葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「表現の自由」について論じる上で、大切なこと。

ある表現に対する私人(個人)による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じる人が、しばしば見受けられます。おそらく、彼らは自分たちの愛好する表現が迫害されているように感じるゆえに、私人による批判をあたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように捉えてしまうのでしょう。

もちろん、自分たちの好きな表現が批判されて不愉快に思う気持ちは分からなくもありません。しかし、ある表現に対する私人による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じるのは、憲法学的に見ると誤った議論です。

ある表現に対する私人による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じる人は、大事な点を見落としています。つまり、それはある表現を批判する私人も、ある表現を行う私人と同様に「表現の自由の主体」だということです。その点で、私人の批判は国家による規制や介入とは大きく異なります。立憲主義憲法は、国家権力の制限を目的とするものですから、そもそも国家は「表現の自由の主体」たりえません。しかし、人権が普遍的なものであることに鑑みれば、いかなる私人も「表現の自由の主体」たりうるのですから、ある表現を行う私人の表現の自由憲法上保障されるのであれば、その表現を批判する私人の表現の自由もまた憲法上保障されるのです。

憲法は、原則として「国家と私人(個人)の関係を規律する」ものです。もっとも、資本主義の高度化にともない、大企業やマスメディアのような大きな力を持った私的団体による人権侵害の危険が顕著となったことから、憲法を「私人と私人の関係」に適用する必要性が論じられるようになりましたが、前述したように私人が「自由の主体」であることに鑑みて、憲法は「私人と私人の関係」では民法公序良俗規定のような私法の一般条項を通じて間接的に適用されると解するのが通説・判例*1です。

この点に関連して、よく誤解されているのが、いわゆる「表現の自主規制」です。表現の萎縮効果をもたらすような規制や介入は、もちろん「表現の自由」に対する重大な脅威です。ただし、ここで誤解してはならないのは、あくまでも「加害者」は表現の萎縮効果をもたらすような規制や介入を行う国家であって、萎縮効果の影響によって自主規制を行う私人(私的団体)は「被害者」であるということです。しかるに、萎縮効果の影響によって自主規制を行う私人が「加害者」であることを前提とした議論は、「真の敵」を見誤ったものであるといえます。また、ある表現行為の主体たる私人(私的団体)が、その表現に対する私人の批判を十分に斟酌した上で、自由な意思によって表現行為を差し控えることは、表現行為の主体たる私人の「表現の自由」であり、その表現に対する私人の批判は「表現弾圧」などではありません。もちろん、その表現に対する私人の批判が、暴力や脅迫によって表現行為の主体たる私人の自由な意思決定を妨げるようなものであれば、それは表現の自由に対する不当な侵害以外のなにものでもありませんが……。

表現の自由とその規制」は憲法上の問題ですから、それを論ずるにあたっては、「憲法は国家と私人の関係を規律するものである」という原則を踏まえることが必要です。また、これは法学全般についていえることですが、「木を見て森を見ず」にならないように、常に「対立利益」を意識することが大切です。つまり、自己の正当な権利が尊重されるのであれば、他者の正当な権利もまた同様に尊重されるのだということに、思いを至らせることが大切なのです。

「日本の民主化」を実現するために

おそらくこれまでは、多くの日本国民が「日本は民主主義国家である」と信じて疑わなかったでしょう。しかし、「森友学園問題」で「日本は民主主義国家である」という確信が揺らいだのでしょうか、「日本を民主化しよう」という声が上がり始めています。

もちろん、私も「日本の民主化」を希求する一人ですから、そのような声が上がり始めたことを大変心強く思います。しかし、同時に「民主化」という言葉がどうも独り歩きしてしまっているように思えてなりません。

それでは、「民主化」とはいったい何か。これについては、「民主主義」の意義から考える必要があります。

「民主主義」とは、憲法学上「治者と被治者の自同性」であると定義されます。すなわち、「治める者と治められる者が同一である」ということです。かかる定義に鑑みれば、「民主化」とはまさに「治者と被治者の自同性」を実現することであるといえます。

