葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

歴史を抜きにして「旭日旗を禁止すべき理由」は語れない。

旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない。旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられているという事実を挙げれば十分である」という意見があります。

たしかに、旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられているのは事実です*1し、それゆえに旭日旗を禁止すべきなのはその通りだと私も思います。しかしながら、「旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない」という意見には、私は賛同できません。

旭日旗は、なぜ排外主義者によって差別のシンボルとして用いられるのでしょうか。それは、アジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗だからです。つまり、アジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗だからこそ、差別主義者が差別のシンボルとして用いるのです。旭日旗は、排外主義者が用いるから差別のシンボルなのでは決してありません。

日本政府は、旭日旗を「これまで半世紀以上にわたり、自衛艦または部隊の所在を示すものとして,不可欠な役割を果たしてきており、国際社会においても広く受け入れられている」と正当化しています*2が、「旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない」のであれば、これを認めざるを得ないでしょう。しかし、旭日旗がアジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗として用いられたという歴史に鑑みれば、軍国主義と決別し「平和国家」になったはずの戦後日本が旭日旗を使い続けることなど許されるはずがありません。つまり、旭日旗の禁止は、戦後日本が「平和国家」であるための必須条件の一つなのです。

さて、もし旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられなくなったとしたら、はたしてスポーツの応援で旭日旗を用いることは許されるようになるのでしょうか。「旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない」のであれば、旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられなくなった以上は、スポーツの応援で旭日旗を用いることは許されるようになるはずです。しかし、旭日旗がアジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗として用いられたという歴史に鑑みれば、たとえ旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられなくなったとしても、やはり旭日旗を用いることは許されるべきではありません。もっとも、旭日旗がアジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗として用いられたという歴史を抜きにしても、排外主義者によって差別のシンボルとして用いられてしまった以上、もはや旭日旗を用いることが許されることはない、と言うこともできるかもしれません。しかし、それは「排外主義者によって差別のシンボルとして用いられてしまった」という歴史を考慮するものにほかなりません(ただし、旭日旗は排外主義者が用いようと用いまいと差別のシンボルなのですから、「排外主義者によって差別のシンボルとして用いられてしまった」という歴史は、「旭日旗を禁止すべき理由」として本質的なものではありません。)。つまり、歴史を抜きにして「旭日旗を禁止すべき理由」を語ることなど決してできないということです。

憲法9条は「弾除けのお守り」などではない。

中村哲医師、アフガニスタンで銃撃され死亡 現地で井戸を建設 - BBCニュース

 

アフガニスタンで銃撃され死亡した中村哲さんが憲法9条の大切さを訴えていた*1ことから、「9条では命を守れなかった」と冷笑する9条改憲派が少なからず見受けられます。

たしかに、憲法9条では命を守ることはできません。しかし、それは当たり前のことです。なぜなら、憲法9条は「弾除けのお守り」などではないのですから。

中村哲さんの死を冷笑する9条改憲派は、憲法9条の意義を勘違いしています。憲法9条は、日本が戦争に巻き込まれないためのものではなく、過去の日本の侵略戦争を反省し、戦争の惨禍を二度と繰り返さないことを誓った憲法前文を受けて、日本に二度と戦争をさせないためのものです。そして、日本が自らの手を血で染めることだけではなく、「盟主」の戦争に加担することも憲法9条の意義に反するといえます。これは、憲法前文が「全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有する」と謳っていることからも明らかです。

しかるに、戦後の日本は、憲法9条が存在するにもかかわらず「盟主」アメリカの戦争に加担してきましたし、今もなお加担し続けています*2。そして、このアメリカの戦争への加担が、日本人がテロの標的とされる一つの要因であることは、以前から指摘されています*3。つまり、憲法9条の存在にもかかわらず日本が「盟主」アメリカの戦争に加担していることこそが、日本人の命を脅かしているのです。もっとも、日本が「盟主」アメリカの戦争に加担していることによって脅かされているのは、日本人の命だけではありませんが。

