葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「今上天皇はいい人です」と、リベラル派も言うけれど……。

www.asahi.com

 

いわゆる「保守派」だけでなく「リベラル派」の中にも、「今上天皇はいい人だ」と言う人が少なくありません。そして、そのような人は、しばしば「天皇制そのものが悪いのではない、安倍のような悪人が天皇を政治利用するのが悪いのだ」と言います。安倍氏天皇を政治利用しているのは、たしかにその通りです。しかし、「天皇制そのものが悪いのではない、安倍のような悪人が天皇を政治利用するのが悪いのだ」と言う人は、誤解しています。「安倍のような悪人が政治利用する」から、天皇制が悪しき制度となってしまうのではありません。そもそも天皇制は、「安倍のような悪人が政治利用する」ためにつくられた制度です。つまり、安倍氏は、天皇制の本来の使い方をしているだけなのです。

それでも、きっと「今上天皇はいい人だ」と言うリベラル派の人は、「今上天皇はいい人なのだから、安倍のような悪人にさえ利用されなければ、天皇制は良い制度であるはずだ」と言うでしょう。しかしながら、彼は天皇制に関する議論の本質を誤解しています。天皇制という制度そのものの是非を論じるにあたって、天皇明仁氏がいい人であるかどうかは、問題にはなりません。たとえ天皇明仁氏がいい人であろうと、天皇制が差別の根源でなくなるわけではないのですから。天皇制に関する議論は、いわば神輿それ自体の良し悪しの問題であって、神輿に乗っている人物の良し悪しなど、はっきり言ってどうでもいい話です。

ところで、天皇明仁氏は本当に「いい人」なのでしょうか。この点について、おそらく「今上天皇はいい人だ」と言うリベラル派の人は、「今上天皇は、平和を愛する立派なお方であることは、これまでの陛下のお姿やおことばを拝見すれば明らかである。そして、今上天皇が平和を愛する立派なお方であるからこそ、日本を代表するリベラル紙である朝日新聞世論調査で、76%が皇室に親しみを持っていると回答したのである」と言うでしょう。正直なところ、私は天皇明仁氏が本当に「いい人」なのかどうか知りませんが、ただ、76%が「皇室に親しみを持っている」と回答した朝日新聞世論調査の結果は、象徴天皇制の下では、ある意味で当然のものだと思います。なぜなら、象徴天皇制の下では、マスメディアが皇室を賛美する一方で天皇制に批判的な報道をせず、国家や国民が天皇制を批判する人民を異分子として排除しようとするのですから。つまり、天皇を「いい人」に見せる演出というのは、まさに象徴天皇制から要請されるものだということです。象徴天皇制を批判しながら「今上天皇を『いい人』だと言って何が悪い」と言ってはばからないリベラル派の人は、このことを理解しておらず、それゆえ彼の象徴天皇制批判は、残念ながらうわべだけのものだと言わざるを得ないでしょう。

今上天皇はいい人」という国民の認識は、たしかに無邪気なものかもしれません。しかし、その無邪気な認識が、差別の根源である天皇制を支えているのです。リベラル派の皆さんは、晋三氏や昭恵氏を「いい人」に見せるマスメディアの演出には疑問を感じることができるのですから、それと同様に、明仁氏や美智子氏を「いい人」に見せるマスメディアの演出にも疑問を感じてみてはいかがでしょうか。もっとも、こう言うと、聡明なリベラル派の方に「天皇は政治的な権能を持たないのだから、民主主義の下では天皇制に批判的な報道をする必要などない」と反論されるかもしれません。たしかに、政治的な権能を持たない点に鑑みれば、明仁氏は安倍氏と全く同じではないでしょう。しかし、民主主義云々を言うのであれば、それこそマスメディアが批判的に報道できない(いわゆる「菊タブー」)天皇制など、そもそも民主主義の下では必要ないのです。

梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』を今こそ読むべき理由

honto.jp

 

1970年代に行われた梶村秀樹*1先生(1935-1989)の講演記録を一冊にまとめた『排外主義克服のための朝鮮史』は、朝鮮史の知識を網羅的に解説したものでありませんし、梶村先生が依って立つ学説の中には、最近の研究によってすでに否定されている見解もあります。それゆえ、「梶村秀樹の著作は、もはや読む価値がない」と言う人もいるでしょう。しかし、私が思うに、そのような人は本書の意義を誤解しています。

