「表現の自由」が人権として日本国憲法で保障されていることは、多くの人の知るところだと思います。
それでは、なぜ「表現の自由」は、人権として憲法で保障されているのでしょうか。それは、単に「自由」だから保障されているのではありません。人権として憲法で保障する価値があるから、保障されているのです。
「表現の自由」には、二つの大切な価値があります。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)です。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)です(芦部信喜『憲法』岩波書店)。そして、これら二つの大切な価値があるからこそ、「表現の自由」は人権として憲法で保障されるのです。
それならば、はたして「ヘイトスピーチ」は、その自由が人権として憲法で保障される「表現」であるといえるでしょうか。すなわち、「○○人は日本に巣食う害虫」だとか「良い○○人も悪い○○人も全員殺せ」などといった「表現」が、「個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値」や「言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値」に適うものといえるでしょうか。私は、「ヘイトスピーチ」が「自己実現の価値」や「自己統治の価値」に適うどころか、むしろそれらを損なうものであると思います。
「ヘイトスピーチも、その自由が人権として憲法で保障される『表現』である」と信じて疑わない人は、どうか一度だけでも、なぜ「表現の自由」が人権として憲法で保障されているのか、について考えてみてください。