今回の事件のような悲劇が繰り返されないために日本がすべきことは、憲法9条を変えることではなく、憲法9条が存在するにもかかわらず「盟主」アメリカの戦争に加担している現状を変えることです。また、「憲法9条のおかげで戦後日本は戦争に巻き込まれずに済んだ」と言う9条護憲派も、憲法9条の意義を日本が戦争に巻き込まれないためのものだとするその認識を変えなければなりません。日本国憲法が謳う平和主義は、日本の国土や国民が戦火に見舞われなければ、日本が加担する戦争によって他国の国土や国民が戦火に見舞われてもかまわないとするものではないのですから。

差別はなぜいけないのか

差別はなぜいけないのか。かかる問いは、議論をもてあそぶために発せられることが多いので、それに答えるのは悪手かもしれません。それでも、私はあえてそれに答えたいと思います。

差別はなぜいけないのか。思うに、それは個人の尊厳が人間の普遍的な価値だからです。そして、個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるのは、個人の尊厳が〈人間〉の条件だからです。つまり、個人の尊厳を否定することは、〈人間〉存在を否定することです。

もしかすると、「個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるならば、差別したい個人の意思も尊重されるべきだ」と考える人がいるかもしれません。しかし、その考えは間違いです。なぜなら、差別は個人の尊厳を踏みにじるものであり、つまり差別と個人の尊厳は本質的に相容れないものだからです。

私が個人として尊重されるのであれば、あなたも個人として尊重されなれければなりません。たとえあなたが個人として尊重されることを望まなくても、それによって他者が個人として尊重されなくなることは決してありません。個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるというのは、つまりそういうことです。

「差別は人間の本性だ」という言説がしばしば見聞されます。しかし、差別が人間の本性だというのは誤解です。なぜなら、差別は支配階級によって作られるものだからです。差別がいつまでもなくならないのは、差別が人間の本性だからではありません。支配階級が、社会の差別構造をいつまでも壊さずに保ち続けているからです。もし人間の本性であるならば、私たちは差別をなくすことについて絶望するしかありません。しかし、前述したように差別は人間の本性ではなく支配階級によって作られるもの、すなわち人が作ったものなのですから、私たちはこれを壊すことができるのです。しかるに、社会の差別構造をいつまでも壊さずに保ち続けるのであれば、やはり差別主義者との誹りを免れないでしょう。

「日韓関係」を非対称に歪めている構造的原因

韓国の与野党4党、GSOMIAの条件付き延長を肯定的に評価…正義党は「深く失望」 : 政治•社会 : hankyoreh japan

 

韓国政府が韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の終了を条件付きで猶予することを決定したことについて、韓国国民の中には文在寅政権の対日姿勢を弱腰と非難する非難する人も少なくないかもしれません。韓国で行われた世論調査によれば、回答した韓国国民の過半数がGSOMIAの終了を支持したとのことです*1*2

たしかに、今般の「GSOMIA問題」のきっかけは日本政府の韓国に対する経済報復であることに鑑みれば、韓国政府が譲歩する必要はないでしょうし、韓国政府の決定は日本政府を付け上がらせる*3悪手だったと思います。しかし、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」の下では、誰が韓国大統領であろうと同じ結果になっただろうと思います。つまり、「GSOMIA問題」で韓国政府の対日姿勢が弱腰だとすれば、それは文在寅大統領に原因があるのではなく、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」に原因があるということです。

つまるところ「日韓関係」を非対称に歪めているのは、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」です。そもそも、かつての朴正煕政権や全斗煥政権のような“親日”軍事政権が韓国に存在することが、安定した「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」を維持するための条件です。つまり、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」は、韓国の民主主義とは相容れないものなのです。それは、今般の「GSOMIA問題」で韓国政府が世論調査で示された民意よりも、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」を優先してしまったことからも明らかです。

「日韓関係」の非対称な歪みを正すには、、安倍政権のような日本の極右政権を倒すだけでは足りず(もっとも、それは「日韓関係」の非対称な歪みを正す上で必要不可欠なことではありますが。)、構造的原因である「日韓65年体制」とそれが支える「米日韓三角軍事同盟」を解体しなければなりません。そうして、「日韓65年体制」とそれが支える「米日韓三角軍事同盟」を解体したとき、韓国の人民は「帝国」の植民地支配から真に解放され、日本の人民は日本の真の民主化へ確かな一歩を踏み出すでしょう。

