葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「戦後平和主義」を問い直そう、安倍首相とは真逆の方向で。

「『戦後平和主義』を問い直そう」と言うと、もしかすると安倍首相が主張する「戦後レジームからの脱却」なるものに、私が賛同していると思う人もいるかもしれません。

誤解しないでください。私は決して、「戦後レジームからの脱却」なるものに賛同して「『戦後平和主義』を問い直そう」と言っているのではありません。むしろ私は、安倍首相とは真逆の方向で「『戦後平和主義』を問い直そう」と言っているのです。

お断りしておきますが、私はいわゆる「反戦主義者」です。しかしながら、戦後日本で唱えられてきた「反戦」の主流的言説には、どうしても違和感を禁じえません。それというのも、戦後日本で唱えられてきた「反戦」の主流的言説というのは、「日本人が戦争で殺されるから、戦争には反対である」というものであるように思えるからです。事実、「語り継がれるべき戦争の記憶」の多くが、原爆被害や空襲被害、あるいは若い日本兵の死といった「日本人が戦争で殺された」というものです(そのなかには、「平和」の看板を掲げながら日本軍を賛美するようなものも、しばし見受けられます。)。もちろん、戦争という過ちを二度と繰り返さないために、そのような「記憶」を語り継ぐべきことも大切であることを否定するつもりはありません。ですが、語り継がれる「記憶」は、はたして「日本人が戦争で殺された」というものだけで十分なのでしょうか。語り継がれる「記憶」の多くが「日本人が戦争で殺された」というものである結果として醸成される「日本人が戦争で殺されるから、戦争には反対である」という意識ゆえに、残念ながら日本国民の多くが「日本が加担する、日本人が殺されない戦争」には驚くほど無頓着であるといえます。

日本国民の多くが「日本が加担する、日本人が殺されない戦争」には驚くほど無頓着である、その一例としては、「護憲派」によってしばしば語られる「戦後、憲法9条があったおかげで他国間の戦争に巻き込まれずに済んだ」という言説を挙げることができます。たしかに「戦後、憲法9条があったおかげで他国間の戦争に巻き込まれずに済んだ」ことは事実でしょう。しかし、戦後、憲法9条があったにもかかわらず、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争……といった「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」に加担し、そのおこぼれにあずかってきたのも、また事実です。つまり、「戦後平和主義国家ニッポン」は、自らの手を血で染めることこそしなかったとはいえ、「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」の片棒を担ぐことで、間接的には戦争で人間を殺してきたのです。そして、今もなお日本政府は、「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」に加担せんとしています。「9条の危機」は、決して安倍政権の台頭で初めて生じたものなどではなく、日本が戦後、憲法9条があったにもかかわらず、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争……といった「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」に加担してきた歴史が積み重なった結果なのです。

もちろん、私は「戦後平和主義」を全て否定するつもりなどありませんし、「罪」よりも「功」のほうがはるかに大きいと思っています。しかし、「戦後平和主義」は決して「歴史の終わり」ではありません。「日本人が戦争で殺されない」という「戦後平和主義」を乗り越え、「日本人が戦争で殺されない。のみならず、日本人が戦争で殺さない」という「真の平和主義」の実現に向けて歩みを進めるためにも、今こそ私たちは、安倍首相とは真逆の方向で「戦後平和主義」を問い直す必要があると思うのです。

 

「3月1日」に、日本国民が果たすべき「植民地支配責任」について考えてみる。

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「日本国民は、過去の日本による植民地支配に関して、責任を果たすべきである」などと言えば、おそらく多くの日本国民は、「我々が直接関与したわけではない“過去の日本による植民地支配”に関して、我々が責任を問われる筋合いはない」と反発するでしょう。

たしかに、「戦前・戦中」生まれの国民はまだしも、「戦後」生まれの国民は、“過去の日本による植民地支配”には直接関与していません。しかし、だからといって「責任を問われる筋合いはない」というのは、果たすべき「責任」を誤解したものであるといえます。

