葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本人の人種差別や民族差別への無頓着さは、どこからくるのか。

 

 

今般のアメリカでの人種差別問題*1に関して、日本でも抗議デモに対して「連帯」を表明する人がいるものの、冷淡な人も決して少なくないでしょう。この、日本人が人種差別問題に冷淡である理由として、アメリカのように多民族社会ではない日本では人種差別や民族差別がほとんどないからだ、ということを挙げる人が少なからずいます。それが「日本は単一民族国家である」という幻想に囚われた誤解であることは、少し考えれば容易に分かることです。

多数の日本人が人種差別や民族差別に無頓着であるとして、それは日本に人種差別や民族差別がほとんどないからではありません。むしろ、日本社会が差別で成り立っている社会であり、そのことを「国民」に気づかせないようにするための巧みな仕掛けが施されているからです。つまり、日本人の人種差別や民族差別への無頓着さは、差別で成り立つ日本社会が作り出すものであるといえます。

先述の「日本は単一民族国家である」という幻想と、それを生み出し支える天皇制は、まさに日本社会が差別で成り立っている社会であることを「国民」に気づかせないようにするための巧みな仕掛けです。もっとも、差別で成り立つ日本社会では、「国民」は「差別する側」であると同時に「差別される側」でもあるのですが、日本社会が差別で成り立っている社会であることに気づかない「国民」は、もちろん自分が「差別される側」であることにも気づかないでしょう。そして、それは「国民」を差別する側の権力者にとって実に好都合なのです(もっとも、日本社会が差別で成り立っていることをよく知った上で、差別に抗せず差別者としてとして振る舞う人も少なからずいますが、そういう人のことを「差別主義者」といいます。)。

日本社会が差別で成り立っている社会であることを「国民」に気づかせないことは、差別が人権侵害であり、許されざる悪であるという認識や感覚を希薄にしてしまいます。もちろん、多くの日本人も抽象的には差別が「悪」であることを知っているでしょうし、だからこそ新型コロナウイルス禍では多くの日本人が欧米での日本人差別に怒り、また、今般の今般のアメリカでの人種差別に心を痛める日本人も皆無ではないのでしょう。しかし、例えば日本の政府や自治体による朝鮮学校差別に関しては、それが憲法だけでなく国際条約に違反する差別である*2にもかかわらず、多数の日本人は「悪」と認識しないどころか、それを「悪い『北朝鮮』に対する正義の制裁」だと認識しているのです。そして、民族差別が、いわば「国民的道徳」と化したことで、多くの日本人が、まるで天気の話でもするかのように他民族への憎悪を口にするのです。こうした民族差別の「国民的道徳」化によって、「国民」は日本社会が差別で成り立っている社会であることにますます気づきにくくなります。

今般のアメリカでの人種差別問題が、人種差別にいまいちピンと来ない日本人がアメリカの人種差別について知る機会になるとすれば、それはそれで良いことだと思います。しかし、それだけでなく、(人種差別にいまいちピンと来ない日本人が)昨日今日に始まったことではない日本社会の根深い構造的な問題であり、あるいは日本の「国是」ともいえる日本社会の民族差別としっかり向き合う契機になればいいと思います。いや、「日本社会の民族差別としっかり向き合う契機になればいい」というより、むしろ日本社会の民族差別としっかり向き合う契機にしなければなりません。もっとも、結局のところ日本人にとってはアメリカの人種差別問題も、ナチスによるホロコーストが日本の戦争加害の歴史を忘れながら「日本人の良心」を満たすために消費するものであるのと同じように、日本社会の民族差別から目を背けながら「日本人の良心」を満たすために消費するものでしかないのかもしれませんが。