葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

ヘイトスピーチは人権侵害以外の何ものでもない。

“一方、浅野善治・大東文化大大学院教授(憲法学)は「審査結果の正しさや公平性をどう担保するのかが不透明だ。ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なるため、審査会では抽象的な基準でしか議論できない」と指摘。”

ヘイト、刑事罰条例成立へ 川崎市、違反3回で最高50万円罰金:朝日新聞デジタル

 

ヘイトスピーチに関して、浅野善治教授のように「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」と言う「有識者」は少なくないと思います。

たしかに、ヘイトスピーカーヘイトスピーチを悪いと思っていないでしょう。しかし、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても、ヘイトスピーチはマイノリティの人権を客観的に侵害するものにほかなりません。それとも、日本社会には「善い」民族差別煽動があるとでもいうのでしょうか。

「人によって善悪の判断が異なる」というのは、究極的には窃盗や殺人についても言えることです。それなのに、どうして窃盗や殺人については「人によって善悪の判断が異なる」などと言わずに「万人にとっての悪」だと言うのでしょうか。民族差別を窃盗や殺人のように「万人にとっての悪」だと言わないのは、やはり日本という国では民族差別が「善」だということなのでしょうか。

個人の尊厳が人類普遍の原理であることに鑑みれば、ヘイトスピーチがマイノリティの人権を客観的に侵害するものである以上は、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても、これを許してはなりません。法学的に見ても、当該条例案が定める構成要件は十分に厳格なのですから*1、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても「法の不知はこれを許さず」です。

ヘイトスピーチは人権侵害以外の何ものでもありません。つまり、ヘイトスピーチに「善い」も「悪い」もないのですから(あえて言うなら、人権侵害であるヘイトスピーチは「万人にとっての悪」です)、「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」というのは詭弁です。このような詭弁によってヘイトスピーチを許してきた結果が、罰則によらなければヘイトスピーチによる人権侵害を抑止できない今の状況だということを、「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」などと平気で言う「有識者」は認識すべきです。もっとも、国家やマジョリティがマイノリティを踏みつけるのをやめさせるために知識を生かすのではなく、国家やマジョリティがマイノリティを踏みつけるのを正当化するために知識を生かすのが、日本の「有識者」の仕事なのかもしれませんが。