あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

政権を批判することに、「日本」が好きかどうかは関係ない。

「安倍政権を批判するなんて、リベラル派はそんなに『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」と言う“ネット右翼”に対して、「『日本』が好きだからこそ、安倍政権を批判するのだ」と反論する“リベラル派”が少なくありません。

おそらく、そのように反論する“リベラル派”は「愛する『日本』を良くしたいから」だと言いたいのでしょう。しかし、私が思うに、それは間違った議論の土俵に乗るものであって、妥当ではありません。なぜなら、政権を批判することに、「日本」が好きかどうかは関係ないからです。

もちろん、「日本」を好きだと思うのは個人の自由です。しかし、自分の生活する社会を良くするために、「日本」という“共同の幻想”が好きである必要はありません。なぜなら、私たちの社会生活は、本来的に「『日本』が好き」という個人的な感情とは関係なく営まれるものなのですから(「日本」が好きでなければ社会生活を営みことができない、というのは迷妄にすぎません。)。つまり、自分の生活する社会を良くするために政権を批判することは、「日本」が好きかどうかとは関係なく行われるべきものだということです。

それとも、自分の生活する社会を良くするためには、「日本」を好きであることが必要だというのでしょうか。しかし、(「『日本』が好きだからこそ、安倍政権を批判するのだ」と言う“リベラル派”が「私こそが真の愛国者だ」としばしば口にすることからも分かるように)「日本」の概念が〈国家〉と深く結びついたものであり、そのうえ、その〈国家〉が権威主義的な〈天皇〉を擁するものであるという現状では、「自分の生活する社会を良くするためには『日本』が好きでなければならない」とすることは、ファシズムにつながりかねない危ういものだといえます。また、「……『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」に対して「『日本』が好きだからこそ……」と返すのは、その根底に「日本が嫌い=悪」だという発想があるのでしょう。しかし、そのような発想は、それこそ「『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」という排外主義につながりかねないものです。

政権を批判するのは、〈治者〉であり〈被治者〉である自分の生活する社会を良くするためです。そうであれば、“リベラル派”は“ネット右翼”が用意した土俵に乗ることなどせず、ただ「〈治者〉であり〈被治者〉である自分の生活する社会を良くしたいから、安倍政権を批判するのだ」と言えばいいだけです。それとも、あえて“ネット右翼”が用意した土俵に乗り、そして「我こそが、真の愛国者なり!」と声高らかに叫びたいのでしょうか。その同じ口で、「ファシストを通すな!」と謳いながら。

 

伊勢崎ゼミがいうところの「混ジャパ」である私が考える、「純ジャパ/混ジャパ」をめぐる議論の問題点。

withnews.jp

 

「日本人」である父と「在日コリアン」である母との間に生まれた私は、まさに伊勢崎ゼミがいうところの「混ジャパ」ですが、そんな私が何よりもまず彼らに言いたいのは、「私のルーツやアイデンティティを弄ぶのもいい加減にしてください」ということです。

冒頭に掲げたリンク先の記事では、“「潜在的な分断」に目を向ける上で、少なからず意味があった”、“あるいは普段は見えない「潜在的な分断」をあぶり出す起爆剤になったのかもしれない”とポジティブに捉えられていますが、私はマジョリティの「教材」として役立つために生まれたのではありません。

「純ジャパ」であるマジョリティが「『純ジャパ』になれない『日本人』である『混ジャパ』だって『日本人』だ」と言うのは、要するに「『混ジャパ』は『純ジャパ』になれない存在ではあるが、それでも『ジャパ』である以上は『日本人』の仲間に入れてあげよう」ということです。もっとも、彼らにとって大事なのはたとえ「混」であっても「ジャパ」であることですから、「混ジャパ」にもなれない人のことは「外国人」として疎外し続けるでしょう。つまり、「『混ジャパ』だって『日本人』だ」というのは、「多様性」で粉飾した「同化と排除の論理」でしかないのです。

