葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

フジテレビと法務省入国管理局による悪質な人種・民族差別扇動に断固抗議する

www.asahi.com

 

フジテレビ系で6日夜に放送された「タイキョの瞬間!密着24時」は、国家権力に迎合するマスメディアと国家権力のいわば「共犯関係」による、悪質極まりない人種・民族差別煽動にほかなりません。

案の定フジテレビは、「取材に基づいた事実を放送しており、決して外国人を差別する意図はございません」などという使い古された言い訳で番組を差別煽動を正当化しようとしています。だが、フジテレビの「外国人を差別する意図」の有無が問題なのではありません。排外主義を煽動し、“外国人”差別を助長する効果を生み出すような番組を、そのようなものと知り得ながら(フジテレビは、曲がりなりにも報道機関なのですから)放送することが問題なのです。

フジテレビは「取材に基づいた事実を放送して」いると言いますが、その「事実」というのは、弁護士有志によって指摘されているように「技能実習制度の問題点や、収容施設の医療体制の不十分さ、自殺者が出ていること」といった入管にとって「不都合な事実」を切り捨てた「事実」にすぎません。そうであれば、入管にとって「不都合な事実」の切り捨てという編集を行っている以上、フジテレビに「外国人を差別する意図」があったことは客観的に明白だといえるでしょう。それにもかかわらず「決して外国人を差別する意図はなかった」などと言い逃れようとするフジテレビの態度は、全くもって卑劣であり、非難されてしかるべきです。

この番組に対しては、実際に放送される前から少なからず批判の声がありましたが(ちなみに私も、放送前にフジテレビに対して抗議メッセージを送りました。)、それはこの番組が番組宣伝の時点ですでに悪質な人種・民族差別煽動だったからです。下記のリンク先をご覧になれば分かるように、番組宣伝に含まれるメッセージは、それ自体が人種・民族差別を助長する危険性が極めて高いものであるといえます。

www.fujitv.co.jp

それゆえ、「実際の放送を見てから批判」するのでは遅いのです。フジテレビによって番宣CMや番宣ツイートが流され、それに加えて番組の“主役”である東京入管の公式ツイッターアカウントによって番宣ツイートが流される(それにしても、いくら法務省人権擁護局が「ヘイトスピーチ、許さない」と訴えたところで、同じ法務省の入国管理局がヘイトスピーチを煽るのですから、ヘイトスピーチなどなくなるはずがありません。)時点で、決して看過できない“外国人”に対する差別や偏見が惹き起こされます。それを考えれば、この番組が実際に放送されることでどれほど深刻な差別や偏見が惹き起こされるか、容易に想像できるでしょう(案の定、インターネット上では実際に放送されてしまったこの番組によって惹き起こされたヘイトスピーチが多数観察されます。)。

それでもまだこの番組の危険性が分からない人は、3年前の「7月9日在日強制送還デマ」*1のことはご存じでしょうか。もしご存じであれば、あのデマのことを思い出してください。「7月9日在日強制送還デマ」も、デマを増長させたのは民族差別的な入管行政でした。つまり、今回のフジテレビの番組も、たとえそれが「取材に基づいた事実を放送し」たものであったとしても、相変わらず日本の入管行政が民族差別に満ちたものである以上、「7月9日在日強制送還デマ」のような悪質なデマを再び惹き起こし、ひいては“在日外国人”の平穏な生活や人権の侵害を誘発しかねないものであるということです。いうなれば、この番組は存在そのものが悪質な人種・民族差別煽動なのです。

この番組を許容すべきでないのは、“外国人”に対する差別や偏見を助長するからだけではありません。前述のとおり、この番組は「技能実習制度の問題点や、収容施設の医療体制の不十分さ、自殺者が出ていること」といった入管にとって「不都合な事実」を切り捨てた「事実」を放送したものですが、このような放送は、入管による苛烈な人権侵害を隠蔽し忘却させる効果を発揮し、「入管のおかげでいかに“不良外国人”から日本社会が防衛されているか」を「国民」に“意識”させることで、入管による差別行政と苛烈な人権侵害をさらに増長させるでしょう。その点でこの番組は、まさにフジテレビと入管の「共犯関係」によるプロパガンダ放送であるといえます。

