葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

表現の自由は、「ヘイトスピーチの自由」を守るためのものではない。

「イオ信組放火事件」*1や「朝鮮総連銃撃事件」*2などからもわかるように、ヘイトクライムが「いま、ここにある危険」となった現在も、まだ「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言ってはばからない人が少なくありません。

たしかに、「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」というのは、一見「表現の自由」の保障に重きを置くものであるように思えるかもしれません。しかし、はたして本当にそうでしょうか。

そもそも、なぜ日本国憲法は、「表現の自由」を人権として保障したのでしょうか。思うにそれは、表現の自由自己実現の価値(個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値)と自己統治の価値(言論活動によって個人が政治的意思決定に関与するという,民主政に資する社会的な価値)を有するからであり、これらの価値を守ることで、究極的には「個人の尊厳」を確保せんとする趣旨です。そうだとすれば、個人の尊厳を踏みにじるヘイトスピーチは、日本国憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨に悖るものであり、そのようなものが「表現の自由」として保障されるとするのは、「表現の自由」の保障に重きを置くものであるどころか、むしろ「表現の自由」の保障を軽んずるものであるといえます。

ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言ってはばからない人は、「自由」の意味を履き違えています。「自由」は、決して「傍若無人に振舞うことが許される特権」などではありません。「自由」が保障されるのは、何人も個人として尊重されるからです。あなたが「個人」として尊重されるのと同時に、他者も「個人」として尊重されるのです。それゆえ、あなたが「個人の尊厳」を踏みにじられないことを他者に求めるのであれば、あなたも他者の「個人の尊厳」を踏みにじってはならないのです。

もっとも、「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言うような人は、「ヘイトスピーチは『個人』の権利を侵害するものではない」とも言うでしょう。たしかに、その点については議論があるのはたしかです。しかし、「ヘイトスピーチは『個人』の権利を侵害するものではない」などと言う人には、ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられる人の姿が見えていません。ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられるのは、たとえば「在日コリアン」という抽象的な「記号的存在」ではありません。ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられるのは、一人ひとり、名前も、性別も、年齢も、声も、容姿も異なる、生身の人間なのです。

表現の自由を守るためには、ヘイトスピーチの自由も守らなければならない」などという詭弁は、もうやめにしましょう。「ヘイトスピーチの自由」を守るということは、「表現の自由」を守ることなどではなく、むしろ「表現の自由」を殺し、「人間」を殺すことなのです。あなたが本当に「表現の自由」を守りたいのであれば、どうかそのことを忘れないでください。