あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

我々“オタク”に自由があるのと同じように、“フェミニスト”にも自由がある。

“オタク”の中には、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」と言う人が少なからずいます。

言うまでもなく、“オタク”がフェミニストの批判に反論するのは自由です。しかし、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」と言う人は、国家とは異なり“フェミニスト”が(一人の人間である以上、当然に)言論の自由という人権の主体であることを看過する過ちを犯しています。

まさか、“オタク”は“フェミニスト”を巨大企業のような強大な事実上の社会的権力をもつ国家類似の存在だとでも言うのでしょうか。しかし、それならば“オタク”が支持するであろう反表現規制団体によるロビー活動も社会的権力の行使だと言わざるを得ないでしょう。

憲法が原則として国家と私人の関係を規律するものであるのは、人権が国家に対する闘争によって獲得されてきたという歴史的経緯もありますが、本質的な理由は、私人と私人の関係においては、当事者双方がそれぞれ自由をもっているからです。つまり、“オタク”に表現の自由があるのと同じように、フェミニストにも性的表現を批判する言論の自由があるのです。そして、“フェミニスト”の言論の自由は人権なのですから、それをまったく性質の異なる国家の権力と同視して、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」などと言うことは誤りなのです。

私は、あえて“オタク”として自戒的に言います。我々“オタク”は、我々自身に自由があるのと同じように、“フェミニスト”にも自由があることを忘れてはなりません。それは、正しい議論をするための不可欠な前提です。