このようなプロパガンダ放送の究極的な狙いは、入管による差別行政と苛烈な人権侵害を批判しない“空気”を醸成し、あるいは入管による差別行政への支持と協力に「国民」を動員することです。そうであれば、すでに番組が放送されてしまった今、まず私たちができることは、このような番組を絶対に許容しない意思表示をすることです。

私は、本稿をもって、フジテレビと法務省入国管理局による悪質な人種・民族差別煽動に断固抗議します。

歴史を忘れた「日韓関係」に未来はない

www.asahi.com

 

朝日新聞のこの社説は、一口で言うと、非対称な「どっちもどっち論」で「問題の本質」をはぐらかす、(朝日新聞らしいといえば朝日新聞らしい)浅薄な社説です。

たしかに、この社説も、「『過去の直視』を日本が怠り……」と、日本の責められるべき点について触れてはいます。しかし、靖国問題や教科書問題、あるいは旭日旗問題といった具体的問題には触れていません。その一方で、「宣言が乗り越えようとした『不幸な過去』がくすぶり続ける」要因として、6年前の李明博大統領(当時)の独島訪問や、秋元康氏作詞のBTS(防弾少年団)新曲が発売中止となった件を挙げるなど、あたかも「韓国側の反日的な態度こそが宣言が乗り越えようとした『不幸な過去』をくすぶらせている」とでも言いたげな論調です。これは、この社説を読んだ(リベラルな)日本国民に「日本の側にも非はあるかもしれないが、韓国側の反日的な態度こそが未来に向けた良好な日韓関係の構築を妨げている」という印象を抱かせるでしょうが、しかしそれは「日韓関係」の問題の本質を見誤らせるものでしかありません。

そもそも6年前の李明博大統領(当時)の独島訪問は、日帝による植民地支配を正当化する日本政府(当時は野田政権)への対抗として行われたものであって*1李明博氏が右派政治家であることを考慮しても、単なるナショナリズム高揚のためのパフォーマンスとして行われたものではありません。しかるに、その点に触れずに「『不幸な過去』がくすぶり続ける」要因としてあげるのは、読者に「韓国側の反日的な態度こそが未来に向けた良好な日韓関係の構築を妨げている」という印象を抱かせる「悪意」があると思えてなりません。

また、「BTS新曲発売中止問題」に関しては、古家正亨氏の「文化に政治やナショナリズムを持ち込もうとする新たな動きが、日韓双方に出始めている。とても心配だ」というコメントを紹介していますが、古家氏のこのコメントこそ、まさにフジロックに出演したSEALDsの奥田愛基氏が浴びせかけられた「音楽に政治を持ち込むな」ではないでしょうか*2。なお、古家氏に関しては以前のエントリ*3でも批判しましたが、韓国のポップカルチャーを「歴史を忘却させるためのコンテンツ」にしてしまうのは、まさに愚の骨頂です。

そして、この社説は「慰安婦問題」に関しても、大きな誤りを犯しています。

「韓国政府は合意の破棄を否定しつつも、前政権の失政だとして事実上の形骸化を図り、責任を果たそうとしない」と言いますが、文在寅政権は日本軍性奴隷被害者に対する責任を果たそうとするからこそ、欺瞞的な日韓「慰安婦」合意に対して消極的な態度をとり、日本政府に対して自発的で誠実な謝罪を求めているのです。日本軍性奴隷被害者に対する責任を果たそうとせず、被害者救済(被害者の名誉と尊厳の回復)の形骸化を図っているのは、紛れもなく日本政府です。それを認識せずに韓国政府をあげつらう朝日新聞は、もはや「慰安婦問題」に関して日本政府と「同罪」であるといってよいでしょう。

