葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「ヒロシマ・ナガサキ」は、「忘れる」ためのものではない。

[社説]BTS騒ぎに映った韓日関係の悲しい姿 : 社説・コラム : hankyoreh japan

 

防弾少年団(BTS)のメンバーが着用していたTシャツが原爆投下を正当化するものだというのは誤解(というよりも、むしろ曲解)ですが、しかし、この問題の背景に韓国における「原爆投下による解放“神話”」に対する“信仰”があることは否めません。

もちろん、「原爆投下による解放“神話”」に対する批判はあってしかるべきです。しかし、「“原爆Tシャツ”は、『唯一の被爆国』である日本の国民として不快だ」と言う人は、これまで「日本の国民」として、どれだけ真剣に日本の加害の歴史と向き合ってきましたか?

誤解のないようにお断りしておきますが、私はなにも「BTSメンバーのTシャツ着用を一切批判してはならない」などと言うつもりはありません。また、私のこの問いが、真剣に日本の加害の歴史と向き合ってきた人の気分を害したのであれば申し訳なく思います(ただ、真剣に日本の加害の歴史と向き合ってこなかったにもかかわらず、BTSメンバーのTシャツ着用への批判だけは一人前にする日本国民が少なからずいる現実からは、どうか目を背けないでください。)。しかし、そもそも原爆加害国はアメリカであって、韓国ではありません。そして、日本は韓国との関係では(植民地支配の)加害国でしかありません。さらに、原爆加害についていえば、日本による植民地支配がなければ被爆することはなかったであろう約7万人の朝鮮(韓国)人を被爆させた日本は、韓国との関係では間接的な加害国であるとさえ言えるでしょう。どうやら、日本国民はそのことを「唯一の被爆国」という欺瞞に満ちた言葉によってすっかり忘れてしまっているようですが、「原爆投下による解放“神話”」を正しく批判するためにも、日本国民はそのことを決して忘れてはなりません。

しかるに、残念ながら「ヒロシマナガサキ」は、血で汚れた日本の身を清め、加害の歴史を忘れるための、いわば「戦後平和主義の靖国」になりつつあるように思います(これについては、「保守」のみならず「リベラル」にも責任の一端はあると思います。)。「ヒロシマ」の平和記念資料館で、原爆投下という残虐行為に胸を痛め、憤慨し、世界平和を祈る「日本人」が、どうして「廣島」の大和ミュージアムでは、日本の軍国主義を賛美し、感動できるのでしょうか。あるいは、「ナガサキ」の原爆資料館で、原爆投下という残虐行為に胸を痛め、憤慨し、世界平和を祈る「日本人」が、どうして「長崎」の軍艦島では、植民地朝鮮出身の労働者を虐げ、搾取することで栄華を誇った「帝国主義の遺構」を見て感動できるのでしょうか。それは、きっと「ヒロシマナガサキ」が、「唯一の被爆国」という言葉で象徴される「被爆ナショナリズム」と相まって、日本人以外の被爆者の存在と日本の加害の歴史を「日本人」に忘れさせるからでしょう。

ヒロシマナガサキ」は、決して日本の加害の歴史を忘れるためのものではありません。日本国民は、決して「ヒロシマナガサキ」を「戦後平和主義の靖国」にしてはなりません。「ヒロシマナガサキ」を「戦後平和主義の靖国」にしてしまうのは、それこそ原爆被害者に対する冒涜です。

ヒロシマナガサキ」が象徴する平和を、「日本人」のためのものではなく、真に世界人類にとって普遍的なものとするためにも、日本国民は、「唯一の被爆国」という言葉で象徴される「被爆ナショナリズム」を克服し、そして、日本の加害の歴史と向き合わなければならないのです。