判で押した画一性ではない」と主張する柴田氏は誤解していますが、差別というのは「『個』の違い」を尊重することで社会の「多様性」を志向するものではなく、むしろ「異なる『個』」を排除することで社会の「画一性」を志向するものです。民族差別が「(日本人の)単一民族国家」という「画一性」を志向するものであることや、性差別が「男性社会」という「画一性」を志向するものであることを考えると、このことがよく分かるでしょう。「多様性」は、かかる「画一性」を志向するマジョリティの「暴力」からマイノリティの「個人の尊厳」を守るための手段であり、それは決してマイノリティの個人の尊厳を踏みにじるマジョリティの「暴力」を正当化するための方便ではありません。

「差別は多様性のひとつの形である」という言説がたやすく受け入れられてしまうのは、おそらく「多様性」という言葉がひとり歩きしてしまっているからでしょう。しかし、「多様性」が求められることの意義に遡って考えてみれば、「差別は多様性のひとつの形である」という言説が間違いであることはすぐに分かるはずです。先にも述べたように、「多様性」が求められることの意義に鑑みれば、差別は「多様性のひとつの形」であるどころか、むしろ多様性とはおよそ相容れない代物なのです。

この拙稿が、「差別は多様性のひとつの形である」という誤解を正す一助になれば幸いです。