おそらく、「共同宣言の核心である『過去の直視』を日本が怠り、韓国が『未来志向の関係』を渇望しないのならば、いつまでたっても接点は見つからない」という言説に共感する読者は少なくないでしょう。しかし、この「過去」と「未来」の捉え方は間違っています。「韓国が『未来志向の関係』を渇望」する・しない以前に、他でもなく日本自身が「負の歴史」という「過去」と向き合い、これを克服してはじめて「未来志向の関係」を構築することができるのです。日本の政府やマスメディア、そして国民が日帝による植民地支配を美化し、あるいは正当化し続ける限り、いくら「シャトル外交」などを行ったとしても、決して「未来志向の関係」など構築することはできないでしょう。歴史を忘れた「日韓関係」に、未来はないのです。

もっとも、そもそも「日韓共同宣言」は、権赫泰先生が『平和なき「平和」主義」*4で指摘しておられるように*5、(日本の)植民地支配の責任問題を曖昧にしてしまった「六五年(日韓基本条約)体制」を根本的に問い直すものではなく、むしろ「(『おわび外交」と「国民基金」方式からなる)九五年体制」によって「六五年体制」を補完することで、日本の国家としての責任を矮小化するものにすぎないのかもしれません。皮肉にも朝日新聞のこの社説は、そのことを如実に表しているように思えます。

f:id:yukito_ashibe:20181009202310j:plain

역사를 잊은 민족에게 미래는 없다(歴史を忘れた民族に未来はない)光州学生独立運動記念館にて撮影

*1:

https://japanese.joins.com/article/376/157376.html

*2:

www.huffingtonpost.jp

*3:

yukito-ashibe.hatenablog.com

*4:

平和なき「平和主義」 | 法政大学出版局

*5:「例えば、一九九八年一〇月の金大中大統領と小渕恵三総理が共同で発表した「日韓共同宣言——二一世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」は、九五年体制の代表的成果といえる。……だが重要なことは、九五年体制は六五年体制の補完物であって代替物ではないということである。「おわび外交」と「国民基金」方式からなる九五年体制は国家責任と国家賠償を否定し、「おわび」という形に言いかえて、「縫合」を通して「戦後」が生み出した矛盾を体制内へと吸収し、六五年体制を延命させる試みであった。この頃から植民地支配の責任問題は、六五年体制を根本的に問い直すのではなく、「おわび」の内容やその表現を争点とし、矮小化された。」(権赫泰『平和なき「平和主義」』法政大学出版局、2016年、15頁–17頁)

高橋哲哉教授の「米軍基地引き取り論」への疑問

「なぜ「県外移設」=基地引き取りなのか」東京大学教授・高橋 哲哉 | 特集/混迷する世界への視座

 

沖縄への異常な基地偏在が「沖縄差別」であることについては、もちろん私も異論はありませんし、私自身が構造的には「差別している側」の人間であることは言い逃れできない事実です。しかし、高橋先生ご自身がおっしゃるように沖縄への異常な基地偏在が「構造的差別」の問題であり、また、「平和主義の憲法」を持つ国である(はずの)日本国の国民が真摯に向き合うべき「日米安保条約」の問題であるからこそ、私は高橋先生の「米軍基地引き取り論」にはどうしても疑問を禁じえません。

まず、高橋先生は「本土(私は、そもそもこの「本土」という言葉に違和感を禁じえないのですが……)への米軍基地引き取り」を正当化する理由として、「日米安全保障条約が『日本の平和と安全に役だっている』という人は、近年の世論調査で80%を超えている。安保条約を『今後も維持することに賛成』の人も、同じく80%に達している」ことを挙げておられます。たしかに、「本土」の「日本国民」の多数が日米安保条約を必要だと考えているということは、「本土への米軍基地引き取り」に一理あるようにも思えます。 しかし、ここで忘れてならないのは、日米安保条約の問題というのは「平和的生存権」という人権の問題である(なお、「平和的生存権」については名古屋高裁自衛隊イラク派遣差止訴訟判決を参照してください*1)ということです。つまり、「平和的生存権」という人権の問題である以上、「多数決の論理」によって日米安保条約による平和的生存権の侵害を正当化することは許されないはずです。しかるに、なぜ高橋先生はその点を無視するのでしょうか。もちろん、「多数決の論理」によって沖縄の人々の平和的生存権が侵害されている現状を正当化することが許されないことは言うまでもありません。しかし、そうであれば、同様に「多数決の論理」によって「本土」の人民の平和的生存権の侵害を正当化することも許されないのです。

