あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

天皇制反対を冷笑する「リベラル」派の誤解

昨今、天皇制に反対する人を冷笑するような「リベラル」派の言説を見聞することが、しばしばあります。すなわち、天皇制反対を訴えることを、「天皇制を支持する国民が多数という現実から目を背け、己の信条に固執する教条主義的な態度」だというのです。

おそらく、そのような言説に共感する「リベラル」派は少なくないでしょう。しかし、今の日本の状況で天皇制反対を訴えることを「教条主義」だなどというのは、大きな誤解です。天皇制は、身分差別という「多数決の論理」が妥当しない人権の問題なのですから、私たちが直視すべき「現実」は、「天皇制を支持する国民が多数であること」ではありません。“天使の顔”をした「象徴天皇制」という天皇ファシズムに次々と人民が絡めとられ、それにより個人の尊厳がますます蔑ろにされていくというのが今の日本の状況であり、それこそが、私たちが直視すべき「現実」なのです。そして、だからこそ左翼は天皇制反対を訴えるのです。

「現実を見る」ことは、権力に迎合し、権力によってつくられた現状を追認することでは、決してありません。そのような現状追認は、修正主義どころか右翼日和見主義でしかありません。そもそも、人権の問題で「国民の多数が支持している」などという話を持ち出すこと自体、詭弁と言わざるを得ません。

教条主義」云々を言うのであれば、たとえば「天皇の制度というのは憲法上の制度なのだから、天皇制を尊重し天皇に敬意を持つのが当然だ」などと考えることのほうが、よほど「教条主義」だといえます。もっとも、こう言うと「それならば憲法9条を変えないことも教条主義だと言わなければならなくなる」と批判されるかもしれません。しかし、その批判は妥当なものではありません。なぜなら、平和主義は憲法の究極の目的である個人の尊厳の確保に資するものであるのに対し、身分差別制度である天皇制は個人の尊厳と本来的にそぐわないという、本質的な違いがあるからです。過去のエントリでも書きましたが*1、「護憲」とは、必ずしも「憲法を変えないこと」ではありません。

天皇制に反対する人を「現実を見ていない」と冷笑する「リベラル」派は、どうか「現実を見る」ことの意味を履き違えないでください。

チェジュの『うまいもの』たち

yukito-ashibe.hatenablog.com

前エントリでは、私が済州島の旅で食べた『うまいもの』として、東門市場の新鮮な刺身をご紹介しました。しかし、チェジュの『うまいもの』は、もちろん刺身だけではありません。そこで、本稿では、前エントリの補足として、東門市場の刺身以外で私が済州島の旅で食べた『うまいもの』を、いくつかご紹介したいと思います。

 

1.コギククス(고기국수)

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日本と同様、韓国にも、江原道のマッククスや釜山のミルミョン、晋州の晋州冷麺など、様々な「ご当地麺」があります。そして、済州島の「ご当地麺」が、豚肉が美味しい済州島ならではのコギククス(肉麺)です。

専門店でいただいたコギククスは、程よい太さでコシがあり喉ごしの良い麺で、さっぱりとした優しい味わいのスープとよくなじみます。とろとろに柔らく茹でられた厚切りの豚肉は、まさにとろける美味さです。こちらのコギククス、見た目は九州の豚骨ラーメンと似ていますが、コギククスのスープは豚骨ラーメンのようなクセはなく、豚骨ラーメンが苦手な人でも大丈夫です。

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三代グクス会館

一方、済州バスターミナルの食堂でいただいたコギククスは、専門店とは異なり麺は素麺のような細麺でしたが、これはこれでさっぱりとしたスープと良く合い美味しかったです。酒の後の〆の一杯としては、むしろこちらのようなコギククスが嬉しいかもしれません。

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ナムチョン食堂(済州バスターミナル内)

このように、お店によってそれぞれ違う味が楽しめるコギククスですので、いろいろ食べ比べてみるのも面白いと思います。

 

2.ムルフェ(물회)

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ムルフェ(水刺身)の発祥は慶尚北道浦項といわれていますが、済州島でも郷土料理として親しまれています。特に、チャリ(자리)と呼ばれるスズメダイのムルフェは、済州島ならではの味覚といわれています。そんなわけで、私は済州島を訪れたらぜひチャリムルフェを食べたいと思っていました。