思うに、現在の日本国民が問われるのは、「過去の日本による植民地支配に関して」ではありますが、しかし、それは決して「日本国民の過去の行為について」の責任ではありません。現在の日本国民が問われるのは、過去の日本による植民地支配に関して、さらには植民地主義に対して、今まさに日本国民がいかなる態度をとるかについての責任なのです。つまり、過去の日本による植民地支配に関して現在の日本国民が果たすべき責任とは、「過去の日本による植民地支配」の美化や正当化を拒絶し、「植民地主義は克服されなければならない」という価値観を共有することです。かつて日本の植民地であった国の人々も、日本国民一人ひとりに謝罪を求めているわけではなく(もちろん、だからといって日本政府が、かつて日本の植民地であった国の人々に謝罪しなくてもよいということではありません。)。「過去の日本による植民地支配」の美化や正当化を拒絶し、「植民地主義は克服されなければならない」という価値観を共有することを求めているのだと思います。

もっとも、日本国民の多くは、そもそも過去の日本による植民地支配に関する自らの「責任」について、いささか無頓着であるかもしれません。おそらくそれは、過去の日本による植民地支配という「過去の負の歴史」と向き合ってこなかったからというのもあると思います。そうだとすれば、「過去の負の歴史」と向き合ってこなかった日本国民は、なによりもまず「過去の負の歴史」としっかり向きあうことから始めるべきです。

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さて、今日、3月1日は「三一節」――日帝強占期の韓国で、日本の植民地支配に抵抗して1919年に起きた「三・一独立運動」の記念日です。「三一節」は、日本国民にとって単なる「隣国の記念日」などではなく、日本国民が「過去の負の歴史」と向き合い、過去の日本による植民地支配に関して現在の日本国民が「責任」を果たすための大事なきっかけとなる日です。のみならず、「三一節」は、日本国民自身の「自由と尊厳」にとっても大切な日であるといえます。なぜなら、人間として当然に有するはずの自由と尊厳を求めて闘った人々の歴史を学ぶことは、日本国民が真の「自由と尊厳」を獲得するために大切なことなのですから。

「知」は、薬にもなれば毒にもなる。

「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」ということが、しばしば言われます。たしかに、私も主に読書を通じて差別主義を克服するための知見を得てきましたから、差別主義を克服するために「知ること、学ぶこと」が有益であることは否定しません。しかしながら、私は「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と言い切ることには、どうしても抵抗感を覚えます。

「知」が差別主義の克服に貢献してきたのは事実ですが、しかし「(国家)権力」と結びつくことで、人間を選別淘汰したり、抑圧したりするための「装置」としての役割を果たしてきたのもまた事実です。つまり、「知」は薬にもなれば毒にもなるのです。そして、残念なことに、「(国家)権力」によって施される教育では、毒である(もっとも、それは弱毒化されたものですが、そうであって蓄積されれば人間を「死」に至らしめるでしょう。)「知」が与えられることもしばしばです。しかるに、「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と主張する人は、「知」の毒についていささか無頓着ではないでしょうか。差別主義者は、たしかに「人類の普遍的な知」を共有してはいないでしょう。しかし、彼らも「(国家)権力と結びついた知」に関しては、これを共有しているのです。それにまた、(「差別主義者に対する差別」だなどと言うつもりは、もちろんありませんが)「『知性と教養のない人間』が差別主義者である」と言ってしまうことは、それこそ「人間を選別淘汰するためのモノサシ」として「知」を用いるという、「知」の誤った使い方ではないでしょうか。

さて、差別主義を克服するために「知(もちろんそれは、人類の普遍的な知です)」へのアクセスが有益であるとして、それでは差別主義者が「知」へアクセスすることを困難ならしめているのは、いったい何(誰)でしょうか。まさか、「差別主義者は知性と教養を欠いているから、『知』にアクセスできない」などとでも言うのでしょうか。それは、「知性を得られないのは知性を欠くからだ」という循環論法であり、また、あまりにも「木を見て森を見ず」だといえます。