もっとも、「沖縄の人々が、米軍基地を存置する決定に一度も参加させられたことがない」のであるから、米軍基地の存置は民主主義的根拠を欠く不当なものであるというのは、たしかに高橋先生のおっしゃるとおりです。しかし、高橋先生はひとつ大事なことを忘れておられます。それは、被治者であるにもかかわらず民主主義のプロセスから疎外されている人々の存在です。そのような人々を「『本土』の国民」に束ねるというのは、全体主義的であると言わざるを得ません。

つぎに、高橋先生は反戦平和運動における「米軍基地は沖縄にも日本のどこにもいらない」というアピールを批判し、「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け、今や8割を超え9割に達しようとしている。反戦平和の立場であっても、こうした状況で直ちに『安保廃棄』が見通せない限り、『安保廃棄』が実現するまでは、『県外移設』によって沖縄の基地負担を引き受けるしかないのではないか」ということを主張しておられます。たしかに、直ちに「安保廃棄」が見通せないのは事実です。しかし、だからといって「『県外移設』によって沖縄の基地負担を引き受けるしかないのではないか」というのは、「現状追認」にほかなりません。それは、あたかも「憲法は『戦力』の保持を禁止しているが、現実には自衛隊という『戦力』が存在するのであるから、憲法を改正すべきである」と言うのと同じです。それに、「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け、今や8割を超え9割に達しようとしている」ことを理由に、「安保廃棄」を唱えることが無駄だというのであれば、「本土」に米軍基地を引き取ったところで、在日米軍が拡大・増強するだけであって、それは沖縄の人々に米軍基地を押しつけている「真の主犯」である米日両政府を利するだけです。そもそも、沖縄への異常な基地偏在が「構造的差別」の問題だとすれば、その差別構造を真に必要としているのは、いったい誰でしょうか。この点について、私は「米軍基地引き取り論」に、「一億総懺悔論」に通ずるものを感じてしまいます。

お断りしておきますが、私は厄介だから(もっとも、基地周辺の住民にとって基地は厄介以外の何ものでもないでしょうが)というだけの理由で「米軍基地引き取り論」を批判しているのでありません。日本に米軍基地が存在することそれ自体がアメリカの戦争への加担であるから、批判しているのです。高橋先生も「在日米軍基地から海外の紛争地域に米軍が出撃し、戦後日本は朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争、『対テロ戦争』、イラク戦争などで事実上米軍に加担してきた」とおっしゃっています。そしてまた、「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」ともおっしゃっています。それなのに、どうしてアメリカへの戦争への加担を容認するのでしょうか。その点に関して、高橋先生は「問題解決のプロセスのなかで安保条約を『前提』せざるをえないことと、安保条約を『容認』することとは違う」とおっしゃっていますが、私には苦し紛れの言い訳にしか聞こえません。「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」のであれば、問うべきは「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」です。しかるに、「安保条約は『前提』なのだから不問に付すべし」というのは、「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」を容認することにほかなりません。そもそも、「問題解決のプロセスのなかで安保条約を『前提』せざるをえない」とは、いったいどういうことでしょうか。「安保条約が事実として存在し、それを前提として現実が動いている以上、基地問題について対応しようとすれば、誰もがそれを前提として動かざるをえない」というのも、やはり「現状追認」でしかありません。また、差別的な地位協定に関しては、その根源である「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」そのものを問うこともできるのであって(「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」立場からは、むしろ「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」そのものを問うのが筋でしょう)、「日米安保条約」を絶対的な前提として話を進めるのは、はっきり言って詭弁です。

「前提」についていうのであれば、そもそも日本の人民が米軍駐留の「利益」を享受しているというのは、あくまでも日米両政府の「言い分」であって、正しくはありません。在日米軍は、あくまでも米軍の世界戦略というアメリカの利益のためのものです。日本の利益は、アメリカの戦争に加担することで得られる反射的なものにすぎず、しかも、それはあくまでも「国家」の利益であって、人民の利益ではありません。そうであれば、「本土への米軍基地引き取り」を正当化する理由として「利益の享受」云々を持ち出すのは、まったくのナンセンスです。それこそ、国家の「言い分」を鵜呑みにした、まさに「思考停止」ではないでしょうか。「茶色の朝」を迎えたくなければ、思考停止をやめることです*2

