葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

人の蠅を追う前に、自分の頭の蠅を追え。

よく「日本人は政治や社会の問題に無関心だ」と言われますが、一方で、「よその国」の社会問題を憂い、心を痛め、「連帯」の意を表する「良心的日本人」も決して少なくありません。

もちろん、「よその国」の社会問題を憂い、心を痛め、「連帯」の意を表することは、無関心でいるより、よほどいいことだと思います。しかし、残念なことに「良心的日本人」の中には、人の蝿を追うことには熱心なのに、自分の頭の蝿にはまるで無頓着な人が少なからずいるように感じます。

“ あそこのことをみんなが大きな声でしゃべるのは遠いよその国だからなのよ。政治問題は遠い国のことほど単純に、壮烈にしゃべりたくなるものなのよ。自分の国のことになると一ミリの振動でもびくびくしてたちまち口ごもってしまうくせに、そうなのよ。つまり、きれいに苦悩できるのよ。(開高健『夏の闇』)”

結局のところ、やはり日本人にとって「よその国」の社会問題は、気軽に「良心」を満たすことができる手軽な「コンテンツ」でしかないのでしょうか。

「連帯」という言葉を口にする「良心的日本人」は、もしかすると「恵まれた者」が「弱者」に共感し、救いの手を差し伸べ、寄り添うことが「連帯」だと思っているかもしれません。たとえば、民主化闘争における「連帯」で、“先進民主主義国家”の「恵まれた者」が、“遅れた専制国家”の「弱者」に共感し、救いの手を差し伸べ、寄り添うというように。しかし、それは傲慢な勘違いです。思うに、人間の尊厳を求めて闘う者同士が、それぞれの闘いの勝利のために、それぞれの闘いの成果と課題を共有する、それこそが「連帯」です。つまり、自らも「闘う者」として、なによりもまず自分の頭の蝿を追うことが「連帯」の資格なのです。

 

新型コロナ禍をめぐる安倍政権の失策は、あくまでも「政治の問題」である。

新型コロナウイルス禍をめぐる安倍政権の失策に対する批判を「新型コロナウイルス禍の政治利用」であるとし、「倒閣のために新型コロナウイルス禍を政治利用するのはやめろ」という声がしばしば聞かれます。

おそらく、新型コロナウイルス禍をめぐる安倍政権の失策に対する批判を「新型コロナウイルス禍の悪しき政治利用」だと考える人は少なくないでしょう。しかし、そういう人は、何か大きな勘違いをしています。新型コロナウイルス禍をめぐる安倍政権の失策は、政治の問題にほかならないのですから、これを批判することは「政治利用」などではないのです。

新型コロナウイルス禍をめぐる安倍政権の失策に対する批判を「新型コロナウイルス禍の悪しき政治利用」だと考える人は、もしかすると「新型コロナウイルス問題は専門性の高い問題なのだから、素人は政府のやることに口を出すな」と言いたいのかもしれません。たしかに、防疫対策そのものに関しては、医学的な専門知識が求められるでしょう。しかし、安倍政権の失策は、私たちの生命や自由にかかわることであり、私たちの生命や自由について最もよく知っているのは、ほかでもない私たち自身です。それゆえ、医学的な専門知識があろうとなかろうと(もっとも、私たちが「専門知識」について全く無知であってよいということはありません。そこで問題となるのが、政府や資本家、そしてそれらのお抱え専門家が「専門知」を独占し、私たちが「専門知」に自由にアクセスすることを妨げているという点です。)、私たちは政府のやることに口を出すべきなのです。私たちの生命や自由にかかわることは、私たち自身が決める。それこそが、民主主義の基本です。

「政治利用」ということを言うのであれば、むしろ安倍政権こそ、新型コロナウイルス禍をファシズム体制の構築に利用しています。真に批判されるべきは、そのような政権による「新型コロナウイルス禍の悪しき政治利用」です。しかるに、政権による「新型コロナウイルス禍の悪しき政治利用」を不問に付し、政権の失策に対する批判を「新型コロナウイルス禍の悪しき政治利用」だと攻撃するのは、つまるところ政権擁護のための詭弁であるとしか言いようがありません。

