葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「ヘイトスピーチ、許さない」だけでは、「木を見て森を見ず」である。

政権与党である自民党の議員が「ヘイトスピーチ、許さない」と言ったとして、それを好意的に受け止める人は少なくないでしょう。

もちろん、私はそれを悪いことだと言うつもりはありません。しかし、私はそれを手放しで称賛することに、どうしてもためらいを感じてしまいます。

ヘイトスピーチ、許さない」と言う(政権与党である)自民党の議員は、日本による侵略や植民地支配を正当化せんする日本政府の歴史修正主義的な態度や、朝鮮学校に対する差別政策、あるいは入管当局による差別や人権侵害について、はたしてどのように考えているのでしょうか。もし、彼がそれらについて肯定的に考えているのだとすれば、彼がいくら「ヘイトスピーチ、許さない」と言ったところで、それは欺瞞でしかないでしょう。なぜなら、日本政府の歴史修正主義的な態度も、朝鮮学校に対する差別政策も、入管当局による差別や人権侵害も、どれもヘイトスピーチの「題材」を提供するものであり、あるいはヘイトスピーチに「お墨付き」を与えるものだからです。

誤解がないようにお断りしておきますが、何も私は、自民党議員による「反ヘイトスピーチ」を好意的に受け止める人を冷笑したいのではありません。私が言いたいのは、ヘイト団体やヘイトメディアによるヘイトスピーチだけを問題視して、自民党政権歴史修正主義的な態度や民族差別政策を等閑視するというのは、「木を見て森を見ず」であるということです。もちろん、ヘイト団体やヘイトメディアを批判することも大切ですが、しかし、自民党の議員が、もし本当に「ヘイトスピーチ、許さない」のであれば、なによりもまず自党の歴史修正主義的な態度や民族差別政策を批判すべきです。しかるに、それができないのならば、自民党議員の「ヘイトスピーチ、許さない」は、政権与党の歴史修正主義的な態度や民族差別政策から市民の目をそらし、あるいは差別に反対する市民の“ガス抜き”をするものでしかないでしょう。

もしかすると、リベラルの方の中には、拙稿の見解を「ヒネクレた見方」であると思う方もおられるかもしれません。あるいは、「自民党だからと全否定するのは、悪しきセクト主義だ」と批判する方もおられるでしょう。私はセクト嫌いなので「悪しきセクト主義だ」との批判は心外ですが、ただ、たしかに私はヒネクレ者ですから、拙稿の見解を「ヒネクレた見方」であるという批判は甘受しましょう。しかし、むしろ私は、本稿で述べた点を看過して自民党議員による「反ヘイトスピーチ」を手放しで称賛する声に、どうしても「危うさ」を感じてしまうのです。

人権は「人間の権利」であって、「国民の権利」ではない。

日本国憲法第11条は「『国民』は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」と規定し、また、第12条は「この憲法が『国民』に保障する自由及び権利は……」と規定していることから、日本国憲法による人権の保障が及ぶのは、あたかも「日本国民」だけであるかのように思えるかもしれません。

たしかに、「国民」という条文の文言に拘泥し、「日本国憲法の規定する人権は、日本国民にのみ保障される」とする見解や「憲法の人権規定のうち、『国民は』となっている規定は、外国人には適用されない」とする見解もないわけではありません。しかし、そもそも人権とは、「人種、性、身分等の区別に関係なく、人間であれば当然に享有できる権利」です(人権の普遍性)。しかるに、人権が「日本国民」にしか保障されないとするのは、人権の本質に悖るといえます。したがって、日本国憲法による人権の保障は、権利の性質上「日本国民」のみをその対象としていると解されるものを除き、日本国に在留する「外国人」に対しても等しく及ぶ、とするのが通説・判例*1です。つまり、日本国憲法の規定の「国民」という文言に、特段意味はないということです。

もっとも、前述のとおり「国民」という文言ゆえに「日本国憲法の規定する人権は、日本国民にのみ保障される(すなわち『外国人』には保障されない)」と解する余地がないわけではなく(ただし、そのような解釈が人権の本質に悖るものであることは前述のとおり)、そして、そのような解釈が排外主義あるいは民族差別の煽動に利用されるという問題もあります。それゆえ、やはり、日本国憲法の規定の「国民」という文言は改正されるべきであると私は思います。これこそ、まさに「個人の尊重」という日本国憲法の基本理念に適う、「憲法を護るための改憲」です。