そうだとすれば、「治者」と「被治者」の乖離が甚だしい今日、まずは「治者と被治者の自同性」を回復しなければなりません。安倍政権を終わらせることが必要なのも、そのためです。しかし、そのような「縦の関係」で民主化するだけでは不十分です。それというのも、日本の民主主義システムは、「治者」ではない「被治者」を生み出すような不完全なものだからです。したがって、「治者」ではない「被治者」を生み出すような民主主義システムを変えるという、「横の関係」で民主化することも必要です。しかるに残念ながら、日本では「横の関係」での民主化が軽視ないしは無視されているように思えてなりません。

安倍政権打倒の気運に水を差すなと叱られるかもしれませんが、安倍政権打倒の気運が高まる今だからこそ、私は言いたいと思います。安倍政権を倒すだけでは、決して「日本の民主化」は完成しません。もちろん、それは「日本の民主化」への大切な第一歩ですが、しかし、あくまでも「第一歩」なのです。安倍政権を倒し、さらには自民党政権を倒すことで「治者と被治者の自同性」を回復した「日本国民」が、「日本の民主化」のために是非ともしなければならないのは、「治者」ではない「被治者」を生み出す日本の民主主義システムを変えることです。そうして、日本の民主主義システムを「治者」ではない「被治者」を生み出すことのないものへと変えることができたときにはじめて、日本は「民主化」を実現したということができるのです。

 

「森友学園問題」の本質

《3分でわかる》森友学園財務省の文書「書き換え」疑惑をイチから振り返ってみました

https://www.huffingtonpost.jp/2018/03/11/moritomo_a_23382926/

 

いわゆる「森友学園問題」に関して、行政府が立法府を欺くために公文書を改ざんするという議会制民主主義を根底から揺るがす犯罪に対して、連日多くの市民から抗議の声が上がっています。

もちろん、行政府が立法府を欺くためにした公文書の改ざんが許されざる犯罪であることは言うまでもありません。ただ、そもそもなぜ安倍政権の下で、森友学園に対して不正の疑いが濃厚な国有地の売却がなされたのでしょうか。未だ安倍首相夫妻は関与を否定していますが*1、これまで明らかになった事実に鑑みれば、安倍首相夫妻が関与していると考えて間違いないでしょうし、安倍首相夫妻が森友学園の教育方針に共感し支援していたのは周知の事実です。そうだとすると、安倍政権は、森友学園を通じていったい何を実現しようとしていたのでしょうか。思うに、これこそが「森友学園問題」の本質です。公文書の改ざんも当然重大な問題ですが、それだけにとらわれると「木を見て森を見ず」になりかねません。私たちは、ここで今一度「森友学園問題」の本質を振り返る必要があります。

それでは、安倍政権は、森友学園を通じていったい何を実現しようとしていたのでしょうか。ご存知のように、安倍首相夫妻が共感していた*2*3森友学園の教育方針とは、森友学園が運営していた幼稚園で園児に施していた“教育”からも分かるように、極右排外主義的なものです*4*5。そして、このような森友学園の教育方針は、安倍政権の価値観とも軌を一にするものです。不正の疑いが濃厚な国有地の売却への安倍政権の関与については、一日も早い真相解明が待たれますが、もし安倍政権が関与しているとすれば(以下、安倍政権の関与を前提として話を進めることをお断りしておきます。私は、安倍政権の関与が、そう遠くないうちに明らかにされるであろうことを信じています。)、安倍政権は、森友学園を通じて極右排外主義的な価値観をもった国民を育成しようとしていた、ということがいえます。