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済州島の夏の定番料理だというムルフェ、酢の利いたコチュジャンベースのスープは、たしかに暑さで食欲が落ちやすい夏にぴったりです。スズメダイの刺身は、いわゆるセゴシなので小骨が気になるという話も聞かれますが、私はむしろ小骨の食感が良いアクセントに感じました。日本ではほとんど食べられることのない(なお、福岡の博多では「あぶってかも」と呼ばれ、郷土料理として親しまれているそうです。)スズメダイですが、臭みもなく、雑魚として捨ててしまうのはもったいない美味しい魚です。

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漢拏フェッチッ(刺身店)

ところで、このムルフェですが、元々は「漁師メシ」だったそうで、汁にご飯をぶち込んで豪快に食べるのが最高に美味いです。済州島でムルフェにすっかりハマった私ですが、いつかぜひ元祖である浦項のムルフェも食べてみたいと思っています。

 

3.アマダイ焼き(옥돔구이)

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コギククスも、ムルフェも、済州島を訪れたらぜひ食べたいと思っていた済州島名物料理ですが、これらのほかに、私が絶対に食べようと心に決めていたのが、済州島名産のアマダイ(옥돔)です。日本と同様、済州島でもアマダイは高級魚でして、値段は決して安くありません。しかし、そのふっくらとした柔らかい白身は、程よく脂が乗った上品な旨みで、少々奮発しても絶対に後悔しない、否、むしろ食べなければ後悔する美味しさです。それに、この立派なサイズ、実に食べ応えがあります。

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もし済州島で絶対に食べるべき名物をひとつだけ挙げろと言われたら、私はこのアマダイ焼きを挙げたいと思います。そのくらい、済州島のアマダイ焼きは感動的な美味しさでした。

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済州島の『うまいもの』は、有名な済州黒豚やアワビだけではありませんよ!ちなみに、アマダイ焼きは定食ですので、焼肉とは違って一人旅にもやさしいメニューです(もっとも、財布にはあまり優しくないかもしれませんが。)。

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ソンミ食堂(城山邑)

以上、私が済州島の旅で食べた、チェジュの『美味いもの』を簡単にご紹介しましたが、チェジュの『うまいもの』は、もちろんこれだけではありません。本稿をお読みくださったみなさまも、ぜひ済州島を訪れて、チェジュの『うまいもの』を堪能してみてください。

憧れの島の、チェジュブルー。

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韓国の제주도(チェジュ(済州)島)は、私にとって子供の頃からの憧れの島でした。もっとも、子供の頃の私にとって、제주도は「済州島」であり、それは「チェジュ島」ではなく「さいしゅうとう」でした。そんな憧れの島・제주도が、私にとって「済州島」から「チェジュ島」になったのは、いつからだったでしょうか。そして、제주도が、私にとって「チェジュ島」から제주도になる日は、はたして訪れるのでしょうか。

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過日、私はようやく子供の頃からの夢が叶い、チェジュ島を旅しました。

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「韓国のハワイ」とも呼ばれるチェジュ島、その名前を聞いて真っ先に「美しい青い海」を思い浮かべる人も少なくないのではないでしょうか。私も、チェジュの海の青さについては、実際にチェジュ島を訪れる以前から写真や映像を通して知っていました。しかし、実際にチェジュ島を訪れ、この目で見たチェジュの海の青さは、写真や映像では(知ることはできても)感じることのできない、まさに感動的な青さでした。

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チェジュの海の、この青さを、私は「ケラマブルー」や「八丈ブルー」のように、「チェジュブルー」と呼びたいと思います。

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この綺麗な海で育まれた海の幸が美味しくないわけがない、ということで、済州市民の台所である東門市場では、新鮮な刺身を堪能しました。

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東門市場・名品海雲台活魚直売場

どの刺身も新鮮で美味しかったですが、その中でも特に참돔(真鯛)の刺身が、もちもちとした食感とほんのり甘い旨みで、最高に美味しかったです。

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東門市場・月尺刺身センター(月尺水産)


ちなみに、こちらの市場では、鮮魚店の店頭で購入した刺身の盛り合わせを、別途おつまみ代を支払い店内の食堂に持ち込んでいただくという、市場ならではの楽しみ方ができます(ちなみに、どのお店も明朗会計なので安心です。)。

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チェジュ島では、「通りから家の入り口まで通じる狭い路地」を意味する「オルレ」をはじめ、素敵なトレッキングコースが充実しています。