そもそも、はたして「混ジャパ」はマイノリティなのでしょうか。たしかに、「混ジャパ」は「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立においてはマイノリティでしょうし、また、「見た目による差別」などといった事実上の差別を受けることもあるでしょう。しかし、父が「日本人」である「混ジャパ」の私は日本社会のマジョリティである日本国籍者ですし、(1984年改正、85年施行の)改正国籍法により父系優先血統主義から父母両系血統主義となった結果*1、「混ジャパ」は原則として日本国籍を取得することから、「混ジャパ」の多くが日本社会のマジョリティである日本国籍者であると考えられます(ただし、「混ジャパ」は日本国籍の取得によって重国籍となることから、多重国籍を認めていない日本では一定の期限までに国籍の選択をしなければなりません*2。)。そうだとすれば、日本国籍者である「混ジャパ」を、事実上のみならず法律上も差別される日本国籍者ではないマイノリティと同じ意味で「マジョリティ」と言うことはできません。「純ジャパ/混ジャパ」をめぐる議論では、この点が看過されているように思えます。

伊勢崎ゼミの指導教員である伊勢崎賢治氏が言う「潜在的な分断」というのも、その趣旨はいまいち不明瞭ですが、「『混ジャパ』のマジョリティ性」に鑑みれば、要するに「マジョリティである日本人(=日本国籍者)が(紛うことなき『日本人』である)『純ジャパ』と(『純ジャパ』になれない『日本人』である)『混ジャパ』に分断されている」といった程度の話でしょう。つまり、「混ジャパ」を「日本人」に同化することで「マジョリティである日本人」の分断を解消する一方で、「『混ジャパ』にもなれない『外国人』」が疎外され続ける状況を無視ないしは軽視するものであり、やはりそれは「同化と排除の論理」でしかないということです。

「混ジャパ」をポジティブに捉える人は、おそらく「日本人」という概念に多様性を持たせたいのでしょう。しかし、「日本人」という概念の多様性は、それこそ「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立を乗り越えたところにあるのではないでしょうか。もっとも、天皇制という「同化と排除の論理」に貫かれた制度が存在し、また、「日本人」の概念が極めて人種主義的な国籍制度と緊密に結びつけられてしまっている現状では、ただ「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立を乗り越えるだけでは、「日本人」という概念に多様性を持たせることは決してできないでしょう。「日本人」という概念に多様性を持たせるには、やはり天皇制という「同化と排除の論理」に貫かれた制度を廃止し、極めて人種主義的な国籍制度と緊密に結びついた「日本人」の概念をいったん解体して再構築する(それにより、極めて人種主義的な国籍制度は必然的に変革を迫られます。)必要があります。

我々“オタク”に自由があるのと同じように、“フェミニスト”にも自由がある。

“オタク”の中には、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」と言う人が少なからずいます。

言うまでもなく、“オタク”がフェミニストの批判に反論するのは自由です。しかし、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」と言う人は、国家とは異なり“フェミニスト”が(一人の人間である以上、当然に)言論の自由という人権の主体であることを看過する過ちを犯しています。

まさか、“オタク”は“フェミニスト”を巨大企業のような強大な事実上の社会的権力をもつ国家類似の存在だとでも言うのでしょうか。しかし、それならば“オタク”が支持するであろう反表現規制団体によるロビー活動も社会的権力の行使だと言わざるを得ないでしょう。

憲法が原則として国家と私人の関係を規律するものであるのは、人権が国家に対する闘争によって獲得されてきたという歴史的経緯もありますが、本質的な理由は、私人と私人の関係においては、当事者双方がそれぞれ自由をもっているからです。つまり、“オタク”に表現の自由があるのと同じように、フェミニストにも性的表現を批判する言論の自由があるのです。そして、“フェミニスト”の言論の自由は人権なのですから、それをまったく性質の異なる国家の権力と同視して、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」などと言うことは誤りなのです。

私は、あえて“オタク”として自戒的に言います。我々“オタク”は、我々自身に自由があるのと同じように、“フェミニスト”にも自由があることを忘れてはなりません。それは、正しい議論をするための不可欠な前提です。

 

 

 

 

