葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日韓関係悪化」の要因は「日韓両政府の政治上の意地の張り合い」などではない。

昨今の「日韓関係悪化」について、日韓両政府の政治上の意地の張り合いが要因だとの見方が少なくありません。しかし、それはあまりにも浅薄な見方です。

なぜ、そのような浅薄な見方が少なくないのでしょうか。思うに、それは「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制の矛盾を看過しているからです。

日本のマスメディアは、あたかも韓国市民による日本製品不買運動や韓国政府によるGSOMIA破棄決定が「日韓関係悪化」を深刻化させているかのように報じています。しかし、そもそも韓国市民による日本製品不買運動や韓国政府によるGSOMIA破棄決定を招いたのは、日本政府の韓国に対する経済報復です。そして、それは徴用工と呼ばれる日帝強制動員被害者の司法的救済に対して行われたものです。つまり、経済報復という植民地主義的な手段によって(これを可能ならしめるのが、まさに「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制です)日帝強制動員問題(徴用工問題)を抑え込もうとする日本政府の愚挙こそが、昨今の「日韓関係悪化」を招いたのです。もっとも、それ以前から、日本の政府や右派による日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)の正当化や矮小化が「日韓関係」を悪化させていたのですが、日帝強制動員被害者の司法的救済に対する経済報復で、ついに韓国の市民や政府の堪忍袋の緒が切れてしまったというわけです。

このように「日韓関係悪化」の根底には、日帝強制動員や日本軍性奴隷制とに代表される、日帝の植民地支配とその下での人権侵害という問題が常にあるのですが、これを抑え込んできたのが「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制です。つまり、「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制の下、日本政府は韓国の「親日」的な軍事政権に「見返り」を与えることで、日帝の植民地支配とその下での人権侵害という問題を抑え込んできたのです。

ところが、おそらく日本の政府や国民は「日韓友好」の美名のもとに磐石だと思っていたであろう(そして、今でも日本の政府や国民はそれを磐石にしたいと願う)「日韓65年体制」に、ほころびが生じます。それは、1987年の韓国民主化です。これによって、これまで軍事政権の暴力によって沈黙を強いられてきた日帝の植民地支配とその下での人権侵害の被害者と、被害者を支える市民が、日本の政府と社会に対して責任を果たすよう求める声を上げるようになりました。他方、日本政府は「親日」的な軍事政権を通じて問題を抑え込むことが、もはやできなくなったのです。

こうしてみるとよくわかるように、「日韓関係悪化」の要因は「日韓両政府の政治上の意地の張り合い」などではなく、韓国の民主主義の成熟による「日韓65年体制」の矛盾、つまり植民地主義と民主主義(究極的には人権)の矛盾の激化であるといえます。この矛盾は敵対的矛盾にほかならず、これを解消するには、日本政府が日帝の植民地支配とその下での人権侵害に関して法的責任を果たし、日本国民が日帝の植民地支配とその下での人権侵害という負の歴史と向き合うことで、日本が植民地主義を克服するしかありません。本当に日本国民が民主主義を志向するのであれば、それは決して不可能ではないはずです。

ヘイトスピーチは人権侵害以外の何ものでもない。

“一方、浅野善治・大東文化大大学院教授(憲法学)は「審査結果の正しさや公平性をどう担保するのかが不透明だ。ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なるため、審査会では抽象的な基準でしか議論できない」と指摘。”

ヘイト、刑事罰条例成立へ 川崎市、違反3回で最高50万円罰金:朝日新聞デジタル

 

ヘイトスピーチに関して、浅野善治教授のように「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」と言う「有識者」は少なくないと思います。

たしかに、ヘイトスピーカーヘイトスピーチを悪いと思っていないでしょう。しかし、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても、ヘイトスピーチはマイノリティの人権を客観的に侵害するものにほかなりません。それとも、日本社会には「善い」民族差別煽動があるとでもいうのでしょうか。

「人によって善悪の判断が異なる」というのは、究極的には窃盗や殺人についても言えることです。それなのに、どうして窃盗や殺人については「人によって善悪の判断が異なる」などと言わずに「万人にとっての悪」だと言うのでしょうか。民族差別を窃盗や殺人のように「万人にとっての悪」だと言わないのは、やはり日本という国では民族差別が「善」だということなのでしょうか。