『排外主義克服のための朝鮮史』は、決して朝鮮史の知識を網羅的に習得するためのものではなく、書名のとおり「排外主義克服のための」ものです。つまり、本書でいう「朝鮮史」とは、単なる知識としての「朝鮮史」ではないのです。それでは、本書でいう「朝鮮史」とはどういうものか。思うに、それは一言で言えば「朝鮮を主体として捉えた朝鮮史」です。日本国民が学校教育などを通じて習得する「朝鮮の歴史」は、そのほとんどが朝鮮を客体として「日本国民のまなざし」で眺めたものです。梶村先生は言います。「全面的な価値体系が、空気のようにしみ込んでいる帝国主義的なイデオロギー体系、あるいは社会関係の中で作り出されてしまっているということを、出発点において私たちは免れえないのではないか」と。つまり、「日本国民のまなざし」も帝国主義的なイデオロギー体系の中で作り出された価値体系から免れえないのであり、そうした「まなざし」で眺めた「朝鮮の歴史」は、「朝鮮停滞史観」的な朝鮮を蔑視したものとならざるを得ない。そして、それが排外主義を支える大きな柱の一つとなっている。そこで、「朝鮮を主体として捉えた朝鮮史」を学ぶことで朝鮮に対する蔑視観を打ち壊し、排外主義を克服するのです。

日本社会でマジョリティとして生きている一人として、私自身も「日本国民のまなざし」と無縁ではありません。それこそが、私が『排外主義克服のための朝鮮史』を読む一番の理由です。しかしながら、もしかすると「私は朝鮮蔑視観なんて持ってないし、ネトウヨのような排外主義者ではないから、『排外主義克服のための朝鮮史』を読まなくても大丈夫だ」と言う人も少なくないかもしれません。もちろん、『排外主義克服のための朝鮮史』を読むか読まないかは各人の自由ですが、しかし、「私は朝鮮蔑視観なんて持ってないし、ネトウヨのような排外主義者ではない」と言う人にこそ、むしろ『排外主義克服のための朝鮮史』を読んでもらいたいと私は思います。梶村先生は言います。「朝鮮のことをある程度知っている人間が、中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、もっとも悪質な偏見の持ち主になることはよくあることのようです」と。残念ながら、リベラル派言論人の中にも、この「中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、もっとも悪質な偏見の持ち主にな」ってしまったような人が少なからずいます。

さて、日本の排外主義を批判するリベラル派の中には、もしかすると「日本の排外主義は日本人の『民族性』によるものなのだから、日本人が排外主義を克服することなど不可能なのではないだろうか」と絶望する人もいるかもしれません。たしかに、日本の排外主義は克服されるどころか、ますますひどくなる一方です。しかし、「日本の排外主義は日本人の『民族性』によるものなのだから……」と絶望するのが間違いであることは、本書の次の一節を読めば容易に理解出来るでしょう。

「日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような『民族性』ということばは絶望に通じていきかねない。紀元節にしても天皇制にしても明治の、日本の資本主義が発生していく過程で明らかに意図的につくられたものなのです。」

『排外主義克服のための朝鮮史』は、まさに「われわれ」が「これ(権力の側がつくった日本の天皇イデオロギーや民族排外主義)をこわしていく」ために、今こそ読むべき一冊です。

「平成の時代は戦争がなかった」という欺瞞

www.asahi.com

 

「平成の時代は戦争がなかったということが、一番重要だと思います。それは、日本国民が戦争の悲惨さを真剣に考え、対応してきたからだと思います」という天皇明仁氏の言葉に共感する日本国民は、おそらく少なくないでしょう。

たしかに、「平成の時代」の日本は、自らの手を血に染めることも、戦火に見舞われることもなかったでしょう。しかし、湾岸戦争(平成3年)*1アフガニスタン紛争(平成13年)、イラク戦争(平成15年)といった<帝国>の戦争に、日本は憲法9条の存在にもかかわらず加担してきました。そして、今もなお「安全保障」の名の下に<帝国>の戦争に加担し続けています。しかるに、「平成の時代は戦争がなかった」と言うのは欺瞞でしかありません。天皇明仁氏が、このようなことを平気な顔をしてのたまえるというのは、いかに日本国民が自国の戦争加害を真剣に考えることをおろそかにしてきたかを物語っています。

