あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

マイノリティの人権は、マジョリティからの“ご褒美”ではない。

マイノリティの権利(もっとも、それは単なる権利ではなく人権ですので、以下ではマイノリティの権利=人権であるとして話を進めます。)について、マジョリティはしばしば「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」と言います。おそらく、この言説に共感するマジョリティは少なくないでしょう。しかし、私は、私自身がマジョリティではあるものの、この欺瞞に満ちた言説には共感できません。

いったい、いつになったらマジョリティはマイノリティに共感するというのでしょうか。おそらく、「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと言うマジョリティは、マイノリティがどれだけ誠実に訴えたとしても、あれやこれやと難癖をつけて、いつまでも共感しないでしょう。なぜなら、彼は自分の持っている権利をマイノリティが持っていないことで、自分が「(マイノリティが持っていない)権利を持つ価値のある、特別な人間」であることを確認することができるのですから。しかし、彼は本当に「権利を持つ価値のある、特別な人間」なのでしょうか。彼の持っている権利は、本当に彼のようなマジョリティしか持つことができないものなのでしょうか。

そもそも「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと言うマジョリティは、勘違いしています。マイノリティの人権は、マジョリティから“ご褒美”として与えられるものではありません。人権は、誰かから与えられるようなものではなく、人間が人間であることにより当然に有する権利です。しかるに、どうして人間として当然の権利を主張するのに、マイノリティはマジョリティのご機嫌をうかがわなくてはならないのでしょうか。マイノリティの人権は、マジョリティのご機嫌次第で認められるようなものではありません。マイノリティの人権がマジョリティのご機嫌次第で認められるものだとするのは、「マイノリティを煮て食おうと焼いて食おうとマジョリティの勝手」だと言うようなものです。「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」という言説に共感するマジョリティは、その醜悪さにいい加減気づくべきです。

「意識」を変えるべきなのは、マイノリティではなく、ほかならぬマジョリティです。つまり、マジョリティである私やあなたは、マイノリティに対して「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと求める(それは、マジョリティの傲慢以外の何ものでもありません。)のではなく、私たちが「しなければならないこと」をするべきです。ただ、それはマイノリティの主張に共感することではありません(もちろん、マイノリティの主張に共感してはならないなどと言うつもりはありません。ですが、そもそもマイノリティの人権は、私たちの共感などとは関係なく存在するのです。)。マジョリティである私たちが、なによりもしなければならないのは、マイノリティを踏みつけているこの足を退け、マイノリティを踏みつけているあの足を退けさせることです。もっとも、それは、決してマイノリティのためにするのではありません。それは、私やあなたの「個人の尊厳」のためにするのです。マイノリティの「個人の尊厳」が確保されない社会は、およそ「個人の尊厳」が確保されるものではないのですから。