個人の尊厳が人類普遍の原理であることに鑑みれば、ヘイトスピーチがマイノリティの人権を客観的に侵害するものである以上は、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても、これを許してはなりません。法学的に見ても、当該条例案が定める構成要件は十分に厳格なのですから*1、たとえヘイトスピーカーヘイトスピーチを「善い」と思ったとしても「法の不知はこれを許さず」です。

ヘイトスピーチは人権侵害以外の何ものでもありません。つまり、ヘイトスピーチに「善い」も「悪い」もないのですから(あえて言うなら、人権侵害であるヘイトスピーチは「万人にとっての悪」です)、「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」というのは詭弁です。このような詭弁によってヘイトスピーチを許してきた結果が、罰則によらなければヘイトスピーチによる人権侵害を抑止できない今の状況だということを、「ヘイトスピーチは人によって善悪の判断が異なる」などと平気で言う「有識者」は認識すべきです。もっとも、国家やマジョリティがマイノリティを踏みつけるのをやめさせるために知識を生かすのではなく、国家やマジョリティがマイノリティを踏みつけるのを正当化するために知識を生かすのが、日本の「有識者」の仕事なのかもしれませんが。

「ムン・ヒサン案」の問題点

「強制動員・慰安婦基金」ムン・ヒサン案…「日本政府に免責」批判の声も : 政治•社会 : hankyoreh japan

 

ムン・ヒサン韓国国会議長が日帝強制動員被害者への賠償問題の解決策として示した私案は、たしかに被害者に対する金銭的な補償だけを考えれば、「現実的な解決策」といえるかもしれません。しかし、それは決して根本的な解決策ではありません。

思うに、「ムン・ヒサン案」は、日本軍性奴隷制問題での「アジア女性基金」や「慰安婦問題日韓合意」と同様、日帝植民地支配とその下での不法行為の責任をうやむやにするものであり、また、被害者の間に分断と対立を招きかねないものです。特に懸念すべきは、被害者の間に分断と対立を招きかねない点です。それというのも、「アジア女性基金」や「慰安婦問題日韓合意」の時と同様に、日本の政府や保守派は被害者間の分断と対立を狡猾に利用するでしょうから。

日本軍性奴隷制問題では、日本の保守派のみならずリベラル派の中にも、一部の被害者が「見舞金」を受け取ったことを理由に、あたかも被害者や支援者が日本政府の法的責任をすることが問題の解決を困難ならしめているかのように言う人がいます。たしかに、「見舞金」を受け取った被害者の意思は尊重されるべきです。しかし、日本軍性奴隷制問題は人権問題であって、それは多数決で決めてよいことではありません。つまり、一部の被害者が「見舞金」を受け取ったからといって、日本政府の法的責任を追及する被害者の意思が無視されるいわれはないのです。そして、このことは日帝強制動員問題(徴用工問題)でも同様です。

日帝強制動員被害者の名誉と尊厳の回復は、決して金銭的な補償だけでなし得るものではありません。そうである以上、日帝強制動員問題を根本的に解決するには、韓国大法院が下した判決を加害者である日本企業が誠実に履行し、日本政府は日帝植民地支配の不法性を認めて日本企業による判決の誠実な履行を妨げないこと、それしかありません。残念ながら、「ムン・ヒサン案」は、日帝植民地支配とその下での不法行為の責任をうやむやにし、日帝強制動員被害者に沈黙を強いる「日韓65年体制」という新植民地主義的体制を糊塗するだけの“悪手”であると言わざるを得ないでしょう。

もっとも、だからといって日本のマスメディアや国民がムン・ヒサン議長を非難するのはお門違いです。日帝強制動員問題がいつまでも解決しないのは、加害者である日本企業が韓国大法院の判決を誠実に履行せず、日本政府が日帝植民地支配の正当化に腐心して日本企業による判決の誠実な履行を妨げるからであり、日本側が納得する解決策を韓国側が提案しないからではありません。繰り返しになりますが、日帝強制動員問題を根本的に解決するには、韓国大法院が下した判決を加害者である日本企業が誠実に履行し、日本政府は日帝植民地支配の不法性を認めて日本企業による判決の誠実な履行を妨げないこと、それしかありません。

日本人が歴史と責任を忘れた「日韓関係」に未来はない。

 

www.asahi.com

 

上記リンク先の記事の「朝日新聞デジタルのアンケートに寄せられた声」は、桜井泉記者曰く「交流の大切さを訴えるものがたくさんあ」ることから、これを好意的に受け止める読者は少なくないでしょう。