憲法9条のおかげで、戦後日本の平和が守られてきた」と言うリベラル派も少なくありませんが、憲法9条が「日本の平和」を守るためにあるというのは誤解です。憲法9条が過去の日本の侵略戦争を反省する趣旨であること、そして憲法9条の理念である平和主義が普遍的なものであることに鑑みれば、憲法9条は、何よりもまず日本が再び戦争の加害者となることを厳に戒めるものです。そうであるにもかかわらず、「戦後日本」は、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争アフガニスタン紛争、イラク戦争……と、<帝国>の戦争に加担し、再び戦争の加害者となってきました。つまり、「憲法9条のおかげで、戦後日本の平和が守られてきた」のではなく、憲法9条があるにもかかわらず、戦後日本は<帝国>の戦争に加担して平和を壊してきたのです。

もちろん、日本国が平和主義を掲げる憲法を持つ国家であることは紛れもない事実です。しかしながら、日本国が平和主義を掲げる憲法を持つ国家であるにもかかわらず、今日まで<帝国>の戦争に加担し続けてきたこともまた、紛れもない事実です。もっとも、だからといって日本国が<帝国>の戦争に加担し続けてきた事実を追認し、再び軍国主義への道を歩むのは、愚の骨頂です。日本国が<帝国>の戦争に加担し続けてきた事実を私が提示するのは、悪しき現状追認のためではありません。私が言いたいのは、憲法9条を「絵に描いた餅」にしないためにも、「平成の時代は戦争がなかった」などと言って誤魔化すのではなく、まずは「戦後日本」が憲法9条の存在にもかかわらず<帝国>の戦争に加担してきた事実としっかり向き合うべきである、ということです。憲法9条は、(過去のみならず、現在進行形の)日本の戦争加害を隠蔽し、忘却させるものでは決してありません。護憲派リベラルの皆様は、そのことをくれぐれも忘れないでください。

*1:私は元号を使用することに反対の立場をとっていますが、「平成の時代の戦争」であることを明確にするべく、本稿ではやむを得ず元号を使用しました。元号の使用は私の本意ではないことを付言しておきます。

マイノリティの個人の尊厳は、ヘイトスピーチ対策法で初めて保障されるものではない。

はじめにお断りしておきますが、私はヘイトスピーチ対策法が不要だと言いたいのではありません。私が本稿で言いたいのは、マイノリティの個人の尊厳を保障するのは、法律ではなく憲法である、ということです。

もしかすると、「マイノリティの個人の尊厳は、国民の代表機関である国会がヘイトスピーチ対策法を制定することによって初めて保障される」と思っている人がいるかもしれません。しかし、それは誤解です。マイノリティの個人の尊厳は、国民の代表機関である国会によって与えられる権利ではなく、人間が人間であることから当然に有する権利である人権です。つまり、マイノリティの個人の尊厳を蹂躙するヘイトスピーチは、ヘイトスピーチ対策法が制定される以前から人権侵害なのです。

もっとも、ヘイトスピーチは、国家による人権侵害ではなく個人による人権侵害ですから、憲法を直接の根拠としてそれを規制することはできません。すなわち、ヘイトスピーチ表現の自由の保障の範囲外であるとしても、ヘイトスピーチを行う者にも個人として表現の自由があるのですから、自由が保障される表現と保障の範囲外であるヘイトスピーチを明確に分ける必要があります。そして、それは自由な表現という国民の自由にかかわるものです。そこで、国民の代表機関である国会が制定する法律によって表現の自由の保障の範囲外であるヘイトスピーチを明確にしたのが、ヘイトスピーチ対策法です。つまり、マイノリティの個人の尊厳を保障するのは憲法であり、ヘイトスピーチ対策法は、憲法によるマイノリティの個人の尊厳の保障を実効的なものとするために、ヘイトスピーチという人権侵害を規制するものであるということです。

このように、マイノリティの個人の尊厳を蹂躙するヘイトスピーチは、ヘイトスピーチ対策法が制定される以前から人権侵害なのですから、もし「国民が主権者なのだから、ヘイトスピーチを放置するのも国民の自由だ」と考えている人がいるとすれば、彼のその考えは間違いであると言わざるを得ません。先にも述べたように、マイノリティの個人の尊厳は、人間が人間であることから当然に有する権利である人権です。しかるに、マイノリティの個人の尊厳が守られるのも犯されるのも主権者である「国民」次第だと考えるのは、基本的人権というものを誤解しています。そのような考えは、いわば「マイノリティを煮て食おうと焼いて食おうと主権者である国民の自由」だとするものであり、率直に言って恐ろしいです。

