あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

「日本人なのに殺された」という言葉の違和感

関東大震災直後の朝鮮人虐殺に関して、しばしば方言話者等が朝鮮人と間違われて殺された話が語られます。もちろん、そのような話の趣旨が「ジェノサイドにおいては民族を問わず殺される」というものであることに、私も異論はありません。しかし、日本国民がその話を語るときの「日本人“なのに”殺された」という言葉に、私はどうしても違和感を覚えてしまいます。

たしかに、客観的事実としては、朝鮮人と間違われて殺されたのは日本人でしょう。しかし、「ジェノサイドにおいては民族を問わず殺される」ということが言いたいのであれば、「日本人“なのに”」とは言わずに「朝鮮人であるかどうかに関係なく」と言えば足りるはずです。しかるに、あえて「日本人“なのに”」と言う意義はどこにあるでしょうか。こんなことを言うと、聡明な方から「過剰反応だ」とのお叱りを受けるかもしれませんが、「日本人であっても被害者になる可能性があるからこそ、ジェノサイドは恐ろしい」という「日本人本位」な意識が「日本人“なのに”殺された」という言葉の影に見え隠れするように思えてなりません。もっとも、「ここは日本、日本人の国なのだから、日本人本位で何が悪いんだ!」とさらにお叱りを受けるかもしれませんが……。

もちろん、「日本人“なのに”殺された」と語る日本国民が皆「日本人であっても被害者になる可能性があるからこそ、ジェノサイドは恐ろしい」と考えているなどと言うつもりはありませんし、「日本人が朝鮮人と間違われて殺された話」を日本国民が語ってはならないなどと言うつもりもありません。しかし、ともすれば「ジェノサイドが恐ろしいのは、日本人であっても被害者になる可能性があるからだ」と「日本人本位」に陥り、「レイシズムによる虐殺」であることの本質を希薄化する危うさを持った言葉であることは、やはり否定できないと思います。それゆえ、日本国民は、朝鮮人虐殺に関して「日本人が朝鮮人と間違われて殺された話」を語るときには、その「危うさ」を自覚し、「日本人本位」に陥っていないか厳しく自問する必要があるのではないでしょうか。

そもそも、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」は、対象者が朝鮮人という民族的属性を持つゆえに殺されるものであり、虐殺者が朝鮮人という民族的属性を持つ人を対象として殺すからこそ、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」であるのです。そして、この「犯罪」は、日本人が殺される可能性の有無にかかわりなく成立するものです。そうだとすれば、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」において「日本人であっても殺される」というのは、やはり「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の本質ではないと思います。

レイシズムによる虐殺」という概念は普遍的なものですから、いかなる民族もその対象となりうるのであり、それに関してはもちろん日本人も例外でありません。しかし、そうだからといって、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」についてについて論じる場合には、対象が朝鮮人であるという特殊性を看過してはなりません。そうでないと、むしろ虐殺が「レイシズムによる」ものである点が希薄化されてしまうのではないかと思います。

もっとも、私が本当に言いたいのは「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の本質云々ではありません。

たしかに、日本国民に対して「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の恐ろしさを訴える上で「ジェノサイドが恐ろしいのは、日本人であっても殺される可能性があるからだ」と言うのは効果的かもしれません。ですが、そのように「日本人であっても殺される可能性」を強調しなければ「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の恐ろしさを日本国民に対して効果的に伝えることができないのならば、私は絶望感を覚えます。

日本人であっても殺される可能性があろうとなかろうと、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」は絶対に許されないものです。しかるに、日本国民は自らが被害者になりうることを知らなければ、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」が絶対に許されないものであることが分からないのでしょうか。
もちろん、私は「自らの痛み」によって「他者の痛み」を知ることを否定するつもりはありません。しかし、「自らの痛み」を重視するあまり「他者の痛み」に鈍感になり、自らが痛まなければいくら他者が痛もうと構わない、となってしまうことを危惧します。残念ながら、自らが痛まなければいくら他者が痛もうと構わない、それどころか自らが痛まないために他者を平気で痛めつけるというのが、「戦後平和国家ニッポン」なのですから。