このことから分かることは、問題の公文書改ざんも、森友学園に対する不正の疑いが濃厚な国有地の売却も、それ自体が目的ではなく、安倍政権が極右排外主義を実現する手段として行われたものである、ということです。つまり、安倍政権が極右排外主義を実現するために、いともたやすく行政が歪められてしまったのです。そして、このような政権は、極右排外主義を実現するためであれば平気で人間の尊厳を踏みにじるでしょう。否、すでにこのような政権は、極右排外主義を実現するために「法の支配」を歪め、「歴史」を歪めるなど、ありとあらゆる方法で人間の尊厳を踏みにじってきました。例えば、本来は普遍的なものである人権を、あたかも「国民固有の権利」であるかのように曲解し、人権を奪ってきたように。あるいは、日本の過去の「負の歴史」を修正することで侵略戦争と植民地支配を正当化せんとし、被害者の尊厳を踏みにじってきたように……。

繰り返し言いますが、「森友学園問題」は、公文書の改ざんや国有地の不正売却にだけとらわれると「木を見て森を見ず」になりかねません。「森友学園問題」は、安倍政権が極右排外主義的であり、そのような政権によって日本社会に極右排外主義が蔓延した(そして、そのような極右排外主義を蔓延させる安倍政権を許容する土壌を培ってきたのは、他でもない自民党政権です。)がゆえに起こったものなのです。思い出してください、そもそも森友学園がクローズアップされたのは、前述したように森友学園の教育方針が極右排外主義的であり、それが安倍政権の価値観とも軌を一にするものだったからです。

さらに言えば、「森友学園問題」はあくまでも「氷山の一角」です(もちろん、大きな一角であることに間違いありませんが。)。そしてまた、安倍政権自体も(前エントリで述べたとおり*6)あくまでも「氷山の一角」です。

森友学園問題」を解決するためには、もちろん安倍政権を終わらせることが絶対必要です。しかし、それだけでは「森友学園問題」は再び、三度、姿を変えて現れるでしょう。私たちは、「森友学園問題」を真に解決するためにも、この国から極右排外主義を私たちの手で葬り去らなければならないのです。

 

 

 

「安倍政治」は、「自民党政治」そのものである。

もしかすると、「安倍政権」は、これまでの自民党政権とは異なる「異常な政権」である、という認識の人も少なくないかもしれません。たしかに、私も、安倍政権は「戦後最悪の政権」であると言っても過言ではないと思います。しかし、安倍政権が、これまでの自民党政権とは異なる「異常な政権」である、という見方については、私は懐疑的です。

思うに、「安倍政権」というものは、1955年に始まった「自民党政権」が先鋭化したものであって、決してこれまでの「自民党政権」と根本的に違うものではありません。例えば「教育の右傾化」も、たしかに安倍政権の発足で加速したかもしれませんが、しかし、その萌芽は、少なくとも1982年の自民党鈴木善幸政権下での「第一次教科書問題」(韓国の独立記念館は、この日本政府による歴史修正主義への“カウンター”として設立(開館は1987年)されたものです。)までさかのぼることができます。また、安倍首相が「私の歴史的な使命だ」と言ってはばからない「改憲」も、その時々で温度差はあるものの、自民党が1955年の結党以来ずっと「党是」として掲げてきたものです。そして、喫急の課題である民族差別煽動の問題も、たしかに安倍政権の排外主義が加速させたというのはあるでしょうが、しかし、それは安倍政権以前の自民党政権が長年にわたり行ってきた民族差別的な政策によって醸成された「土壌」によって生み出されたものであるといえます。

残念ながら、安倍政権の批判者の中には、安倍政権以前の自民党政権を「古き良きもの」であるかのように肯定的に評価している人も見受けられます。しかし、安倍政権も安倍政権以前の自民党政権も、根本的に異なるものではありません。たしかに、戦後日本の憲法は、民主的なものへと変わりました。しかし、戦後日本の政治は、帝国主義を克服しないまま今日に至っています。「自民党政治」がいかに帝国主義的であるかは、憲法9条があるにもかかわらずベトナム戦争湾岸戦争……と「帝国の戦争」に加担してきたことや、これまで多くの首相や閣僚が(日本帝国主義による侵略戦争と植民地支配の精神的な支柱であった)靖国神社を参拝してきたことからも窺い知ることができます。「安倍政治」は、そんな「自民党政治」の帝国主義的な性格がむき出しになったものであり、「自民党政治」以外の何ものでもありません。

