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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

安倍談話と「不自由主義史観」

先般発出された「戦後70年の安倍談話」に関して、気になる点は一つに留まりません。

ですが、あえて一つ挙げるならば、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行」ったのは、「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受け」たからである、と述べている点です。それは、まるで「日本が『進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行』ったのは欧米諸国の植民地支配のせいであって、日本は何も悪くない」と言わんばかりの言説であるように、私には思えます。

保守派を自称する人の中には、日本が第二次大戦中にアジア諸国で侵略や植民地支配を行ったことを認めて反省する歴史観を、日本を悪者とする「自虐史観」だと非難し、自分たちの歴史観を「自由主義史観」と称する人がいます。おそらく、安倍政権やその支持者の拠って立つ歴史観も、そのような「自由主義史観」なのでしょう。

しかし、「自由」とは読んで字のごとく「自」らに「由」ることだとすれば、「日本が『進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行』ったのは欧米諸国の植民地支配のせいであって、日本は何も悪くない」といった、自らの過ちを他者のせいにするような歴史観は、およそ「自由」主義史観とは言えないでしょう。むしろ、そのような歴史観を、私は「不自由主義史観」と呼びたいと思います。

このような歴史観は、憲法9条をめぐる論議や集団的自衛権の行使容認の是非をめぐる論議における、しばしば安倍政権改憲賛成派、あるいは集団的自衛権の行使容認賛成派の言説にも表れているような気がします。

というのも、安倍政権改憲賛成派、あるいは集団的自衛権の行使容認賛成派は、改憲集団的自衛権の行使が必要である理由として、「日本を取り巻く安全保障環境は大きく変わった」ということを挙げます。私も別に「日本を取り巻く安全保障環境は大きく変わった」ということを一概には否定しません(もっとも、それを鵜呑みにするつもりもありませんが。)。ですが、私にはどうしても、安倍政権改憲賛成派、あるいは集団的自衛権の行使容認賛成派のそのような言説が、「改憲集団的自衛権の行使容認が正しいかどうかにかかわらず、日本を取り巻く安全保障環境は大きく変わったせいで、日本は改憲あるいは集団的自衛権の行使容認をしなければならないのだ」と言っているように思えてならないのです。はたして、「日本を取り巻く安全保障環境は大きく変わった」せいにすれば、何をしても許されるのでしょうか。

以前のエントリでも書きましたが、私が思うに、憲法9条は、日本が戦争の被害者となりたくないという願望を表明したものではなく、かつて日本が戦争の加害者であったことの反省を踏まえ、再び戦争の加害者とならないことを何よりもまず誓ったものです。

だとすると、憲法9条をめぐる論議や集団的自衛権の行使容認の是非をめぐる論議において問われているのは、「日本を取り巻く安全保障環境が大きく変わったのだとしても、はたして再び戦争の加害者とならないことの誓いを反故にしてもよいのだろうか」ということなのではないでしょうか。つまり、憲法9条をめぐる論議や集団的自衛権の行使容認の是非をめぐる論議において忘れてはならないのは、「日本が再び戦争の加害者とならないことの誓いを反故にすることの是非」という視点であると、私は思うのです。そのような視点を忘れて論議を進めていくならば、日本は再び戦争の加害者となることを他者のせいにすることで正当化し、同じ過ちの歴史を繰り返してしまうことになるでしょう。

なお、これもまた以前のエントリでも書きましたが、私は安倍政権がその行使容認を推進する集団的自衛権を、「自衛」権だとは思っていません。つまり、安倍政権がその行使容認を推進する集団的自衛権によって護りたいのは、「国民の生命や安全」ではなく、「アメリカの『反共・反反資本主義』政策」だと思っています。だから、「いっそのこと安倍首相は、『反共・反反資本主義政策を護るためには、日本が再び戦争の加害者となることも厭わない!』と猛々しくはっきりと言えばいいのに……」などと、思ってしまったりするのです。