葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「ネトウヨ」も「良い日本人」も、抑圧者たるマジョリティであることに変わりはない。

日本社会の民族差別について、よく「ネトウヨばかりではなく、良い日本人だっているのだけど……」と言う「良い日本人」がいます。

もちろん、日本人が「ネトウヨ」ばかりではないのは、そのとおりです。しかし、日本社会の民族差別に関して言えば、実のところ「良い日本人」がいるかどうかは問題ではありません。

[……]良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるということは真実ではないからだ。植民者がいる。それだけのことだ。

 

J-P・サルトル植民地主義は一つの体制である』

民族差別は、「個人の性格の良し悪し」の問題ではなく、日本社会における「構造」の問題です。そして、その「構造」の下では「ネトウヨ」も「良い日本人」も、抑圧者たるマジョリティであることに変わりはないのです。

私は、(私が「日本人」であるかどうかはさておき)自分を「良い日本人」だとは言いません。なぜなら、「良い日本人」であろうとなかろうと、私が抑圧者たるマジョリティであることに変わりはないからです。そして、私は日本社会の民族差別について「日本人として申し訳ない」とも言いません。なぜなら、抑圧者たるマジョリティである私が今やるべきことは、「日本人として」申し訳なく思うことではないからです。

日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。

 

梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史

抑圧者たるマジョリティである私が今やるべきことは、まさに「これをこわしていくこと」、すなわち日本社会の民族差別を生み出す「構造」をこわしていくことです。

麻生「一つの民族」発言問題の本質

「一つの民族」発言、麻生氏が謝罪「誤解生じたなら訂正」 TBS NEWS

 

麻生太郎氏の発言は、単にアイヌ新法と矛盾するから問題なのではありませんし、また、単に「皇国ファンタジー」だから問題なのではありません。

たしかに、麻生氏が言う「(日本が)2000年の長きにわたって、一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝を126代の長きにわたって、一つの王朝が続いている国」だというのは、史実的に誤りです。しかし、おそらく麻生氏は、それが誤りであることを十分わかった上で、あのような発言をしたのでしょう。思うに、麻生氏のような極右主義者にとって、自らの歴史認識が史実的に正しいか否かなどは取るに足らないことです。なぜなら、彼らにとって重要なのは、「日本は天皇を戴く単一民族国家である」という言説が史実的に正しいか否かではなく、その言説がもたらす“効果”だからです。

「日本は天皇を戴く単一民族国家である」というのは、すなわち「日本神話」を共有する民族以外の民族の存在を否定するということです。そして、それは民族殲滅につながるレイシズムであるといえます。つまり、麻生氏の「一つの民族」発言は、民族殲滅につながるレイシズムであるから、これを許してはならないのです。

このように、麻生氏の「一つの民族」発言問題の本質は、麻生氏の発言が皇国史観にもとづく虚妄であることよりも、民族殲滅につながるレイシズムだということにあります。もっとも、そのレイシズムを支えるのが皇国史観であり、天皇制であることは、やはり看過してはならないでしょう。

天皇制廃止の目的は、あくまでも人民の解放である。

www.asahi.com

 

私は天皇制廃止論者です。しかし、天皇制廃止の目的を「天皇や皇族の解放」であるとする論には与しません。

天皇制は、神話という虚構に由来する天皇の権威によって人民を支配するための制度なのですから、それを廃止する目的は、あくまでも天皇制によって抑圧・支配されている人民の解放です。天皇制の廃止によって天皇や皇族が天皇制から“解放”されるとしても、それは人民が解放されることの反射的利益にすぎません。

たしかに、目的が「人民の解放」であろうと、「天皇や皇族の解放」の解放であろうと、結果は同じかもしれません。しかし、だからといって神話という虚構に由来する天皇の権威によって人民を支配するための制度であるという天皇制の本質を看過することは、知的不誠実であると言わざるを得ないでしょうし、知的不誠実であるのみならず、天皇や皇族の“人権”を心配する一方で天皇制によって踏みにじられている人民の人権を軽視ないし無視することは、まさに天皇制の本質的性格である身分差別にほかなりません。つまり、天皇制廃止の目的を「天皇や皇族の解放」であるとする論は、「天皇制の論理」にとらわれた思考の産物だといえます。