ヘイトスピーチ対策法は、あくまでも憲法によるマイノリティの個人の尊厳の保障を実効あらしめるための方策の一つに過ぎず、ヘイトスピーチ対策法が制定されたからそれで終わりということはありません。ご存知のように、ヘイトスピーチ対策法が施行された後も、相変わらずヘイトスピーチによる人権侵害は後を絶ちません。このような状況の中で、私たちがヘイトスピーチからマイノリティの個人の尊厳を守るための不断の努力を続けることは、まさしく憲法によって課せられた(憲法12条)私たちの重大な責務です。そして、それは私やあなたがマイノリティのために果たすものではなく、私やあなたが尊厳ある一人の人間として生きるために果たすべきものなのです。

差別が許される「理由」など、そもそもない。

www.asahi.com

 

朝鮮学校の授業料無償化除外について、安倍政権は「拉致問題の進展も見られず、(朝鮮学校が)朝鮮総連と密接な関係がある」ことを理由に正当化しています*1。おそらく、日本国民の多くはそれを「もっともな理由」だと感じているでしょう。

しかし、安倍政権が並べる理由は、決して「もっともな理由」ではありません。

誤解している国民が少なくないのかもしれませんが、在日コリアンの民族教育に対する差別と弾圧は、昨日今日に始まったことではありません。それは、日本の敗戦後間もない頃(1950年前後)から*2*3、(美濃部都政のような)若干の例外はあるにせよ、ほぼ一貫して行われてきたことです。一方、安倍政権が理由とする「拉致問題」が発覚したのは1980年頃であり、朝鮮総連が結成されたのも1955年のことです。つまり、日本政府は、「拉致問題」や「朝鮮学校朝鮮総連の関係構築」以前から在日コリアンの民族教育を差別し弾圧してきたということであって、安倍政権が並べる「理由」は、差別を正当化するための後付けの理由にすぎないということです。

こうしてみると、差別者は「理由」があるから差別するのではなく、差別するために「もっともらしい理由」を付けるのだということがよくわかります。もっとも、そもそも、差別は「理由」があれば許されるようなものではありません。朝鮮学校の授業料無償化除外は、国連子どもの権利委員会が指摘するように*4「民族教育を受ける権利」(子どもの権利条約28条・30条)の侵害であり、民族差別です。つまり、朝鮮学校の授業料無償化除外という民族差別は、「拉致問題の進展も見られず、(朝鮮学校が)朝鮮総連と密接な関係がある」ということを理由にして許されるようなものではない、ということです。

大切なことなので繰り返しますが、差別は「理由」があれば許されるようなものではありません。先にも述べましたが、差別者が並べる「もっともな理由」などというものは、差別するために必死になって探してきた「言い訳」に過ぎません。つまり、差別が許される「理由」などというものが、そもそもないのです。

「暴力を表現すること」と「暴力で表現すること」は、別のものである。

「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」と言う人がいます。

「セックスや暴力を描写した表現の自由」が守られるべきであるのは、たしかにその通りです。しかし、だからといって、「差別煽動表現は規制されてはならない」とする考え方には、私は到底賛同できません。

「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」と言う人は、大きな誤解をしています。つまり、それは「暴力を表現すること」と「暴力で表現すること」は、別のものであるということです。

表現の自由が人権として憲法で保障されるのは、それが自己実現の価値(個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値)と自己統治の価値(言論活動によって個人が政治的意思決定に関与するという、民主制に資する社会的な価値)を有するからです。そして、それは究極的に個人の尊厳を確保することを目的とするものです。そうだとすると、セックスや暴力を描写した創作表現といった「暴力を表現すること」は、「人間の生」を描く上で時には必要になるものですから(もっとも、それが暴力性を帯びたものであることは否定できません。したがって、表現するに際して細心の注意を払う必要があります。そして、それは表現者としての矜持です。)、自己実現の価値を有するものであり、それゆえに表現の自由として保障すべきであるといえます。しかし、人種・民族差別表現や性差別表現といった「暴力で表現すること」は、個人の尊厳を踏みにじる暴力そのものにほかならず、自己実現の価値を有するものであるとは到底いえません。したがって、「暴力で表現すること」は、「暴力を表現すること」と異なり、その自由を表現の自由として保障すべきではありません。先にも述べたように、「暴力で表現すること」は、個人の尊厳を踏みにじる暴力そのものにほかならないのですから、その自由を守ることは、表現の自由を守るどころか、むしろ表現の自由の価値を傷つけ、表現の自由を死に至らしめることになります。