繰り返しますが、決して私は、差別主義を克服するために「知ること、学ぶこと」が有益であることは否定しません。しかし、「知ろうとしない、学ぼうとしない」人を「知性と教養」というフィルターを用いて“除去”することで、問題は解決するのでしょうか。「知ろうとしない、学ぼうとしない」のは「自己責任」だといって“切り捨てる”ことで、問題は解決するのでしょうか。もちろん、「差別主義者」が「差別主義者」たりうるのは自由な人間の主体的な選択ゆえ、というのもあるでしょうが、「差別主義者」を「差別主義者」たらしめた「状況」も決して看過してはなりません。私たちは、そのような「状況」を変えるためにこそ「知」を用いるべきです。

「学問」が差別主義を克服するために有益であることは、もちろん私も否定しませんが、それはあくまでも「方法」の一つに過ぎません。もし「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と主張する人が「知性と教養は学問を通じてしか得られない」と考えているとしたら、それは誤りです。もっとも、「学問」が差別主義を克服するために有益であることは、たしかにそのとおりですから、むしろ「学問」が階級的に独占されてしまっている現状を打破すべきだといえます。

おそらく、私も、「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と主張する人も、「差別主義を克服するために『知ること、学ぶこと』が有益である」という結論は共有しているのだと思います。そうであればなおのこと、「差別主義者」を切り捨てるためではなく、一人でも多くの人が「知ること、学ぶこと」ができるように「知性」を働かせるべきであると思うのです。

 

yukito-ashibe.hatenablog.com

前エントリ「三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動に断固抗議する」の補足

前エントリ「三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動に断固抗議する」について、若干補足します。

たしかに、問題となった三浦瑠麗氏の発言それ自体は、三浦氏の「言い訳」にもあるように、民族差別煽動とは言い難いようにも思えます。

しかし、前エントリでも触れましたが、やはり朝鮮民主主義人民共和国による「日本人拉致問題」や「核・ミサイル問題」と在日コリアン牽強付会したヘイトスピーチが日本社会に蔓延している事実を看過してはなりません。まさか、「国際政治学者」であられる三浦氏と「報道機関」であるフジテレビ(『ワイドナショー』は、まがりなりにも「報道バラエティ番組」なのですから……)が、その事実について認識を欠いているはずがないでしょう。そうであれば、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する可能性があることも、十分に認識していたはずです。また、『ワイドナショー』が収録番組である点も重要です。すなわち、収録番組である以上、オンエアまでに三浦氏の発言の問題性を十分に検討できたはずです。しかるに、何の配慮もなく、また三浦氏も放送された自らの発言について何ら疑義を呈していないことに鑑みれば、三浦氏もフジテレビも、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する危険を認容していたものと考えられます。そうだとすれば、刑法学上の概念を借用して言えば、三浦氏もフジテレビも民族差別煽動の「未必の故意」があったものといえるでしょう。

もっとも、三浦氏のその後の「言い訳」フジテレビとその関連企業である産経新聞の日頃の報道姿勢に鑑みれば、もしかすると「人権感覚の欠如」ゆえにフジテレビや三浦氏は、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する可能性があることの認識を欠いていたのかもしれません。そうはいっても、在日コリアンを標的としたヘイトスピーチがこれだけ社会問題となり、ヘイトスピーチ対策法が制定されたことを考えると、たとえ三浦氏やフジテレビが、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する可能性があることの認識を欠いていたとしても、そのことについて少なくとも重大な過失があると言わざるを得ないでしょう。いずれにせよ、三浦氏は今回の発言に関して批判を免れることはできず、発言の責任を問われてしかるべきです。

ところで、三浦氏は「言い訳」の中で「このレベルの発言が難しいのであれば、この国で安全保障について議論をするのは正直、不可能」だと述べています。三浦氏は誤解していますが、もし本当に議論をするのが不可能だとしても、それは批判のせいではありません。前述したように、三浦氏の発言は、既に日本社会に蔓延しているヘイトスピーチと相俟ってヘイトクライムを誘発する危険のあるものとなるのです。つまり、「自由な議論」を阻害するのは、他でもなくヘイトスピーチだということです。

 