このように、「安倍政治」が「自民党政治」と何ら変わらないものである以上、単に「安倍政治」を終わらせるだけでは、1955年から今日に至るまで帝国主義を克服しないまま「自民党政治」によって作られてきた日本は決して変わらないでしょう。日本を「誰もが尊厳ある人間として生きることのできる国」に変えるためには、「自民党政治」を終わらせることが是非とも必要であり、「安倍政治」を終わらせることは、そのための第一歩なのです。

「3.11」と「復興」について

正直なところ、私は「3.11」について語る言葉を未だ持てずにいます。

そんな私が、ただ一言だけ言えることは、「人間を切り捨てるな」ということです。

どうか「復興」の美名の下に人間を切り捨てないでください。

もっとも、「人間を切り捨てるな」ということは、私のような左翼を自認する人間についてもいえることです。もし私たちが、「闘い」のために人間を切り捨てるようなことをするならば、そのような「闘い」に意味などないでしょう。

ところで、私は当たり前のように使われる「復興」という言葉に疑問を感じています。「3.11」後、本当に必要なのは、復興という「一度衰えたものの勢いを再び取り戻すこと」でしょうか。「一度衰えたものの勢いを再び取り戻」そうとするあまり、未解決の問題を隠蔽し、あるいは忘却させようとしてはいないでしょうか。思うに、「3.11」後、本当に必要なのは、「復興」ではなく、人が「尊厳ある人間」として再び生きることのできる場所を「再生」することです。

あの日から7年が過ぎた今、私たちは、はたして人が「尊厳ある人間」として再び生きることのできる場所を「再生」することができたといえるでしょうか。

「戦後平和主義」を問い直そう、安倍首相とは真逆の方向で。

「『戦後平和主義』を問い直そう」と言うと、もしかすると安倍首相が主張する「戦後レジームからの脱却」なるものに、私が賛同していると思う人もいるかもしれません。

誤解しないでください。私は決して、「戦後レジームからの脱却」なるものに賛同して「『戦後平和主義』を問い直そう」と言っているのではありません。むしろ私は、安倍首相とは真逆の方向で「『戦後平和主義』を問い直そう」と言っているのです。

お断りしておきますが、私はいわゆる「反戦主義者」です。しかしながら、戦後日本で唱えられてきた「反戦」の主流的言説には、どうしても違和感を禁じえません。それというのも、戦後日本で唱えられてきた「反戦」の主流的言説というのは、「日本人が戦争で殺されるから、戦争には反対である」というものであるように思えるからです。事実、「語り継がれるべき戦争の記憶」の多くが、原爆被害や空襲被害、あるいは若い日本兵の死といった「日本人が戦争で殺された」というものです(そのなかには、「平和」の看板を掲げながら日本軍を賛美するようなものも、しばし見受けられます。)。もちろん、戦争という過ちを二度と繰り返さないために、そのような「記憶」を語り継ぐべきことも大切であることを否定するつもりはありません。ですが、語り継がれる「記憶」は、はたして「日本人が戦争で殺された」というものだけで十分なのでしょうか。語り継がれる「記憶」の多くが「日本人が戦争で殺された」というものである結果として醸成される「日本人が戦争で殺されるから、戦争には反対である」という意識ゆえに、残念ながら日本国民の多くが「日本が加担する、日本人が殺されない戦争」には驚くほど無頓着であるといえます。