「ネトウヨ」も「良い日本人」も、抑圧者たるマジョリティであることに変わりはない。

日本社会の民族差別について、よく「ネトウヨばかりではなく、良い日本人だっているのだけど……」と言う「良い日本人」がいます。

もちろん、日本人が「ネトウヨ」ばかりではないのは、そのとおりです。しかし、日本社会の民族差別に関して言えば、実のところ「良い日本人」がいるかどうかは問題ではありません。

"良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるということは真実ではないからだ。植民者がいる。それだけのことだ。"(J-P・サルトル植民地主義は一つの体制である』)

民族差別は、「個人の性格の良し悪し」の問題ではなく、あくまでも日本社会における「構造」の問題です。つまり、その「構造」の下では「ネトウヨ」も「良い日本人」も、抑圧者たるマジョリティであることに変わりはないのです。

私は、(私が「日本人」であるかどうかはさておき)自分を「良い日本人」だとは言いません。なぜなら、「良い日本人」であろうとなかろうと、私が抑圧者たるマジョリティであることに変わりはないからです。そして、私は日本社会の民族差別について「日本人として申し訳ない」とも言いません。なぜなら、抑圧者たるマジョリティである私が今やるべきことは、「日本人として」申し訳なく思うことではないからです。

"日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。"(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』)

抑圧者たるマジョリティである私が今やるべきことは、まさに「これをこわしていくこと」、すなわち日本社会の民族差別を生み出す「構造」をこわしていくことです。

麻生「一つの民族」発言問題の本質

「一つの民族」発言、麻生氏が謝罪「誤解生じたなら訂正」 TBS NEWS

 

麻生太郎氏の発言は、単にアイヌ新法と矛盾するから問題なのではありませんし、また、単に「皇国ファンタジー」だから問題なのではありません。

たしかに、麻生氏が言う「(日本が)2000年の長きにわたって、一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝を126代の長きにわたって、一つの王朝が続いている国」だというのは、史実的に誤りです。しかし、おそらく麻生氏は、それが誤りであることを十分わかった上で、あのような発言をしたのでしょう。思うに、麻生氏のような極右主義者にとって、自らの歴史認識が史実的に正しいか否かなどは取るに足らないことです。なぜなら、彼らにとって重要なのは、「日本は天皇を戴く単一民族国家である」という言説が史実的に正しいか否かではなく、その言説がもたらす“効果”だからです。

「日本は天皇を戴く単一民族国家である」というのは、すなわち「日本神話」を共有する民族以外の民族の存在を否定するということです。そして、それは民族殲滅につながるレイシズムであるといえます。つまり、麻生氏の「一つの民族」発言は、民族殲滅につながるレイシズムであるから、これを許してはならないのです。

このように、麻生氏の「一つの民族」発言問題の本質は、麻生氏の発言が皇国史観にもとづく虚妄であることよりも、民族殲滅につながるレイシズムだということにあります。もっとも、そのレイシズムを支えるのが皇国史観であり、天皇制であることは、やはり看過してはならないでしょう。

天皇制廃止の目的は、あくまでも人民の解放である。

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私は天皇制廃止論者です。しかし、天皇制廃止の目的を「天皇や皇族の解放」であるとする論には与しません。

天皇制は、天皇の権威によって人民を支配するための制度なのですから、それを廃止する目的は、あくまでも天皇制によって抑圧・支配されている人民の解放です。天皇制の廃止によって天皇や皇族が天皇制から“解放”されるとしても、それは人民が解放されることの反射的利益にすぎません。

たしかに、目的が「人民の解放」であろうと、「天皇や皇族の解放」の解放であろうと、結果は同じかもしれません。しかし、だからといって天皇の権威によって人民を支配するための制度であるという天皇制の本質を看過することは、知的不誠実であると言わざるを得ないでしょうし、知的不誠実であるのみならず、天皇や皇族の“人権”を心配する一方で天皇制によって踏みにじられている人民の人権を軽視ないし無視することは、まさに天皇制の本質的性格である身分差別にほかなりません。つまり、天皇制廃止の目的を「天皇や皇族の解放」であるとする論は、「天皇制の論理」にとらわれた思考の産物だといえます。