三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動に断固抗議する

三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論
http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/12/ruri-miura_a_23359021/

 

残念ながら、「大阪に北朝鮮のテロリスト分子が潜んでいる」という三浦瑠麗氏の発言の何が問題であるか分からない、あるいは分かろうとしない人が少なくないようです。

たしかに、「国際政治学者」を名乗る三浦氏が明確な根拠もなくこのような発言をした点は非難されてしかるべきでしょう。しかし、問題の本質は、三浦氏の発言内容の信憑性ではありません。

それでは、問題の本質はいったい何か。思うにそれは、「大阪に北朝鮮のテロリスト分子が潜んでいる」という三浦氏の発言によって、大阪で暮らしている在日コリアンが何の根拠もなく「北朝鮮のテロリスト分子」と認定されてヘイトクライムの標的とされる危険があるということです。

これに対して、「たとえ在日コリアンヘイトクライムの標的とされる危険があるとしても、北朝鮮のテロリスト分子が潜伏しているのは“事実”であり、三浦氏はその危険を警告しただけだ」という反論もあるでしょう。しかし、はたして三浦氏がワイドショー番組で「大阪に北朝鮮のテロリスト分子が潜んでいる」などということを大衆に喧伝することが、はたしてどれだけ「テロ」の抑止に役立つといえるでしょうか。三浦氏の発言は、「テロ」の抑止に役立つどころか、むしろ「北朝鮮のテロリスト分子」と大阪で暮らす在日コリアン牽強付会する差別主義者によるヘイトクライムを誘発する危険のあるものでしかないでしょう。先般、名古屋で起きた「イオ信用組合放火事件」*1や東京で起きた「駐日韓国文化院放火事件」*2といったヘイトクライムの発生に鑑みれば、根拠が不明確な「北朝鮮テロリスト分子によるテロ」などというものよりも、三浦氏の発言によって在日コリアンを標的としたヘイトクライムが発生することのほうが、よほど「いまここにある危険」であるといえます。もっとも、三浦氏は「日本の安全保障のため」だなどと言っているようですが、かつて日本では「治安維持」の名目で多くの(日帝支配下の朝鮮の)朝鮮人や(帝国日本の)在日朝鮮人が殺された、という歴史*3*4を忘れてはなりません。

このように、ワイドショー番組での三浦氏の発言自体、民族差別煽動であって許されないものですが、その後の三浦氏の「私は番組中、在日コリアンがテロリストだなんて言っていません」という言い訳も、およそ通用するものではありません。すなわち、朝鮮民主主義人民共和国による「日本人拉致問題」や「核・ミサイル問題」と在日コリアン牽強付会したヘイトスピーチが日本社会に蔓延している現実を軽視ないしは無視するものであり、つまるところ民族差別煽動を正当化するための詭弁に過ぎない、ということです。ましてや「逆にそういう見方を思いついてしまう人こそ差別主義者だと思います」という(ハフィントンポスト日本版の取材に対する三浦氏の)発言は、醜悪としか言いようがありません。

それでもまだ三浦氏の発言の何が問題であるか分からないというのであれば、たとえばもしある国のテレビ番組で「(在外日本人が多く暮らしている街である)○○では、日本の公安調査庁が我が国に放ったスパイが、某国情報局のスパイと協力して我が国の政権転覆をするべく潜伏している」などと流されたとしたら、ということを考えてみてください。おそらく日本国民は「そんなのは何の根拠もないデマだ」と抗議するでしょう。しかし、外国で公安調査庁の協力者だという日本人がスパイ容疑で当局に身柄を拘束されるという事件が起きたのも“事実”*5です。それを考えると、はたして「何の根拠もないデマだ」と言い切ることができるでしょうか……これと同じことを言っているのが、三浦氏とその擁護者なのです。そう、問題は「日本人スパイが○○に潜伏している」のが事実かどうかではありません。○○で暮らしている日本人が何の根拠もなく「スパイ」と認定されてヘイトクライムの標的とされる危険があるということこそが問題なのです。もっとも、このように「在日コリアン」を「日本人」に置き換えなければ三浦氏の発言の何が問題であるか分からないというのは、正直なところいかがなものかと思いますが……。