以上で、「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」という言説が、「暴力を表現すること」と「暴力で表現すること」を混同した誤解に基づくものであることがお分かりいただけたかと思います。しかしながら、それでもまだ「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」と言う人は納得せず、「たとえ『暴力を表現すること』と『暴力で表現すること』が別のものであるとしても、規制されるべき差別煽動表現の定義が曖昧であれば、保障されるべきセックスや暴力を描写した表現の自由も規制されかねない。だから、やはり差別煽動表現は規制されてはならない」と言うかもしれません。たしかに、規制されるべき差別煽動表現の定義が曖昧であれば、保障されるべきセックスや暴力を描写した表現の自由も規制されかねないというのはその通りです。しかし、そこで問題なのは、(規制されるべき差別煽動表現の)定義の明確性であって、差別煽動表現が表現の自由の保障の外にあると解することが問題なのではありません。そうだとすると、定義の明確性の問題を持ち出して差別煽動表現が表現の自由の保障の外にあることを否定するのは、論点のすり替えです。そのような論点のすり替えをしてまで差別煽動表現の規制に反対する人は、つまるところ差別や暴力の自由を守りたいということなのでしょうか。残念ながら、そう思わざるを得ません。それとも、まさかセックスや暴力を描写した創作表現と差別煽動表現は同じものだとでも言うのでしょうか。もしそう言うのならば、それは創作表現に対する冒涜です。

私は「セックスや暴力を描写した表現の自由」を守りたいと思います。だからこそ、私は決して差別煽動表現を許しません。

 

「嫌韓」という言葉を使うのは、もうやめよう。

はじめにお断りしておきますが、「『嫌韓』という言葉を使うのは、もうやめよう」というのは、「嫌韓」と呼ばれる日本人の態度や言動を批判してはならないということではありません。また、本稿で言いたいことは「『嫌韓』より『好韓』を」でもありません。私が本稿で問いたいのは、「嫌韓」という言葉の妥当性です。

嫌韓」という言葉は、例えば「嫌韓デマ」や「『嫌韓感情』を煽る安倍政権」といったように、民族差別扇動を批判する文脈でもごく普通に使われています。しかし、そもそも「嫌韓」という言葉は、「嫌韓流」や「大嫌韓時代」を思い出せば分かるように、元来は民族差別主義者側の言葉だったはずです。

誤解しないでください。私は、「嫌韓」という言葉が、民族差別主義者側の言葉であるから民族差別扇動を批判する文脈で用いるのは不適切である、と言いたいのではありません。「嫌韓」という言葉が、民族差別主義者側の言葉であるのには理由があります。それは「嫌韓」という言葉が、民族差別という構造的暴力の問題を、「韓国を好きか嫌いか」という個人の趣味趣向の問題にすり替えるものだからです。民族差別は、例えばキムチが好きか嫌いかのような、個人の「好き嫌い」の問題ではありません。

たとえそのつもりがなくても、「嫌韓」という言葉が民族差別を個人の「好き嫌いの問題」に矮小化するものである以上、これを民族差別扇動を批判する文脈で用いるのは、やはり不適切であると言わざるを得ません。民族差別扇動を批判するのであれば、「嫌韓」ではなく「民族差別」であるとはっきり言うべきです。

これまで何度か拙ブログでも触れましたが*1*2、「反日」すなわち日本に反抗することを許されざる悪とする一方で、(韓国人が日本に反抗することは許されざる悪だが、)「嫌韓」すなわち韓国を嫌うことは日本人の自由だとするのは、なんとも傲慢極まりないことです。このような傲慢極まりない、そして、先に述べたように民族差別を個人の「好き嫌いの問題」に矮小化する「嫌韓」という言葉を使うのは、たとえ民族差別扇動を批判する文脈であっても、否、むしろ民族差別扇動を批判する文脈であればこそ、もうやめにしましょう。