「個人の尊重」という日本国憲法の基本理念を真に実現するには、さらに「国民」の意義そのものを問い直すことが必要です。つまり、「日本」という国を、そこで生活する一人ひとりが尊厳ある人間として生きることのできる国にするには、「同化と排除の論理」に基づいて構築された現在の「日本国民」の概念を、「共生の論理」に基づき新しく構築しなおすことが、ぜひとも必要なのです。

「表現の自由」について論じる上で、大切なこと。

ある表現に対する私人(個人)による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じる人が、しばしば見受けられます。おそらく、彼らは自分たちの愛好する表現が迫害されているように感じるゆえに、私人による批判をあたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように捉えてしまうのでしょう。

もちろん、自分たちの好きな表現が批判されて不愉快に思う気持ちは分からなくもありません。しかし、ある表現に対する私人による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じるのは、憲法学的に見ると誤った議論です。

ある表現に対する私人による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じる人は、大事な点を見落としています。つまり、それはある表現を批判する私人も、ある表現を行う私人と同様に「表現の自由の主体」だということです。その点で、私人の批判は国家による規制や介入とは大きく異なります。立憲主義憲法は、国家権力の制限を目的とするものですから、そもそも国家は「表現の自由の主体」たりえません。しかし、人権が普遍的なものであることに鑑みれば、いかなる私人も「表現の自由の主体」たりうるのですから、ある表現を行う私人の表現の自由憲法上保障されるのであれば、その表現を批判する私人の表現の自由もまた憲法上保障されるのです。

憲法は、原則として「国家と私人(個人)の関係を規律する」ものです。もっとも、資本主義の高度化にともない、大企業やマスメディアのような大きな力を持った私的団体による人権侵害の危険が顕著となったことから、憲法を「私人と私人の関係」に適用する必要性が論じられるようになりましたが、前述したように私人が「自由の主体」であることに鑑みて、憲法は「私人と私人の関係」では民法公序良俗規定のような私法の一般条項を通じて間接的に適用されると解するのが通説・判例*1です。

この点に関連して、よく誤解されているのが、いわゆる「表現の自主規制」です。表現の萎縮効果をもたらすような規制や介入は、もちろん「表現の自由」に対する重大な脅威です。ただし、ここで誤解してはならないのは、あくまでも「加害者」は表現の萎縮効果をもたらすような規制や介入を行う国家であって、萎縮効果の影響によって自主規制を行う私人(私的団体)は「被害者」であるということです。しかるに、萎縮効果の影響によって自主規制を行う私人が「加害者」であることを前提とした議論は、「真の敵」を見誤ったものであるといえます。また、ある表現行為の主体たる私人(私的団体)が、その表現に対する私人の批判を十分に斟酌した上で、自由な意思によって表現行為を差し控えることは、表現行為の主体たる私人の「表現の自由」であり、その表現に対する私人の批判は「表現弾圧」などではありません。もちろん、その表現に対する私人の批判が、暴力や脅迫によって表現行為の主体たる私人の自由な意思決定を妨げるようなものであれば、それは表現の自由に対する不当な侵害以外のなにものでもありませんが……。

表現の自由とその規制」は憲法上の問題ですから、それを論ずるにあたっては、「憲法は国家と私人の関係を規律するものである」という原則を踏まえることが必要です。また、これは法学全般についていえることですが、「木を見て森を見ず」にならないように、常に「対立利益」を意識することが大切です。つまり、自己の正当な権利が尊重されるのであれば、他者の正当な権利もまた同様に尊重されるのだということに、思いを至らせることが大切なのです。

「日本の民主化」を実現するために

おそらくこれまでは、多くの日本国民が「日本は民主主義国家である」と信じて疑わなかったでしょう。しかし、「森友学園問題」で「日本は民主主義国家である」という確信が揺らいだのでしょうか、「日本を民主化しよう」という声が上がり始めています。

もちろん、私も「日本の民主化」を希求する一人ですから、そのような声が上がり始めたことを大変心強く思います。しかし、同時に「民主化」という言葉がどうも独り歩きしてしまっているように思えてなりません。

それでは、「民主化」とはいったい何か。これについては、「民主主義」の意義から考える必要があります。

「民主主義」とは、憲法学上「治者と被治者の自同性」であると定義されます。すなわち、「治める者と治められる者が同一である」ということです。かかる定義に鑑みれば、「民主化」とはまさに「治者と被治者の自同性」を実現することであるといえます。

そうだとすれば、「治者」と「被治者」の乖離が甚だしい今日、まずは「治者と被治者の自同性」を回復しなければなりません。安倍政権を終わらせることが必要なのも、そのためです。しかし、そのような「縦の関係」で民主化するだけでは不十分です。それというのも、日本の民主主義システムは、「治者」ではない「被治者」を生み出すような不完全なものだからです。したがって、「治者」ではない「被治者」を生み出すような民主主義システムを変えるという、「横の関係」で民主化することも必要です。しかるに残念ながら、日本では「横の関係」での民主化が軽視ないしは無視されているように思えてなりません。