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運動不足で体力に自信がない私も、ドラマ『空港に行く道』*1のロケ地として有名になった*2吾照浦口のトレッキングコースを、ほんの少しだけ歩いてみました。その日はあいにくの空模様でしたが、むしろ曇り空が、静寂な入り江の幻想的な雰囲気と、入り江から見える世界自然遺産・城山日出峰の神秘的な雰囲気を引き立たせているように感じました。

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チェジュ島は鉄道がなく、島での主な移動手段はタクシーか路線バスとなります。利便性を考えるとタクシー利用がベストでしょうが(昔から日本人観光客の多いチェジュ島では、日本からインターネットや電話で予約できる観光タクシーもあるようです)、しかし、「チェジュ島の路線バスに乗る」というのが旅のテーマ(というほどのものではないかもしれませんが)の一つだった私は、少々の不便さを甘受して路線バスを利用しました。その結果、時間が足りずいくつかの場所の訪問をあきらめなければならなかったというデメリットもありましたが、しかし、バス停でバスを待つ間、(韓国の旅ではよくあることかもしれませんが)ソウルから旅行でいらしたご年配のご夫婦としばしの会話を楽しむことができました。もっとも、拙い私の韓国語ではスムーズな会話はできませんでしたが、優しいご夫婦のおかげで、それも良い旅の思い出になりました。

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私の拙い短文でチェジュ島の魅力をどれだけお伝えできるか、正直なところ自信がありません。ただ、たしかにチェジュ島は、今も変わらず「日本から一番近い海外のリゾートアイランド」です。

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済州4.3平和公園・慰霊祭壇

しかし、チェジュ島は、日本人にとって単なる「日本から一番近い海外のリゾートアイランド」ではありません。つまり、私たちは、<帝国>に抑圧され搾取され、そして翻弄され蹂躙されたチェジュ島の歴史を、決して忘れてはならず、あるいは知らなければならないということです。この点に関しては、いずれ稿を改めて書きたいと思います。

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済州抗日記念館

 

「護憲」とは、つまりは人権を守ることである。

www.jcp.or.jp

 

「護憲」という言葉は、「改憲」という言葉との対比で「憲法を変えないこと」という意味で使われることが多いです。たしかに、例えば憲法9条に関していえば、「憲法を変えないこと」が「護憲」であることに間違いはありません。しかし、それは憲法9条を変えるべきではない理由があるからこそ、「憲法を変えないこと」が「護憲」なのであって、「護憲」という言葉の意味が「憲法を変えないこと」だからではありません。つまり、憲法を変えるべきでない理由こそが、「護憲」の本質的な意味なのです。

それでは、「護憲」の本質的な意味は何か。思うに、それは人権を守ることです。なぜなら、憲法は個人の尊厳を確保することを究極の目的とするものであって、その憲法を護ることで、個人の尊厳に由来する基本的人権が守られるからです。

憲法の目的という点に関しては、「憲法は安倍のような横暴な権力者から国を守り、国民を守るためにある」という言説を目にしたことがあります。たしかに、憲法が国家権力を縛るものであることは間違いありません。しかし、それはあくまでも人権を守るためであって、国を守るためではありません。そのことは、国を守るために人権が犠牲にされてきた歴史に鑑みれば、容易に分かるでしょう。また、人権は「人種、性、身分等の区別に関係なく、人間であれば当然に享有できる権利」であって(人権の普遍性)、「国民」であることによってはじめて保障される権利ではありません。それゆえ、「憲法が国民を守るためにある」というのも大きな誤解です。この点に関して、日本国憲法11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は……」というように規定していますが、しかしながら「基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」と解するのが判例・通説です。もっとも、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は……」という規定は、人権が「人種、性、身分等の区別に関係なく、人間であれば当然に享有できる権利」であることと矛盾するのですから、改めるべきでしょう。このような憲法改正は、「護憲=人権を守ること」のための憲法改正であって、「護憲」が憲法を全く変えないことではないというのが分かるかと思います。