そして、人民の解放を目的としない天皇制廃止運動によって天皇制が廃止されたとしても、日本の真の民主化を実現することは決してできないでしょう。天皇や皇族の解放がもたらす“恩恵”として与えられる「民主化」など、アメリカから“恩恵”として与えられる「民主化」と同様、まがいものにすぎません。われわれ日本の人民は、自らの解放を志向してこそ、反民主主義的な支配制度である天皇制による支配からの脱却という、日本の真の民主化を勝ち取ることができるのです。

「ヘイトスピーチを法で規制する」ことと「特定の国や民族に対する誤った認識を正す」ことは、決して相容れないものではない。

在日外国人との交流施設に “脅迫”年賀はがき 川崎 | NHKニュース

 

ヘイトスピーチの法規制に関して、「ヘイトスピーチを法で規制するより、特定の国や民族に対する誤った認識を正すほうがよい」という言説があります。おそらく、この言説に賛同する「リベラル派」も決して少なくないでしょう。

たしかに、ヘイトスピーチを根絶するためには、特定の国や民族に対する誤った認識を正すことが必要不可欠です。しかし、そうだとしても、日本社会におけるマジョリティである日本国民が特定の国や民族に対する誤った認識を改めるまで、日本社会のマイノリティはヘイトスピーチという卑劣な人権侵害によって実存を脅かされ、尊厳を踏みにじられ続けなければならないのでしょうか。いったい、いつになったら日本国民は特定の国や民族に対する誤った認識を改めてヘイトスピーチをやめるのでしょうか。

ヘイトスピーチを法で規制する」ことと「特定の国や民族に対する誤った認識を正す」ことは、決して相容れないものではありません。先に述べたように、ヘイトスピーチを根絶するためには、特定の国や民族に対する誤った認識を正すことが必要不可欠ですし、また、自由主義の観点からすれば、法規制はできる限りしないに越したことはありません。しかし、自由主義の根底にある「個人の尊厳」という基本原理に鑑みれば、日本国民の特定の国や民族に対する誤った認識が改められず、ヘイトスピーチによってマイノリティの個人の尊厳が踏みにじられ続けるのであれば、ヘイトスピーチを法で規制することもやむを得ないのです。ヘイトスピーチによってマイノリティの個人の尊厳が踏みにじられ続けているにもかかわらず、ヘイトスピーチを漫然と放置することは、自由主義の趣旨に適うどころか、むしろ「個人の尊厳」の確保という自由主義の趣旨に悖るものだといえます。

日本社会においてヘイトスピーチがいつまでたっても根絶されないのは、根本的には日本国民の特定の国や民族に対する誤った認識がいつまでたっても改められないからですが、ヘイトスピーチが卑劣な人権侵害であることの認識が希薄であるというのもあると思います。ヘイトスピーチ憲法で自由が保障される表現などではなく、卑劣な人権侵害でしかありません*1。このことをマジョリティがしっかりと認識するためにも、ヘイトスピーチが「犯罪」であることを法で明確に宣言する必要があります。

ヘイトスピーチを法で規制するより、特定の国や民族に対する誤った認識を正すほうがよい」と言う日本国民のうち、はたしてどれだけの人が特定の国や民族に対する誤った認識を正すために努力しているでしょうか。もちろん、特定の国や民族に対する誤った認識を正すために努力している日本国民も皆無ではありません。しかし、それにもかかわらず、いまだヘイトスピーチが根絶されず、それどころかますますひどくなっています。それは、つまり日本国民の多くが、いまだ特定の国や民族に対する誤った認識を改めていないということです。そうした現実を考えると、ヘイトスピーチに関しては、法規制の是非よりも、いつになったらマジョリティは特定の国や民族に対する誤った認識を改めるのか、マジョリティが認識を改めるまでマジョリティはヘイトスピーチという卑劣な人権侵害によって実存を脅かされ、尊厳を踏みにじられ続けなければならないのか、を問うべきでしょう。それを問えば、法規制の是非についての答えも自ずと出るはずです。