安倍政権打倒の気運に水を差すなと叱られるかもしれませんが、安倍政権打倒の気運が高まる今だからこそ、私は言いたいと思います。安倍政権を倒すだけでは、決して「日本の民主化」は完成しません。もちろん、それは「日本の民主化」への大切な第一歩ですが、しかし、あくまでも「第一歩」なのです。安倍政権を倒し、さらには自民党政権を倒すことで「治者と被治者の自同性」を回復した「日本国民」が、「日本の民主化」のために是非ともしなければならないのは、「治者」ではない「被治者」を生み出す日本の民主主義システムを変えることです。そうして、日本の民主主義システムを「治者」ではない「被治者」を生み出すことのないものへと変えることができたときにはじめて、日本は「民主化」を実現したということができるのです。

 

「森友学園問題」の本質

《3分でわかる》森友学園財務省の文書「書き換え」疑惑をイチから振り返ってみました

https://www.huffingtonpost.jp/2018/03/11/moritomo_a_23382926/

 

いわゆる「森友学園問題」に関して、行政府が立法府を欺くために公文書を改ざんするという議会制民主主義を根底から揺るがす犯罪に対して、連日多くの市民から抗議の声が上がっています。

もちろん、行政府が立法府を欺くためにした公文書の改ざんが許されざる犯罪であることは言うまでもありません。ただ、そもそもなぜ安倍政権の下で、森友学園に対して不正の疑いが濃厚な国有地の売却がなされたのでしょうか。未だ安倍首相夫妻は関与を否定していますが*1、これまで明らかになった事実に鑑みれば、安倍首相夫妻が関与していると考えて間違いないでしょうし、安倍首相夫妻が森友学園の教育方針に共感し支援していたのは周知の事実です。そうだとすると、安倍政権は、森友学園を通じていったい何を実現しようとしていたのでしょうか。思うに、これこそが「森友学園問題」の本質です。公文書の改ざんも当然重大な問題ですが、それだけにとらわれると「木を見て森を見ず」になりかねません。私たちは、ここで今一度「森友学園問題」の本質を振り返る必要があります。

それでは、安倍政権は、森友学園を通じていったい何を実現しようとしていたのでしょうか。ご存知のように、安倍首相夫妻が共感していた*2*3森友学園の教育方針とは、森友学園が運営していた幼稚園で園児に施していた“教育”からも分かるように、極右排外主義的なものです*4*5。そして、このような森友学園の教育方針は、安倍政権の価値観とも軌を一にするものです。不正の疑いが濃厚な国有地の売却への安倍政権の関与については、一日も早い真相解明が待たれますが、もし安倍政権が関与しているとすれば(以下、安倍政権の関与を前提として話を進めることをお断りしておきます。私は、安倍政権の関与が、そう遠くないうちに明らかにされるであろうことを信じています。)、安倍政権は、森友学園を通じて極右排外主義的な価値観をもった国民を育成しようとしていた、ということがいえます。

このことから分かることは、問題の公文書改ざんも、森友学園に対する不正の疑いが濃厚な国有地の売却も、それ自体が目的ではなく、安倍政権が極右排外主義を実現する手段として行われたものである、ということです。つまり、安倍政権が極右排外主義を実現するために、いともたやすく行政が歪められてしまったのです。そして、このような政権は、極右排外主義を実現するためであれば平気で人間の尊厳を踏みにじるでしょう。否、すでにこのような政権は、極右排外主義を実現するために「法の支配」を歪め、「歴史」を歪めるなど、ありとあらゆる方法で人間の尊厳を踏みにじってきました。例えば、本来は普遍的なものである人権を、あたかも「国民固有の権利」であるかのように曲解し、人権を奪ってきたように。あるいは、日本の過去の「負の歴史」を修正することで侵略戦争と植民地支配を正当化せんとし、被害者の尊厳を踏みにじってきたように……。

繰り返し言いますが、「森友学園問題」は、公文書の改ざんや国有地の不正売却にだけとらわれると「木を見て森を見ず」になりかねません。「森友学園問題」は、安倍政権が極右排外主義的であり、そのような政権によって日本社会に極右排外主義が蔓延した(そして、そのような極右排外主義を蔓延させる安倍政権を許容する土壌を培ってきたのは、他でもない自民党政権です。)がゆえに起こったものなのです。思い出してください、そもそも森友学園がクローズアップされたのは、前述したように森友学園の教育方針が極右排外主義的であり、それが安倍政権の価値観とも軌を一にするものだったからです。