「護憲」が憲法を全く変えないことではないということに関して、もしかすると「それならば、なぜ憲法9条を変えようとしないのか。憲法9条に関しても、『護憲のための憲法改正』をするべきだ」と言う人もいるかもしれませんが、そのようなことを言う人は、残念ながら「護憲」の本質的な意味を理解していません。さきほど、私は「護憲の本質的な意味は、人権を守ることである」と言いましたが、憲法9条に関していえば、人権を守るためには、憲法9条を変えてはならないのです。このように言うと、「他国の侵略から国民の人権を守るためにも、憲法9条の改正が必要だろうが」という批判を頂戴するかもしれません。しかし、そのような批判は憲法9条の趣旨を誤解しています。憲法9条の趣旨は、「他国の侵略から国民の人権を守る」ことではなく、過去に日本が犯した侵略戦争という人権侵害を反省し、日本が戦争を放棄することで、普遍的に人権を守ることにあります。このことは、日本国憲法が前文で「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と規定していることからも明白です。つまり、「国民の権利」ではない、普遍的な人間の権利である人権を守るためには、日本が戦争を放棄することを宣言した憲法9条を変えてはならないということです。

以上で、「護憲」が単に「憲法を変えないこと」ではないということが、おわかりいただけたかと思います。私は「護憲派」を自認する者ですが、自民党政権による「改憲」ならぬ「懐憲」に抵抗するためにも、私たち「護憲派」は、「何のために憲法を護るのか」を常に考えることを怠ってはなりません。

「逮捕」に関する誤解について

逮捕されないのは「上級国民だから」なのか? 池袋と神戸の暴走事故、違いがネットで物議。その背景は

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/kobe-ikebukuro

 

「逮捕」は、刑罰ではなく、あくまでも捜査手続のひとつであって、「逮捕の必要」(逃亡または罪証隠滅のおそれ)*1がなければ逮捕すべきではありません。そして、このことは、被疑者が世間の人々が「上級国民」と呼ぶブルジョアであっても変わりません。したがって、今般の池袋の事件について「逃亡または罪証隠滅のおそれがあるだろうに、どうして警察はI氏を逮捕しないのか。まさか、警察はI氏がブルジョアだから特別扱いしているのか」と批判するのであればまだしも、「I氏は人を轢き殺しても『上級国民』だから逮捕されず無罪放免なのか」と非難することは、「逮捕」を刑罰と誤解するものであって妥当ではありません。刑罰には被害者や社会の処罰感情を満たす効果もあるでしょうが、「逮捕」は刑罰ではありませんから、「逮捕」を被害者や社会の処罰感情を満たすためのものと考えるのは間違いです。被害者や社会の処罰感情の充足は、「逮捕」の要否とは別に考えるべき話です。

もっとも、市民が「逮捕」を被害者や社会の処罰感情を満たすためのものと誤解してしまうのは、市民が法を知らないからというよりも、むしろ警察による逮捕権の運用に問題があるからだと私は思います。つまり、思うに今般の問題は、「ブルジョアだから逮捕されない」ということよりも(例えば、ブルジョアであってもカルロス・ゴーン氏にような外国人は逮捕されます)、むしろ「逮捕の必要」のない“懲罰的逮捕”が横行しているということです。今般の池袋の事件と比較される、神戸のバス事故*2に関しても、現行犯逮捕にも「逮捕の必要」が要件となると解する通説に従えば、(自殺防止を考慮する必要はあるとしても)事故を起こした運転士を逮捕せず任意捜査で進めるべきだと考えることもできるのではないでしょうか。

“懲罰的逮捕”の最たるものは、沖縄での、芥川賞作家・目取真俊さんの逮捕*3や、山城博治沖縄平和運動センター議長の逮捕・長期勾留*4です。もしかすると、「『上級国民』であるI氏は逮捕されないのに、『上級国民』ではないバス運転士は逮捕されるのは不公平だ」と言う市民の中には、目取真俊さんや山城博治の不当逮捕に関しては「悪いことをした“極左”は逮捕されて当然だ」と思う人も意外といるのではないでしょうか。しかしながら、「悪いことをしたのだから、逮捕されて当然だ」という認識が、そもそも間違っています。市民がかかる認識を形成してしまう大きな要因としては、マスメディアによる事件報道や、「警察24時 悪い奴らは全員逮捕だ!」といったマスメディアを利用した警察のプロパガンダを挙げることができるでしょう。つまり、市民が警察による“懲罰的逮捕”を容認してしまうのは、市民が法を知らないからというよりも、むしろ権力の側が、市民が法を知ることを妨げ、“懲罰的逮捕”を容認するように仕向けているといえます。