もちろん、私も「交流の大切さ」を否定するつもりはありません。しかし、はたして当該の「声」は、本当に手放しで賛同できるものでしょうか。以下、いくつかの「声」を抜粋し、これに批判を加えたいと思います。

 “ 韓国のアイドルが好きだからと言って韓国の国自体が好きなわけではない人もいます。政治を文化やエンターテインメントに結びつけないでほしい。(埼玉県・10代女性)”

日韓関係の悪化をめぐって、「政治を文化やエンターテインメントに結びつけないでほしい」と言う日本人が少なくありませんが、彼らは根本的に勘違いしています。日韓関係の悪化の発端である日帝強制動員問題(徴用工問題)や日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)は、日帝強制占領下での人権侵害という人権問題であって、「日韓の政治対立」の問題ではありません。そして、「文化やエンターテインメント」は、日本人が歴史と責任を都合良く忘れるためのものでありません。

“ 好悪の対象が国なのか国民かはっきりさせるべきだ。韓国との関係については、あえて友好関係でなくてもいい。あわてず時間をかけてクールな関係を保てばいい。なんでも友好と言って他国の言いなりになるのはおかしい。時間をかけて平等な関係をつくるべきだ。(静岡県・60代男性)”

日本政府が日帝の植民地支配の不法性を認め、それについての責任を果たすことを「他国の言いなりになる」だなどというのは、なんともひどく歪んだ認識です。「時間をかけて平等な関係をつくるべきだ」というのも、まるで日本が韓国との関係で弱い立場にあるかのような物言いですが、それは「日韓65年体制」という新植民地主義体制を全く理解していない戯言だと言わざるを得ません。

“ いわゆる、KARAや少女時代といった第1次K-POPブームで韓国が好きになり、大学でも韓国語専攻のある大学に進学しました。語学研修や、交換留学で韓国にも行ったことがありますが、これまで日本人だからといって敵対視されることは一度もありませんでした。日本に来てる韓国人留学生とも交流もありますし、日韓の政治対立で一般人にまで悪影響を及ぼすことは良くないと感じています。別に好きなら好きでよいし、嫌いなら放っておいたらよいんじゃないかと思います。(京都府・20代男性)”

日本社会の植民地主義や差別主義は、韓国を好きか嫌いかの問題ではありませんし、「日韓の政治対立」の問題でもありません。それらは、ほかでもなく日本社会の問題であり、日本人が向き合わなければならない問題です。そして、「韓国人留学生との交流」は、日本人がそれらと向き合わないことの“免罪符”には決してなりません。

“ 隣で身近な国なので、仲良く共に発展したい。韓国の政治家は自国の問題を隠すために、日本を責めることをやめ

てほしい。日本人の嫌韓発言も、恥ずかしい限りなのでやめてほしい。(兵庫県・40代女性)”

日帝による植民地支配の責任という「自国(日本)」の問題」を「韓国の政治家による自国の問題の隠蔽」などという問題にすり替えるのは、いい加減やめるべきです。

“ 日本のシンクタンク「言論NPO」の世論調査によると、日韓とも相手国を訪れたことがある人ほど、その国に好印象を持つ割合が高くなっています。最悪と言われる日韓の外交関係ですが、今回のアンケートの回答には交流の大切さを訴えるものがたくさんありました。同感です。(桜井泉)”

最後に、桜井泉記者によるまとめに対して批判を加えますが、もちろん、「草の根交流」は大切です。しかし、くれぐれもそれを日本人が歴史と責任を忘れることの“免罪符”にしないでください。日本人が歴史と責任を忘れた「日韓関係」に未来はありません。

火山島のマッコリ

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済州島(チェジュド)で、生マッコリを飲んだ。

美味いマッコリのツマミは、白菜の古漬けと山菜のナムルで十分だ。むしろ、美味いマッコリには、そんなツマミが嬉しい。

マッコリ杯に注げばシュワシュワと躍る泡は、この火山島の湧き上がる生だ。そんな、この火山島の生が宿ったマッコリは、これまで多くの島人に生の悦びをもたらし、あるいは、島人の傷つけられた生を癒してきたにちがいない。

済州島の母なる山、漢拏山(ハルラサン)からの贈り物である火山岩盤水で醸されたマッコリを、私もありがたくいただく。火山島のマッコリは、一介の旅人である私にも分け隔てなく、至福のときをもたらしてくれる。まるでこの火山島の島人のように、優しい酒だ。もっとも、それはただ優しいだけではない。火山島の厳しい生活を生き抜いてきた島人のように、力強さを併せ持つものだ。優しくて力強い酒、それが済州島の生マッコリである。