「こんな時」だからこそ、「ファシズムの罠」にご用心。

新型コロナウイルスの感染拡大について、安倍政権の失策を批判する声は決して少なくありません。しかし、それ以上に多いのが「こんな時に政権批判をするな」という声です。

たしかに、新型コロナウイルスの脅威は「いま、ここにある危機」です。しかし、それゆえに政権批判を控えろというのは、まさに「ファシズムの論理」であり、これもまた「いま、ここにある危機」です。つまり、「こんな時」だから政権批判を控えるのではなく、むしろ権力者が人々の脅威に対する恐怖心を利用して自由な個人を一つに束ね、個人の自由を剥奪しようとする「こんな時」だからこそ、政権批判を怠ってはならないのです。

ただ、そうはいっても安倍政権の失策を批判するあまり、政体が異なる国の強権的な措置を称賛し、そのような強権的な措置を安倍政権がとらないことをなじるのは悪手でしかありません(もっとも、日本の「民主主義」体制も所詮は形だけでしかありませんが、しかし、だからこそ今の日本で政府に強権的な措置を求めることは危険なのです。)。つまり、強権的な措置を安倍政権がとらないことをなじるのは、安倍政権にとって痛手になるどころか、むしろ「思う壺」であり、国民は自ら進んで「ファシズムの罠」にはまりにいくようなものです。

どうやら、「たとえ強権的な措置であっても、防疫の必要があればこれを許容すべきだ」と考えるリベラル派も、少なからずいるようです。もちろん、私も「防疫の必要性」そのものを否定はしません。しかし、防疫の必要があるというだけで、権利・自由に対するいかなる規制措置も許容すべきだと考えるのは間違いです。人権保障の観点から、規制措置は社会公共に対する障害の大きさに比例したもので、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなければなりません。新型コロナウイルス感染症はもちろん恐ろしいですが、しかし「防疫に必要であれば、自由は制限されるべきだ」というのが「当たり前」の感覚になってしまうのも、正直恐ろしいです。

先にも述べましたが、「こんな時」だからこそ、政権批判を怠ってはなりません。しかし、それと同時に、「こんな時」だからこそ「ファシズムの罠」には十分に用心しなければなりません。私たち安倍政権の批判者は、くれぐれも「ミイラ取りがミイラになる」ことのないように……。

日本政府は、過度で不合理な入国制限をただちに撤回せよ。

中韓からの入国制限発動 2週間待機要請、邦人も―新型コロナ:時事ドットコム

 

日本政府による中国・韓国からの入国者に対する入国制限について、これを「新型コロナウイルス感染症対策として必要なのだから、当然の措置だ」と言う人は少なくありません。

もちろん、私も新型コロナウイルス感染症対策の必要性そのものを否定するつもりはありません。しかし、入国制限は人身の自由に影響を及ぼすものである以上、必要性があれば国家が何をしてもよいというものではなく、防疫目的を実現するために必要な最小限度の制限にとどめるべきです。これを今般の措置についてみると、政府の専門家会議のメンバーからも「検疫を強化する時期は過ぎている。それよりも国内の感染状況の把握や対策が重要なステージだ」と疑問視する声が出ていることに鑑みれば*1、当該措置は防疫目的を実現するために必要な最小限度の制限とはいえないでしょう。

そもそも、今般の措置が本当に「防疫目的」であるかどうかも疑問です。当該措置が決まった経緯に鑑みると*2、これはやはりやはり安倍政権が自らの失策に対する批判の矛先をそらすための政治的パフォーマンスであると言わざるを得ないでしょう。この政治的パフォーマンスは、自らの失策に対する批判の矛先をそらすものであるのみならず、国民の排外意識をくすぐるものである点で、実に悪辣です。もっとも、このような愚かな政治パフォーマンスに排外意識をくすぐられて中国や韓国に対する差別感情をあらわにする国民も国民ですが。