今般の池袋と神戸の事件での警察による逮捕権の運用について、世間の人々が憤りを覚えるのは分からなくもありません。被疑者の社会的属性が「逮捕の必要」の判断に少なからず影響を及ぼしている事実は、一概に否定はできないでしょう。しかし、それでも私は、世間の人々に、「逮捕」を被害者や社会の処罰感情を満たすためのものと誤解するのをやめるようにお願いしたいです。なぜなら、沖縄や釜ヶ崎をはじめとした日本のさまざまな場所で、尊厳ある人間として生きるために国家の理不尽な暴力に抵抗する人民が、警察の理不尽な暴力にさらされているからです。「逮捕」は、決して“正義の鉄槌”などではなく、本来的に国家による人権侵害です(それゆえ、「法の適正な手続」によらなければならないのです。)。人身の自由が原則であること(憲法31条、33条)、および「逮捕」は捜査手続のひとつであって刑罰ではないこと、どうかこの二点だけは決して忘れないでください。刑事司法が「中世レベル」だと国連拷問禁止委員会で酷評される*5ようなこの国では、「逮捕」の本来の趣旨を逸脱した、必要のない“懲罰的逮捕”は、あなたや私にとって決して他人事ではないのですから。

 

 

*1:刑事訴訟規則
(明らかに逮捕の必要がない場合)
第143条の3 逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない。

*2:

www.asahi.com

*3:

ryukyushimpo.jp

*4:

ryukyushimpo.jp

*5:

www.huffingtonpost.jp

「今上天皇はいい人です」と、リベラル派も言うけれど……。

www.asahi.com

 

いわゆる「保守派」だけでなく「リベラル派」の中にも、「今上天皇はいい人だ」と言う人が少なくありません。そして、そのような人は、しばしば「天皇制そのものが悪いのではない、安倍のような悪人が天皇を政治利用するのが悪いのだ」と言います。安倍氏天皇を政治利用しているのは、たしかにその通りです。しかし、「天皇制そのものが悪いのではない、安倍のような悪人が天皇を政治利用するのが悪いのだ」と言う人は、誤解しています。「安倍のような悪人が政治利用する」から、天皇制が悪しき制度となってしまうのではありません。そもそも天皇制は、「安倍のような悪人が政治利用する」ためにつくられた制度です。つまり、安倍氏は、天皇制の本来の使い方をしているだけなのです。

それでも、きっと「今上天皇はいい人だ」と言うリベラル派の人は、「今上天皇はいい人なのだから、安倍のような悪人にさえ利用されなければ、天皇制は良い制度であるはずだ」と言うでしょう。しかしながら、彼は天皇制に関する議論の本質を誤解しています。天皇制という制度そのものの是非を論じるにあたって、天皇明仁氏がいい人であるかどうかは、問題にはなりません。たとえ天皇明仁氏がいい人であろうと、天皇制が差別の根源でなくなるわけではないのですから。天皇制に関する議論は、いわば神輿それ自体の良し悪しの問題であって、神輿に乗っている人物の良し悪しなど、はっきり言ってどうでもいい話です。

ところで、天皇明仁氏は本当に「いい人」なのでしょうか。この点について、おそらく「今上天皇はいい人だ」と言うリベラル派の人は、「今上天皇は、平和を愛する立派なお方であることは、これまでの陛下のお姿やおことばを拝見すれば明らかである。そして、今上天皇が平和を愛する立派なお方であるからこそ、日本を代表するリベラル紙である朝日新聞世論調査で、76%が皇室に親しみを持っていると回答したのである」と言うでしょう。正直なところ、私は天皇明仁氏が本当に「いい人」なのかどうか知りませんが、ただ、76%が「皇室に親しみを持っている」と回答した朝日新聞世論調査の結果は、象徴天皇制の下では、ある意味で当然のものだと思います。なぜなら、象徴天皇制の下では、マスメディアが皇室を賛美する一方で天皇制に批判的な報道をせず、国家や国民が天皇制を批判する人民を異分子として排除しようとするのですから。つまり、天皇を「いい人」に見せる演出というのは、まさに象徴天皇制から要請されるものだということです。象徴天皇制を批判しながら「今上天皇を『いい人』だと言って何が悪い」と言ってはばからないリベラル派の人は、このことを理解しておらず、それゆえ彼の象徴天皇制批判は、残念ながらうわべだけのものだと言わざるを得ないでしょう。