「日韓関係悪化」の要因は「日韓両政府の政治上の意地の張り合い」などではない。

昨今の「日韓関係悪化」について、日韓両政府の政治上の意地の張り合いが要因だとの見方が少なくありません。しかし、それはあまりにも浅薄な見方です。

なぜ、そのような浅薄な見方が少なくないのでしょうか。思うに、それは「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制の矛盾を看過しているからです。

日本のマスメディアは、あたかも韓国市民による日本製品不買運動や韓国政府によるGSOMIA破棄決定が「日韓関係悪化」を深刻化させているかのように報じています。しかし、そもそも韓国市民による日本製品不買運動や韓国政府によるGSOMIA破棄決定を招いたのは、日本政府の韓国に対する経済報復です。そして、それは徴用工と呼ばれる日帝強制動員被害者の司法的救済に対して行われたものです。つまり、経済報復という植民地主義的な手段によって(これを可能ならしめるのが、まさに「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制です)日帝強制動員問題(徴用工問題)を抑え込もうとする日本政府の愚挙こそが、昨今の「日韓関係悪化」を招いたのです。もっとも、それ以前から、日本の政府や右派による日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)の正当化や矮小化が「日韓関係」を悪化させていたのですが、日帝強制動員被害者の司法的救済に対する経済報復で、ついに韓国の市民や政府の堪忍袋の緒が切れてしまったというわけです。

このように「日韓関係悪化」の根底には、日帝強制動員や日本軍性奴隷制とに代表される、日帝の植民地支配とその下での人権侵害という問題が常にあるのですが、これを抑え込んできたのが「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制です。つまり、「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制の下、日本政府は韓国の「親日」的な軍事政権に「見返り」を与えることで、日帝の植民地支配とその下での人権侵害という問題を抑え込んできたのです。

ところが、おそらく日本の政府や国民は「日韓友好」の美名のもとに磐石だと思っていたであろう(そして、今でも日本の政府や国民はそれを磐石にしたいと願う)「日韓65年体制」に、ほころびが生じます。それは、1987年の韓国民主化です。これによって、これまで軍事政権の暴力によって沈黙を強いられてきた日帝の植民地支配とその下での人権侵害の被害者と、被害者を支える市民が、日本の政府と社会に対して責任を果たすよう求める声を上げるようになりました。他方、日本政府は「親日」的な軍事政権を通じて問題を抑え込むことが、もはやできなくなったのです。

こうしてみるとよくわかるように、「日韓関係悪化」の要因は「日韓両政府の政治上の意地の張り合い」などではなく、韓国の民主主義の成熟による「日韓65年体制」の矛盾、つまり植民地主義と民主主義(究極的には人権)の矛盾の激化であるといえます。この矛盾は敵対的矛盾にほかならず、これを解消するには、日本政府が日帝の植民地支配とその下での人権侵害に関して法的責任を果たし、日本国民が日帝の植民地支配とその下での人権侵害という負の歴史と向き合うことで、日本が植民地主義を克服するしかありません。本当に日本国民が民主主義を志向するのであれば、それは決して不可能ではないはずです。

ヘイトスピーチは人権侵害以外の何ものでもない。

“一方、浅野善治・大東文化大大学院教授(憲法学)は「審査結果の正しさや公平性をどう担保するのかが不透明だ。ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なるため、審査会では抽象的な基準でしか議論できない」と指摘。”

ヘイト、刑事罰条例成立へ 川崎市、違反3回で最高50万円罰金:朝日新聞デジタル

 

ヘイトスピーチに関して、浅野善治教授のように「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」と言う「有識者」は少なくないと思います。

たしかに、ヘイトスピーカーヘイトスピーチを悪いと思っていないでしょう。しかし、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても、ヘイトスピーチはマイノリティの人権を客観的に侵害するものにほかなりません。それとも、日本社会には「善い」民族差別煽動があるとでもいうのでしょうか。

「人によって善悪の判断が異なる」というのは、究極的には窃盗や殺人についても言えることです。それなのに、どうして窃盗や殺人については「人によって善悪の判断が異なる」などと言わずに「万人にとっての悪」だと言うのでしょうか。民族差別を窃盗や殺人のように「万人にとっての悪」だと言わないのは、やはり日本という国では民族差別が「善」だということなのでしょうか。

