葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

子供たちに「負債」を負わせないために

北朝鮮独自制裁:再入国禁止対象を拡大…自民案基に検討 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/articles/20160113/k00/00m/010/146000c

 

「戦後70年談話」で安倍首相は、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」と述べました。

日本政府の戦争責任を、第二次世界大戦には「何ら関わりのない」子孫には負わせまいという、その心意気は立派だと思います。ですが、それならば同様に、DPRK政府のしでかした事による不利益を、DPRK政府のしでかした事には「何ら関わりのない」朝鮮学校の生徒たちに負わせるべきではありません。

このような私の言説を、「愛国者」諸姉諸兄は「『北朝鮮』が現在進行形でやらかしている事と、日本の<過去>の事を並べて論じるのはおかしい」と批判します。たしかに「愛国者」諸姉諸兄の批判は、一見すると至極正論であるようにも思えます。しかし、もし「子孫が日本政府の戦争責任を負わない」ということが妥当性を持つとすれば、それは「戦争が過去の事だから」なのでしょうか。もしそうだとすると、国家の体制が変われば後の国家は前の国家がしでかした事の責任を負わなくてもよさそうですが、そんな馬鹿げた話はないでしょう。たとえ「過去の事」であっても、それに何らかの関係があれば、責任を逃れることはできないはずです。

思うに、「子孫が日本政府の戦争責任を負わない」ということが妥当性を持つとすれば、それは「戦争が過去の事だから」なのではなく、安倍首相の言説にもあるように、子孫が「戦争には何ら関わりがない」からなのです。つまり、この話の本質は、「過去の事か現在の事か」ではなく、「関わりがあるかないか」であるということです。もっとも、「愛国者」諸姉諸兄は「朝鮮学校の生徒は『北朝鮮』と無関係ではない」というかもしれませんが、それを言ってしまうと「子孫」は日本国民である限り日本政府の戦争責任とは無関係でなくなることになり、安倍首相の言説は妥当性を持ちえないことになるでしょう。

何はともあれ、形式的な揚げ足取りはご勘弁願いたいものです。

ところで、「戦後70年談話」の後で日本政府は、はたして子孫に「負債」を負わせないために、しっかりと日本政府の責任で「負債」を弁済した(している)といえるでしょうか。この点、先日の自民党議員の従軍慰安婦問題に関する発言や、過去の侵略戦争や植民地支配を美化したり正当化したりする公人の言説が絶えないことに鑑みると、残念ながら未だ日本政府の責任で「負債」を弁済した(している)とは言えないでしょう。

思うに、子孫に「負債」を負わせないために日本政府が果たすべきことは一つではないでしょうが、総体的にいえば、なによりも過去の侵略戦争や植民地支配を美化したり正当化する思想である「日本帝国主義」と決別することが必要でしょう。たしかに、憲法は「大日本帝国憲法」から「日本国憲法」に変わりましたが、昨今の「状況」に鑑みると、残念ながら「『日本帝国主義』と決別した」と胸を張って言うことはできないと思います。

そしてまた、「主権者」として日本政府のすることと決して無関係ではない私たちも、「日本帝国主義」と決別し、侵略戦争や植民地支配といった過ちを二度と繰り返さないことを世界の人々に対して誓い続けることが必要だといえるでしょう。こんなことを言えば、「愛国者」諸姉諸兄は「それでは子孫に負債を負わせるのと変わりないじゃないか」と私を批判するかもしれません。しかし、私は「『日本帝国主義』と決別し、侵略戦争や植民地支配といった過ちを二度と繰り返さないことを世界の人々に対して誓い続けること」が負債だとは思いません。むしろそれは、私たちにとって誇るべき「財産」だといえるのではないでしょうか。