日本国民の中には、安倍政権の愚挙に対して韓国政府が「対抗措置」をとった*3ことを非難する人も少なからず見受けられます。たしかに、私も日本人へのビザ免除措置が停止されたことはとても残念に思います。しかし、韓国政府の「対抗措置」は、そもそも安倍政権の愚挙がなければとられなかったものです。つまり、根本的な責任は安倍政権にあるのであり、これを棚に上げて日本国民が韓国政府の「対抗措置」を非難するのは無責任だといえます。

安倍首相にお願いです。己の権力欲のために人の生活や人生を踏みにじるのは、どうかやめてください*4*5。私は、日本国民として(「国民」概念の暴力性を認識しつつも、本稿ではあえてこう言います)、日本政府が中国・韓国からの入国者に対する過度で不合理な入国制限をただちに撤回することを、日本政府に対して求めます。

徴用工問題は「植民地問題」である。

徴用工問題(日帝強制動員問題)において、被害者への賠償を命じる韓国大法院判決の加害企業による誠実な履行を妨げる日本政府の対する批判の中には、「単なる企業による酷使や搾取の問題なのに、なぜ日本政府が介入するのか」という意見が少なからず見受けられます。

たしかに、徴用工問題は日帝植民地支配下で起きた日本企業による人権侵害問題であって、「日韓の政治対立」の問題ではありません。しかし、「日本企業による人権侵害問題」だからといって、それは「単なる企業による酷使や搾取の問題」でもありません。

日本企業が朝鮮人労働者に対して奴隷的な労働を強いることができたのは、まさに日帝の植民地支配があったからこそです。つまり、日帝の植民地支配は、徴用工問題の本質的な特殊性だということです。この点に鑑みれば、徴用工問題を「単なる企業による酷使や搾取の問題」だと言うことはできません。

このように、徴用工問題が「単なる企業による酷使や搾取の問題」ではなく「植民地問題」である以上、究極的に問われるべきなのは、日帝植民地支配の不法性、そして植民地支配責任という「負の遺産」を引き継いだ日本政府の法的責任です。韓国大法院判決は、日帝植民地支配が不法であることを前提としています*1。それゆえ、日本政府は加害企業による当該判決の履行を許せば、日帝植民地支配が不法であることを事実上認めることになり、ひいては日帝の植民地支配について日本政府の法的責任を認めることになります。だからこそ、日本政府は、加害企業が当該判決を誠実に履行するのを必死に妨げるのです。

日帝強制動員の被害者が経済的に救済されることは、もちろん大事です。しかし、前述のとおり徴用工問題が「単なる企業による酷使や搾取の問題」ではなく「植民地問題」である以上、経済的な救済のみでは、決して「最終的かつ不可逆的に解決され*2」ることはないでしょう*3日帝強制動員問題(徴用工問題)や日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)といった日帝植民地支配下における人権侵害問題が「最終的かつ不可逆的に解決され」るためには、日本政府が日帝植民地支配の不法性を認め、自らの法的責任を認めることがぜひとも必要なのです。

何でもかんでもアメリカのせいにすることなかれ。

ネット右翼”のみならず“反米リベラル派”の中にも、「日本と韓国の対立は、アメリカが日韓を『分断統治』するために仕掛けたものである」と言う人がいます。

私自身、アメリカ帝国主義には批判的な立場です。しかし、そんな私でも、「アメリカによる日韓『分断統治』論」には決して賛同しません。

アメリカによる日韓『分断統治』論」者は、米日韓三角軍事同盟と、それを支える「日韓65年体制」という、戦後の米日韓関係をまるで理解していません。アメリカは、アジア覇権確立のために、日本と韓国を反目させるどころか、むしろ友好協力関係を結ばせました*1。そして、その友好協力関係を維持するべく、日本は韓国の軍事独裁政権を経済的に支え、一方で韓国の軍事独裁政権は日韓対立の火種となる歴史問題の噴出を強権的に抑えつけたのです(もっとも、のちに韓国の民主化によって、歴史問題の噴出を抑えつけていた「日韓65年体制」に綻びが生じます。)。「分断」と言うなら、むしろ「日韓65年体制」こそ韓国社会を、そしてコリア半島を「分断」しているといえます。