今上天皇はいい人」という国民の認識は、たしかに無邪気なものかもしれません。しかし、その無邪気な認識が、差別の根源である天皇制を支えているのです。リベラル派の皆さんは、晋三氏や昭恵氏を「いい人」に見せるマスメディアの演出には疑問を感じることができるのですから、それと同様に、明仁氏や美智子氏を「いい人」に見せるマスメディアの演出にも疑問を感じてみてはいかがでしょうか。もっとも、こう言うと、聡明なリベラル派の方に「天皇は政治的な権能を持たないのだから、民主主義の下では天皇制に批判的な報道をする必要などない」と反論されるかもしれません。たしかに、政治的な権能を持たない点に鑑みれば、明仁氏は安倍氏と全く同じではないでしょう。しかし、民主主義云々を言うのであれば、それこそマスメディアが批判的に報道できない(いわゆる「菊タブー」)天皇制など、そもそも民主主義の下では必要ないのです。

梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』を今こそ読むべき理由

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1970年代に行われた梶村秀樹*1先生(1935-1989)の講演記録を一冊にまとめた『排外主義克服のための朝鮮史』は、朝鮮史の知識を網羅的に解説したものでありませんし、梶村先生が依って立つ学説の中には、最近の研究によってすでに否定されている見解もあります。それゆえ、「梶村秀樹の著作は、もはや読む価値がない」と言う人もいるでしょう。しかし、私が思うに、そのような人は本書の意義を誤解しています。

『排外主義克服のための朝鮮史』は、決して朝鮮史の知識を網羅的に習得するためのものではなく、書名のとおり「排外主義克服のための」ものです。つまり、本書でいう「朝鮮史」とは、単なる知識としての「朝鮮史」ではなく、「排外主義を克服する方法としての朝鮮史」なのです。

それでは、「排外主義を克服する方法としての朝鮮史」とは、どういうことか。それは、一言で言えば「朝鮮を主体として捉えた朝鮮史」です。日本国民が学校教育などを通じて習得する「朝鮮の歴史」は、そのほとんどが朝鮮を客体として「日本国民のまなざし」で眺めたものです。梶村先生は言います。「全面的な価値体系が、空気のようにしみ込んでいる帝国主義的なイデオロギー体系、あるいは社会関係の中で作り出されてしまっているということを、出発点において私たちは免れえないのではないか」と。つまり、「日本国民のまなざし」も帝国主義的なイデオロギー体系の中で作り出された価値体系から免れえないのであり、そうした「まなざし」で眺めた「朝鮮の歴史」は、「朝鮮停滞史観」的な朝鮮を蔑視したものとならざるを得ない。そして、それが排外主義を支える大きな柱の一つとなっている。そこで、「朝鮮を主体として捉えた朝鮮史」を学ぶことで朝鮮に対する蔑視観を打ち壊し、排外主義を克服するのです。

日本社会でマジョリティとして生きている一人として、私自身も「日本国民のまなざし」と無縁ではありません。それこそが、私が『排外主義克服のための朝鮮史』を読む一番の理由です。しかしながら、もしかすると「私は朝鮮蔑視観なんて持ってないし、ネトウヨのような排外主義者ではないから、『排外主義克服のための朝鮮史』を読まなくても大丈夫だ」と言う人も少なくないかもしれません。もちろん、『排外主義克服のための朝鮮史』を読むか読まないかは各人の自由ですが、しかし、「私は朝鮮蔑視観なんて持ってないし、ネトウヨのような排外主義者ではない」と言う人にこそ、むしろ『排外主義克服のための朝鮮史』を読んでもらいたいと私は思います。梶村先生は言います。「朝鮮のことをある程度知っている人間が、中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、もっとも悪質な偏見の持ち主になることはよくあることのようです」と。残念ながら、リベラル派言論人の中にも、この「中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、もっとも悪質な偏見の持ち主にな」ってしまったような人が少なからずいます。

さて、日本の排外主義を批判するリベラル派の中には、もしかすると「日本の排外主義は日本人の『民族性』によるものなのだから、日本人が排外主義を克服することなど不可能なのではないだろうか」と絶望する人もいるかもしれません。たしかに、日本の排外主義は克服されるどころか、ますますひどくなる一方です。しかし、「日本の排外主義は日本人の『民族性』によるものなのだから……」と絶望するのが間違いであることは、本書の次の一節を読めば容易に理解出来るでしょう。

「日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような『民族性』ということばは絶望に通じていきかねない。紀元節にしても天皇制にしても明治の、日本の資本主義が発生していく過程で明らかに意図的につくられたものなのです。」

『排外主義克服のための朝鮮史』は、まさに「われわれ」が「これ(権力の側がつくった日本の天皇イデオロギーや民族排外主義)をこわしていく」ために、今こそ読むべき一冊です。