そして、人民の解放を目的としない天皇制廃止運動によって天皇制が廃止されたとしても、日本の真の民主化を実現することは決してできないでしょう。天皇や皇族の解放がもたらす“恩恵”として与えられる「民主化」など、アメリカから“恩恵”として与えられる「民主化」と同様、まがいものにすぎません。われわれ日本の人民は、自らの解放を志向してこそ、反民主主義的な支配制度である天皇制による支配からの脱却という、日本の真の民主化を勝ち取ることができるのです。

「ヘイトスピーチを法で規制する」ことと「特定の国や民族に対する誤った認識を正す」ことは、決して相容れないものではない。

在日外国人との交流施設に “脅迫”年賀はがき 川崎 | NHKニュース

 

ヘイトスピーチの法規制に関して、「ヘイトスピーチを法で規制するより、特定の国や民族に対する誤った認識を正すほうがよい」という言説があります。おそらく、この言説に賛同する「リベラル派」も決して少なくないでしょう。

たしかに、ヘイトスピーチを根絶するためには、特定の国や民族に対する誤った認識を正すことが必要不可欠です。しかし、そうだとしても、日本社会におけるマジョリティである日本国民が特定の国や民族に対する誤った認識を改めるまで、日本社会のマイノリティはヘイトスピーチという卑劣な人権侵害によって実存を脅かされ、尊厳を踏みにじられ続けなければならないのでしょうか。いったい、いつになったら日本国民は特定の国や民族に対する誤った認識を改めてヘイトスピーチをやめるのでしょうか。

ヘイトスピーチを法で規制する」ことと「特定の国や民族に対する誤った認識を正す」ことは、決して相容れないものではありません。先に述べたように、ヘイトスピーチを根絶するためには、特定の国や民族に対する誤った認識を正すことが必要不可欠ですし、また、自由主義の観点からすれば、法規制はできる限りしないに越したことはありません。しかし、自由主義の根底にある「個人の尊厳」という基本原理に鑑みれば、日本国民の特定の国や民族に対する誤った認識が改められず、ヘイトスピーチによってマイノリティの個人の尊厳が踏みにじられ続けるのであれば、ヘイトスピーチを法で規制することもやむを得ないのです。ヘイトスピーチによってマイノリティの個人の尊厳が踏みにじられ続けているにもかかわらず、ヘイトスピーチを漫然と放置することは、自由主義の趣旨に適うどころか、むしろ「個人の尊厳」の確保という自由主義の趣旨に悖るものだといえます。

日本社会においてヘイトスピーチがいつまでたっても根絶されないのは、根本的には日本国民の特定の国や民族に対する誤った認識がいつまでたっても改められないからですが、ヘイトスピーチが卑劣な人権侵害であることの認識が希薄であるというのもあると思います。ヘイトスピーチ憲法で自由が保障される表現などではなく、卑劣な人権侵害でしかありません*1。このことをマジョリティがしっかりと認識するためにも、ヘイトスピーチが「犯罪」であることを法で明確に宣言する必要があります。

ヘイトスピーチを法で規制するより、特定の国や民族に対する誤った認識を正すほうがよい」と言う日本国民のうち、はたしてどれだけの人が特定の国や民族に対する誤った認識を正すために努力しているでしょうか。もちろん、特定の国や民族に対する誤った認識を正すために努力している日本国民も皆無ではありません。しかし、それにもかかわらず、いまだヘイトスピーチが根絶されず、それどころかますますひどくなっています。それは、つまり日本国民の多くが、いまだ特定の国や民族に対する誤った認識を改めていないということです。そうした現実を考えると、ヘイトスピーチに関しては、法規制の是非よりも、いつになったらマジョリティは特定の国や民族に対する誤った認識を改めるのか、マジョリティが認識を改めるまでマジョリティはヘイトスピーチという卑劣な人権侵害によって実存を脅かされ、尊厳を踏みにじられ続けなければならないのか、を問うべきでしょう。それを問えば、法規制の是非についての答えも自ずと出るはずです。