日本は、アメリカの戦争の「共犯者」であることをただちにやめろ。

司令官殺害 イランは報復措置の考え アメリカとの衝突に懸念 | NHKニュース

 

アメリカがイランと戦争を始めたら、日本もアメリカの戦争に巻き込まれてしまう」と言う日本国民が少なくありません。

たしかに、アメリカがイランと戦争を始めれば、アメリカの「同盟国」である日本も無関係ではいられないでしょう。しかし、それは決して「アメリカの戦争に巻き込まれてしまう」のではありません。なぜなら日本は、アメリカの戦争にれっきとした「共犯者」として関係するのですから。

自衛隊員の尊い命が危険にさらされてしまうから、戦争に反対だ」と訴えるリベラル派は、いったい何のために自衛隊が中東へ赴くと思っているのでしょうか。自衛隊は、政府が言うような「国際貢献」のために中東へ赴くのではありません。「同盟国」であるアメリカの戦争に協力するため、つまり人殺しに協力するために中東へ赴くのです。自衛隊員を思い遣るのも勿論結構ですが、自衛隊が協力するアメリカの戦争によって殺される人たちのことも思い遣るべきです。

もっとも、自衛隊員を思い遣ろうが、自衛隊が協力するアメリカの戦争によって殺される人たちのことを思い遣ろうが、「戦争反対」に違いはないかもしれません。しかし、たとえ自衛隊が中東に派兵されなくても、「安全保障」に名を借りた日米軍事同盟の下で日本が支援する在日米軍が、日本の基地から出撃してイランの人々を殺すのであれば、日本がアメリカの戦争に加担することに変わりありません。ベトナム戦争当時、日本の市民は、なぜ日本の基地からベトナムの人々を殺すために出撃する在日米軍を阻止しようと闘ったのでしょうか*1。それは、日本が支援する在日米軍が日本の基地からベトナムの人々を殺すために出撃することが、たとえ間接的といえども日本の戦争加害にほかならないからです。

アメリカがイランと戦争を始めたら、日本もアメリカの戦争に巻き込まれてしまう」と言う日本国民の多くは、おそらく「戦後日本は、憲法9条のおかげで戦争に巻き込まれずに済んだ」という認識なのでしょう。たしかに、「戦後日本」は戦争で自らのを血に染めてこなかったかもしれません。しかし、実際には、「戦後日本」は憲法9条があるにもかかわらず、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争アフガニスタン紛争、イラク戦争……と、「盟主」アメリカの戦争に加担してきました。そして、今もなお、「安全保障」に名を借りた日米軍事同盟の下でアメリカの戦争に加担し続けているのです。

日本国憲法の「平和主義」を日本の戦争加害を忘れるためのものにしてしまわないためにも、日本はアメリカの戦争の「共犯者」であることをただちにやめて、アメリカの戦争に断固として反対しなければなりません。私も日本の人民として、アメリカの戦争に断固として反対します。しかし、それは戦争の被害者にならないためではなく、加害者にならないためにするものです。

それにしても、日本国民はどうして「戦後日本」の戦争加担に、こうも無頓着なのでしょうか。思うに、それは過去の日本の戦争加害の歴史と真摯に向き合おうとしないからです。つまり、過去の日本の戦争加害の歴史と真摯に向き合おうとしないから、現在の日本の戦争加害とも向き合えないのです。

 

「徴用工問題」は、日本側が責任をもって解決すべき問題である。

日韓首脳会談、徴用工問題は平行線 文氏は解決策示さず:朝日新聞デジタル

 