しばしば「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」ということが言われますが、それは間違いです。「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」のではなく、日本がアメリカの戦争に加担しているのです。米軍基地問題に関しては、よく「日本国民は当事者意識を持て」ということが言われますが、憲法9条の存在にもかかわらず日本がアメリカの戦争に加担していることをしっかりと認識するのも、これもまた日本国民に必要な「当事者意識」ではないでしょうか。

「当事者意識」について、高橋先生が「『本土』の有権者が『県外移設』=基地引き取りに向き合うことは、安保廃棄の道筋としても必要であ」るとおっしゃるのは、「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができないだろう、ということなのでしょう。たしかに、沖縄の米軍基地問題を他人事と思っている「『本土』の有権者」には、そのような荒療治が効果的かもしれません。しかし、私はそれに「平和のための徴兵制」論と同様の危うさを感じます。はたして「アメリカの戦争への加担」を伴うものだけが、沖縄の米軍基地問題を他人事と思っている「『本土』の有権者」に「当事者意識」を持たせるために採るべき唯一の方法でしょうか。米軍基地問題の解決という恒久平和主義の実現のために、「アメリカの戦争への加担」を容認するというのは、それこそ本末転倒ではないでしょうか。そもそも、「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができない」と決めつけるのは、「教育者」の態度としていかがなものかと思います。もし「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができない」というのが真実だとすれば、それはまさに「知性の敗北」でしょう。

沖縄タイムスは、高橋先生の「米軍基地引き取り論」を「筋の通った理(ことわり)は胸に響く」と称賛しています*3。しかし、残念ながら私には、それが「筋の通った理」であるとは思えません。それどころか、学者としての「知的誠実さ」を欠くものであるように感じられます。私自身、高橋先生の『国家と犠牲』*4から多くを学んだ一人ですので、ほかならぬ高橋先生ご自身が国民動員の巧妙な「犠牲の論理」に囚われてしまったことを、大変残念に思います。

最後に、高橋先生は「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け……」と冷笑なさるでしょうが、それでもあえて言います。米軍基地は、沖縄にも日本のどこにもいらない!これ以上誰も、殺し、殺されるな!

 

「国民性」という概念を用いて「日本における差別」を語ることの危うさ

日本社会に差別が蔓延する理由として、「国民性」という概念を持ち出す人がいます。

おそらく、それに賛同する人も少なくないでしょう。

しかし、私はそのように「国民性」という概念を安易に持ち出すことには賛同できません。思うに、そこでいう「国民性」が「国民の素質」を意味するのであれば、それは「個人」を蔑ろにする間違ったものであり、「問題の本質」を見誤るものであるといえます。

日本社会に差別が蔓延するのは、「個人」を無視した「国民性」などではなく、国家があたかも差別に加担することが「国民の条件」であるかのような「空気」を醸し出し、「国民」を差別へと駆り立てるからです。つまり、「国民」という「束ねられる側」ではなく、「国家」という「束ねる側」に由来する問題だということです。もし「国民」たる人民に非難されるべき点があるとすれば、それは「国民性」なるものを備えている点ではなく、「国家」が醸し出す「空気」に抗わずに易々と差別加担へと動員されてしまう点でしょう。もっとも、そうであれば「国民」たる人民は、自らが「国民」であることの危うさに自覚的であるべき(もちろん、これは「国民」として束ねられている私自身についても言えることです)なのですが、残念ながらその点に無頓着な「国民」が少なくないようです。

そもそも「国民」という概念は、「同化と排除」の機能をもつ暴力的なものです。そうであれば、たとえ日本社会を批判する文脈で用いるのであっても、「国民性」という暴力性を帯びた概念を安易に用いることは厳に慎むべきです。