またいつか会いに行こう、あの火山島のマッコリに。ツマミは、白菜の古漬けと山菜のナムルで十分だ。

天皇は、政治利用されるために存在する。

東京新聞:「天皇の政治利用」懸念 首相、代替わり絡め改憲意欲:核心(TOKYO Web)

 

天皇の「代替わり」にともなう儀式に関して、リベラル派の多くが「安倍政権は天皇を政治利用している」と安倍政権を批判しています。

安倍政権が天皇を政治利用しているというのは、確かにその通りだと私も思います。しかし、「安倍政権は天皇を政治利用している」と安倍政権を批判するリベラル派は、根本的な誤解をしています。問題の本質は、安倍政権が天皇を政治利用する点ではなく、象徴天皇制そのものが神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置だという点にあります。つまり、象徴天皇は、安倍氏のような権力者によって政治利用されることに意義があるのです。

リベラル派の中には、「象徴天皇の意義は安倍氏のような権力者によって政治利用されることにあるのではない。天皇とは『祈る存在』であり、国民の幸せと世界の平和を祈ることこそが、平和主義国家・日本の象徴たる天皇としての意義である」と言う人もいるかもしれません*1。しかし、その「祈り」というのは、つまるところ戦後日本が抱える諸矛盾を糊塗する欺瞞以外のなにものでもありません。そもそも、象徴天皇制それ自体が、自衛隊と並ぶ戦後日本の主要な矛盾の一つにほかなりません。

象徴天皇制は、いわば「天皇制の平和利用」です。こう言うと、おそらく多くのリベラル派は天皇制を平和的に利用することだと思うでしょう。しかし、そうではなく、むしろ支配装置である天皇制を維持し補強するために「平和」を利用するということです*2

天皇制をタブー視せず、象徴天皇制について国民は大いに議論すべきだという声は、決して少なくありません。しかし、その多くは「主権者として、どんな天皇像を望むのか。どのように皇統をつないでいくのか。いまいちど考えるべきである」といったものです*3。「天皇制をタブー視すべきではない」と言いながら、どうして天皇制の存続を絶対的な前提とするのでしょうか。天皇制の存続を絶対的な前提とした議論など、所詮うわべだけのものにすぎません。そのようなうわべだけの議論をいくらしたところで、象徴天皇制の問題の本質に迫ることは決してできないでしょう。本当に議論すべきことは、「主権者として、どんな天皇像を望むのか。どのように皇統をつないでいくのか」などではなく、反民主主義的で差別的な制度である天皇制の是非です。

韓国への敵視や蔑視は「好き嫌い」の問題ではない。

戦前は「朝鮮人好き」だった日本が「嫌韓」になった理由 | ニューズウィーク日本版編集部 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

韓国への敵視や蔑視を「好き嫌い」の問題として語る論者が少なくありません。

たしかに、韓国を敵視あるいは蔑視する日本人の多くは、韓国のことが嫌いかもしれません。しかし、韓国への敵視や蔑視を「好き嫌い」の問題と捉えるのは、問題の本質を見誤るものです。

韓国への敵視は、昨今のそれが日本性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)や日帝強制動員問題(徴用工問題)といった歴史問題に端を発するものであることから分かるように、日本の政府がマスメディアを通じて国民の韓国に対する敵視を煽り、煽られた国民が(日本に対して日帝植民地支配の責任を問う)韓国に敵意を向けることで、日帝植民地支配の歴史と責任を忘却しようとするものです。また、韓国への蔑視は、韓国を構成する韓国人は日本人より劣るというレイシズムを醸成する点で、日本社会の民族差別にかかわるものです。つまり、韓国への敵視や蔑視は、キムチやK-POPが好きか嫌いかのような個人の「好き嫌い」の問題ではなく、民族差別や植民地主義といった日本の構造的な問題なのです(そもそも、民族差別や植民地主義は個人の「好き嫌い」の問題ではないことを、念のため付言しておきます。)。

このように、韓国への敵視や蔑視が「好き嫌い」の問題ではないということは、民族差別や植民地主義が「韓国を好きか嫌いか」とは無関係であるということでもあります。日帝時代に「朝鮮人好き」な日本人がいたことや、現代において「韓国好き」の日本人がしばしば民族差別意識植民地主義をあらわにするというのは、つまりそういうことなのです。「韓国が好き」ということは、民族差別や植民地主義の“免罪符”には決してなりません。