朝日新聞は、「会談で文氏からは(徴用工問題の)新たな解決策は示されなかった」などと書いていますが、どうして文在寅大統領が日帝強制動員問題の解決策を示さなければならないのでしょうか。朝日新聞の記者は勘違いしていますが、日帝強制動員問題(徴用工問題)は、日帝の植民地支配による加害責任の問題なのですから、あくまでも日本側が責任を持って解決すべき問題です。したがって、もし日帝強制動員問題の解決策を示す必要があるとしても、それをすべきなのは韓国側ではなく日本側です。しかるに、安倍氏が「韓国側の責任において解決策を示して欲しい」などと韓国側に求めることは、責任転嫁に他なりません。

日本政府によれば、安倍氏は「元徴用工らへの賠償問題は日韓請求権協定で解決済みとの立場」から、韓国側に対して「韓国側の責任において解決策を示して欲しい」と求めたのだそうです。しかし、日帝強制動員被害者らへの賠償問題が日韓請求権協定で解決済みだというのは、安倍氏の誤解です。なぜなら、そもそも日韓請求権協定は、たとえそれが「(日韓)両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題」を完全かつ最終的に解決したとしても、それは決して日帝強制動員被害者らへの賠償問題を完全かつ最終的に解決するものではないからです。つまり、日韓請求権協定は、それに基づき日本が韓国に対して供与した5億ドルの趣旨が「独立祝い金」であって賠償金ではないというのもありますが*1、より根本的には、日韓請求権協定が、米日韓三角軍事同盟を支える「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制を確立し維持するために、日本が韓国の「親日政権」を経済的に支える一方、その見返りとして、日帝による朝鮮植民地支配の不法性を不問に付し、「親日政権」が日帝植民地支配の被害者を強権的に抑圧するものであって、日帝植民地支配にまつわる賠償問題を何ら解決するものではないということです。

このように、日韓請求権協定がいわば「臭い物に蓋をする」だけのものであって、日帝植民地支配にまつわる賠償問題を何ら解決しない以上、前述のとおり日帝の植民地支配による加害責任を負っている日本側が主体的に問題解決に取り組まなければなりません。もっとも、日本側は、問題解決のために新たな解決策を示す必要はありません。なぜなら、加害企業が韓国大法院の判決*2を誠実に履行し、日本政府が日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認めて加害企業による判決の誠実な履行を妨げないこと以外に、日帝強制動員問題を完全かつ最終的に解決する方法はないからです。

差別も貧困も、本当は「社会のせい」である。

先日、インターネット上で「差別をなくすよりも、まず先に貧困をなくすべきだ」という意見を目にしました。この意見に共感する人も少なくないようですが、私はとうてい共感できません。なぜなら、「差別と貧困の、まずどちらを先になくすべきか」という問いが、そもそも間違っているからです。

「差別をなくすよりも、まず先に貧困をなくすべきだ」という意見の持ち主は、貧困が差別を生み出すと考えているようです。しかし、それは誤解です。差別も貧困も、「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものです。したがって、差別も貧困も、それをなくすには「力」を持った人たちによって作られた社会の構造をこわさなければならないのであり、問題解決の優先順位を付けることはそもそもナンセンスなのです。また、差別と貧困の関係についていえば、差別は「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものですから、貧富とは無関係です(もしかすると、貧困が差別を生み出すと考えている人は、差別を「貧困層ルサンチマン」だと考えているのかもしれませんが、それは誤解です)。しかし、差別が特定の属性を持つ個人や集団の社会参加の機会を奪い、貧困を助長するというのは、よくあることです。

このように、差別も貧困も、「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものですから、つまりそれらは「社会のせい」なのです。「差別や貧困を社会のせいにするな」とよく言われますが、しかし、それは差別や貧困を生み出す社会の構造を温存したい人たちが弄する詭弁にほかなりません。差別や貧困をなくすには、むしろ「社会のせい」にして、社会を変えなければならないのです。