なお、くれぐれも誤解しないでいただきたいのですが、私は決して「日本社会に差別が蔓延する理由として『国民性』という概念を持ち出すのは、日本人に対するヘイトスピーチだ」などという馬鹿げたことを言いたいのではありません。私が言いたいのは、「国民性」という概念を用いて「日本における差別」を語ることの危うさです。先にも述べましたが、日本社会に蔓延する差別に抗する皆さんは、どうか「問題の本質」を見誤らないでください。

 

独立紀念館で考えたこと

過日、韓国を旅した私は、天安にある独立紀念館を訪問しました。

f:id:yukito_ashibe:20180921233604j:plain

独立紀念館は、日本ではしばしば「(韓国国民の)ナショナリズム高揚のための反日施設」だなどと評されます。

もちろん、国立博物館に準ずる施設ですから、「ナショナリズム高揚」的な要素が皆無ではありません。しかし、ここを訪れた日本国民が、その展示をナショナリズムを過剰に煽る、誇張あるいは捏造されたものだと思うのであれば、それは彼がその展示を、韓国を劣ったものとして見下す「日本国民のまなざし」で見ているからではないでしょうか。いったい何を根拠に、彼はその展示をナショナリズムを過剰に煽る、誇張あるいは捏造されたものだと思うのでしょうか。もし彼が近代日本の「正史」を根拠にそう思うのであれば、それはやはり、彼が「コリア停滞史観」によって形作られた「日本国民のまなざし」によって見ているからであるといえます。残念ながら、日本国民は決して「神の目を持つ者」などではありません。そうであれば、可及的に「客観視」するには「他者」の側から見るしかないのです。

そもそも、展示解説の内容の大半が、日本で出版されている岩波新書等の定評ある新書に書かれているレベルのものです(もっとも、日本の歴史修正主義者たちはそれを「自虐史観」だなどと揶揄しますが……)。しかるに、そのようなものをナショナリズムを過剰に煽る、誇張あるいは捏造されたものだと思うというのは、やはり偏見であるといえるでしょう。「日本国民」である私も、ここでは自らの「日本国民」としての偏見が常に問われる感じでした。

f:id:yukito_ashibe:20180921233715j:plain

独立紀念館については、「反日施設」(そもそも、「反日」などという言葉それ自体が傲慢なものですが*1)というのもよく言われることです。日本国民曰く、このようなは「反日施設」や学校での「反日教育」によって、韓国人の日本に対する敵意や憎しみが醸成されるのだ、と。しかし、私はそれは間違いだと思います。思うに、韓国の歴史教育を受けてきた韓国の若い人たちが日本に対して抱くのは、「敵意や憎しみ」などではなく、「加害の歴史に向き合おうとしない日本の政権や国民に対する失望」でしょう。

f:id:yukito_ashibe:20180921233750j:plain

以上、独立紀念館が「(韓国国民の)ナショナリズム高揚のための反日施設」だというのが日本国民の偏見であることがご理解いただけたでしょうか。それでもなお、独立紀念館を「ナショナリズム高揚のための反日施設」だと言うのであれば、日本が自らの手で、国家レベルで日帝の侵略と植民地支配を反省し記憶する場を日本に設けるしかありません。否、むしろ日本は、日帝の侵略と植民地支配を反省し記憶する場を日本に設けるべきであり、それこそがまさに日本が果たすべき「責任」の一つです。

 

ヘイトアクションは、「日本の恥」だから許されないのではない。

日本の団体が台湾の慰安婦像に乱暴 国民党議員、日台交流協会前で抗議 | 政治 | 中央社フォーカス台湾

 

日本の保守団体メンバーによる、この卑劣な行為に対しては、日本でも少なからず非難の声が上がっています。しかしながら、その多くが「日本の恥である」だとか「日本を貶めるものだ」といったものであります。

たしかに、彼の卑劣な行為は、台湾のみならず国際社会の日本に対する印象を悪くするものだといえます。しかし、彼の卑劣な行為が非難に値するのは、決して「日本の恥である」だとか「日本を貶めるものだ」からではありません。彼の卑劣な行為が非難に値するのは、日本軍性奴隷被害者を侮辱し、尊厳を踏みにじるものだからです。