個人の尊厳が人類普遍の原理であることに鑑みれば、ヘイトスピーチがマイノリティの人権を客観的に侵害するものである以上は、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても、これを許してはなりません。法学的に見ても、当該条例案が定める構成要件は十分に厳格なのですから*1、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても「法の不知はこれを許さず」です。

ヘイトスピーチは人権侵害以外の何ものでもありません。つまり、ヘイトスピーチに「善い」も「悪い」もないのですから(あえて言うなら、人権侵害であるヘイトスピーチは「万人にとっての悪」です)、「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」というのは詭弁です。このような詭弁によってヘイトスピーチを許してきた結果が、罰則によらなければヘイトスピーチによる人権侵害を抑止できない今の状況だということを、「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」などと平気で言う「有識者」は認識すべきです。もっとも、国家やマジョリティがマイノリティを踏みつけるのをやめさせるために知識を生かすのではなく、国家やマジョリティがマイノリティを踏みつけるのを正当化するために知識を生かすのが、日本の「有識者」の仕事なのかもしれませんが。

「ムン・ヒサン案」の問題点

「強制動員・慰安婦基金」ムン・ヒサン案…「日本政府に免責」批判の声も : 政治•社会 : hankyoreh japan

 

ムン・ヒサン韓国国会議長が日帝強制動員被害者への賠償問題の解決策として示した私案は、たしかに被害者に対する金銭的な補償だけを考えれば、「現実的な解決策」といえるかもしれません。しかし、それは決して根本的な解決策ではありません。

思うに、「ムン・ヒサン案」は、日本軍性奴隷制問題での「アジア女性基金」や「慰安婦問題日韓合意」と同様、日帝植民地支配とその下での不法行為の責任をうやむやにするものであり、また、被害者の間に分断と対立を招きかねないものです。特に懸念すべきは、被害者の間に分断と対立を招きかねない点です。それというのも、「アジア女性基金」や「慰安婦問題日韓合意」の時と同様に、日本の政府や保守派は被害者間の分断と対立を狡猾に利用するでしょうから。

日本軍性奴隷制問題では、日本の保守派のみならずリベラル派の中にも、一部の被害者が「見舞金」を受け取ったことを理由に、あたかも被害者や支援者が日本政府の法的責任をすることが問題の解決を困難ならしめているかのように言う人がいます。たしかに、「見舞金」を受け取った被害者の意思は尊重されるべきです。しかし、日本軍性奴隷制問題は人権問題であって、それは多数決で決めてよいことではありません。つまり、一部の被害者が「見舞金」を受け取ったからといって、日本政府の法的責任を追及する被害者の意思が無視されるいわれはないのです。そして、このことは日帝強制動員問題(徴用工問題)でも同様です。

日帝強制動員被害者の名誉と尊厳の回復は、決して金銭的な補償だけでなし得るものではありません。そうである以上、日帝強制動員問題を根本的に解決するには、韓国大法院が下した判決を加害者である日本企業が誠実に履行し、日本政府は日帝植民地支配の不法性を認めて日本企業による判決の誠実な履行を妨げないこと、それしかありません。残念ながら、「ムン・ヒサン案」は、日帝植民地支配とその下での不法行為の責任をうやむやにし、日帝強制動員被害者に沈黙を強いる「日韓65年体制」という新植民地主義的体制を糊塗するだけの“悪手”であると言わざるを得ないでしょう。

もっとも、だからといって日本のマスメディアや国民がムン・ヒサン議長を非難するのはお門違いです。日帝強制動員問題がいつまでも解決しないのは、加害者である日本企業が韓国大法院の判決を誠実に履行せず、日本政府が日帝植民地支配の正当化に腐心して日本企業による判決の誠実な履行を妨げるからであり、日本側が納得する解決策を韓国側が提案しないからではありません。繰り返しになりますが、日帝強制動員問題を根本的に解決するには、韓国大法院が下した判決を加害者である日本企業が誠実に履行し、日本政府は日帝植民地支配の不法性を認めて日本企業による判決の誠実な履行を妨げないこと、それしかありません。