さらに言えば、「森友学園問題」はあくまでも「氷山の一角」です(もちろん、大きな一角であることに間違いありませんが。)。そしてまた、安倍政権自体も(前エントリで述べたとおり*6)あくまでも「氷山の一角」です。

森友学園問題」を解決するためには、もちろん安倍政権を終わらせることが絶対必要です。しかし、それだけでは「森友学園問題」は再び、三度、姿を変えて現れるでしょう。私たちは、「森友学園問題」を真に解決するためにも、この国から極右排外主義を私たちの手で葬り去らなければならないのです。

 

 

 

「安倍政治」は、「自民党政治」そのものである。

もしかすると、「安倍政権」は、これまでの自民党政権とは異なる「異常な政権」である、という認識の人も少なくないかもしれません。たしかに、私も、安倍政権は「戦後最悪の政権」であると言っても過言ではないと思います。しかし、安倍政権が、これまでの自民党政権とは異なる「異常な政権」である、という見方については、私は懐疑的です。

思うに、「安倍政権」というものは、1955年に始まった「自民党政権」が先鋭化したものであって、決してこれまでの「自民党政権」と根本的に違うものではありません。例えば「教育の右傾化」も、たしかに安倍政権の発足で加速したかもしれませんが、しかし、その萌芽は、少なくとも1982年の自民党鈴木善幸政権下での「第一次教科書問題」(韓国の独立記念館は、この日本政府による歴史修正主義への“カウンター”として設立(開館は1987年)されたものです。)までさかのぼることができます。また、安倍首相が「私の歴史的な使命だ」と言ってはばからない「改憲」も、その時々で温度差はあるものの、自民党が1955年の結党以来ずっと「党是」として掲げてきたものです。そして、喫急の課題である民族差別煽動の問題も、たしかに安倍政権の排外主義が加速させたというのはあるでしょうが、しかし、それは安倍政権以前の自民党政権が長年にわたり行ってきた民族差別的な政策によって醸成された「土壌」によって生み出されたものであるといえます。

残念ながら、安倍政権の批判者の中には、安倍政権以前の自民党政権を「古き良きもの」であるかのように肯定的に評価している人も見受けられます。しかし、安倍政権も安倍政権以前の自民党政権も、根本的に異なるものではありません。たしかに、戦後日本の憲法は、民主的なものへと変わりました。しかし、戦後日本の政治は、帝国主義を克服しないまま今日に至っています。「自民党政治」がいかに帝国主義的であるかは、憲法9条があるにもかかわらずベトナム戦争湾岸戦争……と「帝国の戦争」に加担してきたことや、これまで多くの首相や閣僚が(日本帝国主義による侵略戦争と植民地支配の精神的な支柱であった)靖国神社を参拝してきたことからも窺い知ることができます。「安倍政治」は、そんな「自民党政治」の帝国主義的な性格がむき出しになったものであり、「自民党政治」以外の何ものでもありません。

このように、「安倍政治」が「自民党政治」と何ら変わらないものである以上、単に「安倍政治」を終わらせるだけでは、1955年から今日に至るまで帝国主義を克服しないまま「自民党政治」によって作られてきた日本は決して変わらないでしょう。日本を「誰もが尊厳ある人間として生きることのできる国」に変えるためには、「自民党政治」を終わらせることが是非とも必要であり、「安倍政治」を終わらせることは、そのための第一歩なのです。

「3.11」と「復興」について

正直なところ、私は「3.11」について語る言葉を未だ持てずにいます。

そんな私が、ただ一言だけ言えることは、「人間を切り捨てるな」ということです。

どうか「復興」の美名の下に人間を切り捨てないでください。

もっとも、「人間を切り捨てるな」ということは、私のような左翼を自認する人間についてもいえることです。もし私たちが、「闘い」のために人間を切り捨てるようなことをするならば、そのような「闘い」に意味などないでしょう。

ところで、私は当たり前のように使われる「復興」という言葉に疑問を感じています。「3.11」後、本当に必要なのは、復興という「一度衰えたものの勢いを再び取り戻すこと」でしょうか。「一度衰えたものの勢いを再び取り戻」そうとするあまり、未解決の問題を隠蔽し、あるいは忘却させようとしてはいないでしょうか。思うに、「3.11」後、本当に必要なのは、「復興」ではなく、人が「尊厳ある人間」として再び生きることのできる場所を「再生」することです。

あの日から7年が過ぎた今、私たちは、はたして人が「尊厳ある人間」として再び生きることのできる場所を「再生」することができたといえるでしょうか。