このことは、日本社会に蔓延するヘイトスピーチについてもいえることです。ある「保守論客」は、「ヘイトスピーチによって最も傷がつく存在とは、何を隠そう「日本」という国家の国威・イメージであり、ひいては日本国の『国益』そのものなのである」などと言い*1、このような言説に共感を覚えるリベラル人士も少なくないようです。しかし、ヘイトスピーチが許されないのは、「日本」という国家の国威・イメージを傷つけるからではありません。ヘイトスピーチが許されないのは、それが記号的存在ではない、一人ひとり違う顔を持つ生身の人間の尊厳を踏みにじるものだからです。

そもそも、ヘイトスピーチの根底にある差別観を拠り所としているのは、何を隠そう「日本」という国家です。しかるに、ヘイトスピーチによって「日本」という国家の国威・イメージが傷つけられたなどと「被害者面」するのは、まさしく「厚顔無恥」だといえます。また、「国家の国威」を理由に少数派が抑圧されてきた歴史に鑑みれば、マイノリティを踏みにじるものであるヘイトスピーチが許されない理由として「国家の国威」などというものを持ち出すのは、正しくありません。

日頃から「反ヘイトアクション」を訴えるリベラル人士が、今回の事件のようなヘイトアクションについて、開口一番「日本の恥である」だとか「日本を貶めるものだ」などと言うのは、本当に残念なことです。「反ヘイトアクション」を訴える私たちは、「ヘイトアクション」が許されないのは、それが記号的存在ではない、一人ひとり違う顔を持つ生身の人間の尊厳を踏みにじるものだからであることを、決して忘れてはなりません。今回の事件でも、私たちが真っ先に目を向けなければならないのは「日本の名誉」ではなく、「日本軍性奴隷被害者の名誉と尊厳」なのです。

「元ネット右翼」のあなたへ

「私がネトウヨになったのは、外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼のせいだ」と言う、元「ネット右翼」の人がいます。どうやら、そのような言い訳に共感し、左翼に反省を求めるリベラル人士も少なくないようです。

もちろん、左翼に反省すべき点はない、などと言うつもりはありません。しかし、それでも私は、元「ネット右翼」の人のそのような言い訳には共感できません。なぜなら、「外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼のせいだ」というのは「外国人」や「左翼」をスケープゴートにするものであって、それはまさに排外主義右翼のやり口そのものだからです。つまり、そのような言い訳をする元「ネット右翼」の人は、残念ながら未だ排外主義を克服できていないと言わざるを得ないでしょう。

「私がネトウヨになったのは、外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼のせいだ」と言い訳する元「ネット右翼」の人は、誤解しています。あなたを苛む漠然とした“恐怖”や“不安感”の原因は、「外国人」でもなければ「外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼」でもありません。どうか、あなたを苦しめる「真の原因」を見誤らないでください。

もちろん、左翼が(むしろ、左翼であればこそ)人間を切り捨ててはならないのは、言うまでもないことです。しかし、「切り捨ててはならない人間」ということに、「日本人」も「外国人」も関係ありません。そうであれば、そもそも「日本人のために」だとか「外国人のために」と考えることが間違っています。どうか誤解しないでください。左翼は「外国人」の権利を主張しているのではありません。「外国人」だからという理由で切り捨てられている人間の権利を主張しているのです。そして、人間が「外国人」だからという理由で切り捨てられているからこそ、「外国人」だからという理由で人間を切り捨てることを糾弾しているのです。

あなたが誤解していることは、まだ他にもあります。それは、左翼はあなたを救済する弁護士でも宗教家でもないということです。あなたがやるべきことは、「左翼が私を救ってくれない」と左翼を恨み「ネット右翼」となってあなたと同じように踏みつけられている人を踏みつけることではなく、あなた自身が左翼となって、あなたと同じように踏みつけられている人と共に声を上げることです。私は左翼ですが、あなたを苦しみから救うことなどできませんし、私があなたを苦しみから救ってあげましょうなどと言うのはおこがましいことです。しかし、あなたと同じように踏みつけられている私は、あなたと共に声を上げることができます。「草の根の左翼」は、あなたと同じ踏みつけられている人間なのです。