日本国民の多くが「日本が加担する、日本人が殺されない戦争」には驚くほど無頓着である、その一例としては、「護憲派」によってしばしば語られる「戦後、憲法9条があったおかげで他国間の戦争に巻き込まれずに済んだ」という言説を挙げることができます。たしかに「戦後、憲法9条があったおかげで他国間の戦争に巻き込まれずに済んだ」ことは事実でしょう。しかし、戦後、憲法9条があったにもかかわらず、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争……といった「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」に加担し、そのおこぼれにあずかってきたのも、また事実です。つまり、「戦後平和主義国家ニッポン」は、自らの手を血で染めることこそしなかったとはいえ、「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」の片棒を担ぐことで、間接的には戦争で人間を殺してきたのです。そして、今もなお日本政府は、「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」に加担せんとしています。「9条の危機」は、決して安倍政権の台頭で初めて生じたものなどではなく、日本が戦後、憲法9条があったにもかかわらず、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争……といった「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための戦争」に加担してきた歴史が積み重なった結果なのです。

もちろん、私は「戦後平和主義」を全て否定するつもりなどありませんし、「罪」よりも「功」のほうがはるかに大きいと思っています。しかし、「戦後平和主義」は決して「歴史の終わり」ではありません。「日本人が戦争で殺されない」という「戦後平和主義」を乗り越え、「日本人が戦争で殺されない。のみならず、日本人が戦争で殺さない」という「真の平和主義」の実現に向けて歩みを進めるためにも、今こそ私たちは、安倍首相とは真逆の方向で「戦後平和主義」を問い直す必要があると思うのです。

 

「3月1日」に、日本国民が果たすべき「植民地支配責任」について考えてみる。

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「日本国民は、過去の日本による植民地支配に関して、責任を果たすべきである」などと言えば、おそらく多くの日本国民は、「我々が直接関与したわけではない“過去の日本による植民地支配”に関して、我々が責任を問われる筋合いはない」と反発するでしょう。

たしかに、「戦前・戦中」生まれの国民はまだしも、「戦後」生まれの国民は、“過去の日本による植民地支配”には直接関与していません。しかし、だからといって「責任を問われる筋合いはない」というのは、果たすべき「責任」を誤解したものであるといえます。

思うに、現在の日本国民が問われるのは、「過去の日本による植民地支配に関して」ではありますが、しかし、それは決して「日本国民の過去の行為について」の責任ではありません。現在の日本国民が問われるのは、過去の日本による植民地支配に関して、さらには植民地主義に対して、今まさに日本国民がいかなる態度をとるかについての責任なのです。つまり、過去の日本による植民地支配に関して現在の日本国民が果たすべき責任とは、「過去の日本による植民地支配」の美化や正当化を拒絶し、「植民地主義は克服されなければならない」という価値観を共有することです。かつて日本の植民地であった国の人々も、日本国民一人ひとりに謝罪を求めているわけではなく(もちろん、だからといって日本政府が、かつて日本の植民地であった国の人々に謝罪しなくてもよいということではありません。)。「過去の日本による植民地支配」の美化や正当化を拒絶し、「植民地主義は克服されなければならない」という価値観を共有することを求めているのだと思います。

もっとも、日本国民の多くは、そもそも過去の日本による植民地支配に関する自らの「責任」について、いささか無頓着であるかもしれません。おそらくそれは、過去の日本による植民地支配という「過去の負の歴史」と向き合ってこなかったからというのもあると思います。そうだとすれば、「過去の負の歴史」と向き合ってこなかった日本国民は、なによりもまず「過去の負の歴史」としっかり向きあうことから始めるべきです。

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さて、今日、3月1日は「三一節」――日帝強占期の韓国で、日本の植民地支配に抵抗して1919年に起きた「三・一独立運動」の記念日です。「三一節」は、日本国民にとって単なる「隣国の記念日」などではなく、日本国民が「過去の負の歴史」と向き合い、過去の日本による植民地支配に関して現在の日本国民が「責任」を果たすための大事なきっかけとなる日です。のみならず、「三一節」は、日本国民自身の「自由と尊厳」にとっても大切な日であるといえます。なぜなら、人間として当然に有するはずの自由と尊厳を求めて闘った人々の歴史を学ぶことは、日本国民が真の「自由と尊厳」を獲得するために大切なことなのですから。