葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本維新の会の「立憲主義」理解のどこがおかしいか、いち市民として私なりに検討してみた。

衆院憲法審査会 立憲主義憲法改正の限界・違憲立法審査の在り方について

朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/articles/DA3S12674657.html

 

先般開かれた衆議院憲法審査会での「立憲主義」に関する日本維新の会の意見表明に、私は違和感を覚えざるを得ませんでした。しかしながら、もしかすると安倍政権が進めようとしている憲法改正を支持する人には、日本維新の会の意見表明は説得的に感じられたのかもしれません。

そこで、本稿では日本維新の会の「立憲主義」理解のどこがおかしいか、いち市民として私なりに検討してみることとします。

まず、日本維新の会の足立氏は「そもそも『近代立憲主義』とは、多様な価値観の共存という大目的のために、権力の分立によって権力を制限するという考え方である」と述べています。かかる言説は、一見正論のようです。しかし、「近代立憲主義」の大目的が「多様な価値観の共存」というのは正しくありません。そもそも「近代立憲主義」は、どうして「多様な価値観の共存」を確保しようとしたのでしょうか。それは、「個人の尊厳」を確保するためです。つまり、「近代立憲主義」の究極の目的は、「個人の尊厳」を確保することにあります。フランス人権宣言や国際連合憲章、世界人権宣言、ドイツ連邦共和国基本法、そして日本国憲法が人間の尊厳(個人の尊厳)を基本原理としているのも、その表れです。

そうだとすれば、現行憲法の「平和主義」は「個人の尊厳」を確保するためのものであることからして、それは「近代立憲主義」の趣旨に合致する原理であるといえます。したがって、「近代立憲主義の大目的」に関する言説に続く「『徹底した平和主義』という現行憲法の基本理念は、いわば近代立憲主義の例外として、まさに特定の価値観を憲法に規定し、それを固定化する試みである」とする言説も、やはり正しくありません。

このように、日本維新の会の「立憲主義」理解は不正確なものであり、しかるに形式的には野党であるものの安倍政権が進めようとしている憲法改正に親和的であって実質的には与党と言っても過言ではない日本維新の会が、そのような不正確な理解に基づく主張を「数の力」をもってして押し通そうとすることこそが、むしろ「立憲主義の破壊」だと言えるのではないでしょうか。また、足立氏は誤解しているようですが、正しくない言説をも許容する(そして、最終的には「数の力」をもってして正しい言説としてしまう)ことが(民主主義における)「自由闊達な議論」の目的ではありません。日本維新の会が不正確な理解に基づく主張をするのは自由ですが、そのような正しくない言説を淘汰することこそが、まさしく「自由闊達な議論」の目的なのです。

つぎに、足立氏は「安保法制を戦争法呼ばわりし、政府与党を『立憲主義にもとる』と批判しても何も生まれない。最高裁統治行為論を採る限り、内閣の憲法解釈と国会の多数派が成立せしめた法律に対抗する術はないからである。我が党は、次になすべきこととして、機能不全を起こしている違憲審査制度の見直し、すなわち『憲法裁判所の創設』を提案したのである」と、安保法制に対する批判に対する反論と絡めて違憲審査制について述べています。しかし、残念ながら足立氏(日本維新の会)は、違憲審査制についても理解が不十分であると言わざるを得ません。かかる理解不足は、やはり「立憲主義理解」が不正確であることに起因するものであるといえるでしょう。

すなわち、「国民の代表機関」である国会で多数決によって制定される法律は、まさしく「多数派の意思の表れ」であるといえます。かかる「多数派の意思の表れ」といえども憲法に違背するならば無効であるとされるのは、多数派による少数派の人権侵害を防ぐ趣旨です。そして、その趣旨を実現するために司法裁判所に与えられた権限が、違憲審査権です。つまり、違憲審査制の趣旨は「立憲主義」の目的である「個人の尊厳を確保すること」にあります。しかるに、日本維新の会の見解のように、「安保法制」という「多数派の意思の表れ」を正当化するために違憲審査制を援用し、あたかも違憲審査制が「多数派の意思の表れ」である法律に正当性を与える権限であるかのように解するのは、違憲審査制の趣旨についての理解不足による不正確なものであると言わざるを得ないでしょう。また、足立氏が安保法制を正当化するために現行の違憲審査制を“攻撃”するべく援用している「統治行為論」は、民主主義の観点から国民に対して政治的責任を負う政府、国会といった政治部門の判断を尊重するものとする理論であって、むしろ安保法制にとって有利なものだといえます。そうだとすれば、足立氏が安保法制を正当化するために現行の違憲審査制を“攻撃”するべく「統治行為論」を援用することは不適切であり、はたして足立氏が「統治行為論」について十分に理解しているかどうか、甚だ疑問です。

以上のように、衆議院憲法審査会での「立憲主義」に関する日本維新の会の意見は、「立憲主義」の不十分な理解に基づく誤謬に満ちたものであるといえます。このような意見が公党によって臆面もなく表明されるような状況では、まともな「改憲論議」など到底期待できないでしょう。

 

参考資料

第192回国会 衆議院憲法審査会 第3回 会議日誌

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/192-11-24.htm