アメリカによる日韓『分断統治』論」者は、戦後の米日韓関係について無理解であるのみならず、日帝の植民地支配という歴史問題について無責任であるともいえます。今もなおくすぶり続ける歴史問題という日韓対立の火種は、右翼が言うような「韓国によるによる蒸し返し」によるものなどではないのはもちろん、アメリカが日韓を「分割統治」するために仕掛けたものでもありません。歴史問題という日韓対立の火種が今もなおくすぶり続けるのは、ほかでもなく日帝の植民地支配について責任を負う日本が「負の歴史」を清算しないからです。しかるに、それを棚に上げて「日本と韓国の対立は、アメリカが日韓を『分断統治』するために仕掛けたものである」と言うのは、責任転嫁にほかなりません。

もちろん、米日韓三角軍事同盟の維持に腐心し、歴史問題よりも「東アジア安保」を優先させようとするアメリカに全く責任がないとは言いません。しかし、日韓対立の火種となっている歴史問題の解決についての第一義的な責任は、あくまでも日本にあるのです。この点を看過し、「アメリカによる日韓『分断統治』論」を唱える“反米リベラル派”は、“ネット右翼”の無知と無責任を批判できる立場ではありません。

政権を批判することに、「日本」が好きかどうかは関係ない。

「安倍政権を批判するなんて、リベラル派はそんなに『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」と言う“ネット右翼”に対して、「『日本』が好きだからこそ、安倍政権を批判するのだ」と反論する“リベラル派”が少なくありません。

おそらく、そのように反論する“リベラル派”は「愛する『日本』を良くしたいから」だと言いたいのでしょう。しかし、私が思うに、それは間違った議論の土俵に乗るものであって、妥当ではありません。なぜなら、政権を批判することに、「日本」が好きかどうかは関係ないからです。

もちろん、「日本」を好きだと思うのは個人の自由です。しかし、自分の生活する社会を良くするために、「日本」という“共同の幻想”が好きである必要はありません。なぜなら、私たちの社会生活は、本来的に「『日本』が好き」という個人的な感情とは関係なく営まれるものなのですから(「日本」が好きでなければ社会生活を営みことができない、というのは迷妄にすぎません。)。つまり、自分の生活する社会を良くするために政権を批判することは、「日本」が好きかどうかとは関係なく行われるべきものだということです。

それとも、自分の生活する社会を良くするためには、「日本」を好きであることが必要だというのでしょうか。しかし、(「『日本』が好きだからこそ、安倍政権を批判するのだ」と言う“リベラル派”が「私こそが真の愛国者だ」としばしば口にすることからも分かるように)「日本」の概念が〈国家〉と深く結びついたものであり、そのうえ、その〈国家〉が権威主義的な〈天皇〉を擁するものであるという現状では、「自分の生活する社会を良くするためには『日本』が好きでなければならない」とすることは、ファシズムにつながりかねない危ういものだといえます。また、「……『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」に対して「『日本』が好きだからこそ……」と返すのは、その根底に「日本が嫌い=悪」だという発想があるのでしょう。しかし、そのような発想は、それこそ「『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」という排外主義につながりかねないものです。

政権を批判するのは、〈治者〉であり〈被治者〉である自分の生活する社会を良くするためです。そうであれば、“リベラル派”は“ネット右翼”が用意した土俵に乗ることなどせず、ただ「〈治者〉であり〈被治者〉である自分の生活する社会を良くしたいから、安倍政権を批判するのだ」と言えばいいだけです。それとも、あえて“ネット右翼”が用意した土俵に乗り、そして「我こそが、真の愛国者なり!」と声高らかに叫びたいのでしょうか。その同じ口で、「ファシストを通すな!」と謳いながら。