あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

伊勢崎ゼミがいうところの「混ジャパ」である私が考える、「純ジャパ/混ジャパ」をめぐる議論の問題点。

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「日本人」である父と「在日コリアン」である母との間に生まれた私は、まさに伊勢崎ゼミがいうところの「混ジャパ」ですが、そんな私が何よりもまず彼らに言いたいのは、「私のルーツやアイデンティティを弄ぶのもいい加減にしてください」ということです。

冒頭に掲げたリンク先の記事では、“「潜在的な分断」に目を向ける上で、少なからず意味があった”、“あるいは普段は見えない「潜在的な分断」をあぶり出す起爆剤になったのかもしれない”とポジティブに捉えられていますが、私はマジョリティの「教材」として役立つために生まれたのではありません。

「純ジャパ」であるマジョリティが「『純ジャパ』になれない『日本人』である『混ジャパ』だって『日本人』だ」と言うのは、要するに「『混ジャパ』は『純ジャパ』になれない存在ではあるが、それでも『ジャパ』である以上は『日本人』の仲間に入れてあげよう」ということです。もっとも、彼らにとって大事なのはたとえ「混」であっても「ジャパ」であることですから、「混ジャパ」にもなれない人のことは「外国人」として疎外し続けるでしょう。つまり、「『混ジャパ』だって『日本人』だ」というのは、「多様性」で粉飾した「同化と排除の論理」でしかないのです。

そもそも、はたして「混ジャパ」はマイノリティなのでしょうか。たしかに、「混ジャパ」は「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立においてはマイノリティでしょうし、また、「見た目による差別」などといった事実上の差別を受けることもあるでしょう。しかし、父が「日本人」である「混ジャパ」の私は日本社会のマジョリティである日本国籍者ですし、(1984年改正、85年施行の)改正国籍法により父系優先血統主義から父母両系血統主義となった結果*1、「混ジャパ」は原則として日本国籍を取得することから、「混ジャパ」の多くが日本社会のマジョリティである日本国籍者であると考えられます(ただし、「混ジャパ」は日本国籍の取得によって重国籍となることから、多重国籍を認めていない日本では一定の期限までに国籍の選択をしなければなりません*2。)。そうだとすれば、日本国籍者である「混ジャパ」を、事実上のみならず法律上も差別される日本国籍者ではないマイノリティと同じ意味で「マジョリティ」と言うことはできません。「純ジャパ/混ジャパ」をめぐる議論では、この点が看過されているように思えます。

伊勢崎ゼミの指導教員である伊勢崎賢治氏が言う「潜在的な分断」というのも、その趣旨はいまいち不明瞭ですが、「『混ジャパ』のマジョリティ性」に鑑みれば、要するに「マジョリティである日本人(=日本国籍者)が(紛うことなき『日本人』である)『純ジャパ』と(『純ジャパ』になれない『日本人』である)『混ジャパ』に分断されている」といった程度の話でしょう。つまり、「混ジャパ」を「日本人」に同化することで「マジョリティである日本人」の分断を解消する一方で、「『混ジャパ』にもなれない『外国人』」が疎外され続ける状況を無視ないしは軽視するものであり、やはりそれは「同化と排除の論理」でしかないということです。

「混ジャパ」をポジティブに捉える人は、おそらく「日本人」という概念に多様性を持たせたいのでしょう。しかし、「日本人」という概念の多様性は、それこそ「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立を乗り越えたところにあるのではないでしょうか。もっとも、天皇制という「同化と排除の論理」に貫かれた制度が存在し、また、「日本人」の概念が極めて人種主義的な国籍制度と緊密に結びつけられてしまっている現状では、ただ「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立を乗り越えるだけでは、「日本人」という概念に多様性を持たせることは決してできないでしょう。「日本人」という概念に多様性を持たせるには、やはり天皇制という「同化と排除の論理」に貫かれた制度を廃止し、極めて人種主義的な国籍制度と緊密に結びついた「日本人」の概念をいったん解体して再構築する(それにより、極めて人種主義的な国籍制度は必然的に変革を迫られます。)必要があります。