以上、私は本稿をもって、三浦瑠麗氏とフジテレビに断固抗議します。私は、三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動を絶対に許容しません。

差別主義者も「人間」だからこそ、私は断固として非難する。

「差別主義者は人間ではない」という言説を、しばしば見聞きします。

たしかに、差別は人間の尊厳を踏みにじる「反人間的な」ものですから、「差別主義者は人間ではない」と言いたくなる気持ちもわかります。しかし、差別主義者を「人間ではない」と言い切ることには、私はためらいを覚えます。

思うに、彼は「人間ではない」から、差別主義者なのではありません。むしろ彼は「自由な人間」だからこそ、差別主義者なのです。そして、差別主義者は「自由な人間」だからこそ、自己の言動について責任をとらなければならないのです。私は、差別主義者が「自由な人間」だからこそ、差別主義者を断固として非難します。

もっとも、差別主義者が「自由な人間」だからといって、彼の差別的言動を尊重しなければならないということにはなりません。つまり、差別主義者が「自由な人間」であるということと、彼の差別的言動が人間の尊厳を踏みにじる「反人間的」なものであるということは、また別の話だということです。しかるに、それらを混同して「差別主義者も自由な人間なのだから、彼の差別的言動を尊重しなければならない」などと言うのは、差別を肯定するための詭弁にほかなりません。

さて、差別主義者が「自由な人間」であり、彼を差別主義者として作り上げたのは他でもない彼自身だとしても、彼は何もないところから自らを差別主義者として作り上げたわけではありません。「状況」があったからこそ、彼は自らを差別主義者として作り上げることができたのです。そして、その「状況」を作り出したのは、紛れもなく「権力」です。この点、差別主義者が差別主義者たる所以を「民族性」に求める言説がしばしば見受けられます。しかし、それは問題の本質的構造を見誤ったものであり、また、梶村秀樹先生が指摘するように「絶望に通じていきかねない」ものです。つまり、もし差別主義者が差別主義者たる所以が「民族性」にあるならば、その民族を否定しないかぎり差別を克服することなどできないでしょう。しかし、だからといってその民族を否定するというのは、それこそ差別にほかなりません。そもそも、そのような考えは誤りであって、差別主義者を生み出すのは「民族性」といった自然現象のようなものではなく、権力によって作られた構造的な「状況」なのです。そして、それは人(権力)によって作られたものだから、私たちはそれを壊していくことができるのです。

差別主義者も「自由な人間」です。もっとも、彼が「自由な人間」であるのは、決して「傍若無人に振舞うことを許された特別な人間」だからではなく、「個人」として尊重されるからです。そして、「個人の尊重」は普遍的な価値です。そうであるならば、(彼が)差別的言動によって他者が「個人」として尊重されることを否定するというのは、彼自身が「自由な人間」である根拠を自ら失わしめるものであるといえます。その意味では、これまで述べてきたことと矛盾してしまいますが、彼が自らを差別主義者として作り上げることは、「自由な人間」であることを自らやめてしまうということなのかもしれません。

つまるところ、差別はあらゆる意味で「人間を殺す」のです。

路地裏とエロス

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私は「路地裏」を愛している。しかし、その「愛」はいささか暴力的かもしれない。

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路地裏は、決して簡単に私を受け入れようとはしない。しかし、それゆえに私は闖入したくなる。

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この路地を進んだ先には、いったい何があるのだろう?もしかすると、そこにあるのは「無」なのかもしれない。しかし、そこに何があるかなどさしたる問題ではない。私にとって大切なのは、路地裏の神秘を暴くことである。

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路地裏への闖入に成功した私は、恐怖と不安を感じると同時に、奇妙な安堵感を覚える。

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路地裏は、「愛」で私を包み、人間を殺す「暴力」から私を守ってくれる。しかし、その「愛」はいささか暴力的かもしれない。

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 それでも、私は「路地裏」を愛している。たとえ、互いに傷つけあうとしても。