葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

HINOMARU

日本の国旗である「日章旗」に関して、「レイシストが日の丸を差別の象徴にしてしまった」という言説をよく見聞きすることがあります。

たしかに、レイシストがヘイトデモで嬉々として「日の丸」を掲げているのは事実です。しかし、だからといって「レイシストが日の丸を差別の象徴にしてしまった」と言うのは、ある種の「歴史修正主義」ではないでしょうか。つまり、レイシストがヘイトデモで掲げるから「日の丸」が差別の象徴になってしまうのではなく、「日の丸」が元来「そういうもの」だからこそ、レイシストは「日の丸」を「そういうもの」としてヘイトデモで掲げるのである、ということです。

「日の丸」が民族差別の上に成り立つの天皇ファシズム日本帝国主義の象徴であることは歴史的事実です。昨今の「日の丸」に関する議論では、よく「自国の国旗を敬愛して何が悪いのか」ということが言われますが、自国の国旗を自発的に敬愛することが問題なのではありません。敬愛の対象である国旗が「日の丸」であることが問題なのです。「日本国民」は、戦後「日本」が民主化したというのなら、どうして「日本国民」は自らの手で天皇ファシズム日本帝国主義の象徴である「日の丸」を焼き払わなかったのでしょうか。

これと同じことは、「旭日旗」についても言えます。「旭日旗」が海上自衛隊旗として認められているから問題がないのではありません。海上自衛隊旗として「旭日旗」を使用していることが問題なのです。「日本は過去の侵略戦争を反省している。海上自衛隊旧日本海軍とは違う」というのなら、どうして「旭日旗」を海上自衛隊旗としたのでしょうか。

敗戦後、たしかに「日本」の憲法は非民主的な「大日本帝国憲法」から民主的な「日本国憲法」へと変わりました。しかし、それによって果たして「日本」は本当に民主化したといえるでしょうか。

「日本」が真の民主化を果たしたと言い得るためには、やはり「日本国民」が自らの手で天皇ファシズム日本帝国主義の象徴である「日の丸」を焼き払う必要があるでしょう。「日本国民」が「自国の国旗を敬愛することの是非」について論じるのはそれからです。

 

 

日本という国は「HINOMARU」を拝まなければ愛せないものなのだろうか。

RADWIMPSの新曲、軍歌のよう?歌詞めぐり議論に
朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASL6D42L6L6DUCVL006.html

 

作詞者である野田洋次郎氏は、ライブで「HINOMARU」を披露した後、「自分の生まれた国を好きで何が悪い!」と叫んだそうです。

思うに、別に自分の生まれた国を好きなのは構いません。しかし、はたして「自分の生まれた国」というものは、天皇や日の丸を崇拝し、あるいは天皇や日の丸を崇拝しない人を排除しなければ愛せないものなのでしょうか。残念ながら、どうやら「日本」という「国民国家」では、天皇や日の丸を崇拝しなければ「国」を愛しているとは認めてもらえないようです。そうだとすると、天皇や日の丸を崇拝しなければ愛することのできない「国」とは、いったい何なのでしょうか。そのような「国」を愛することに、いったいどのような意味があるのでしょうか。

天皇や日の丸を崇拝しなくても、さらに言えば、天皇や日の丸を崇拝することを拒否しても、「日本」と呼ばれる、自分の生まれたこの列島に愛着(誤解のないようにお断りしておきますが、私がここで言う「(「日本」と呼ばれる、自分の生まれたこの列島への)愛着」とは、「郷土の伝統や文化を愛する心情」といったものではありません。)を持つ人はいます。野田氏や「HINOMARU」を支持する彼のファンには、自分の生まれたこの列島にはそのような人もいることを、ぜひ知っていただきたいと思います。そして、「HINOMARU」の歌詞の意味を、今一度よく考えてもらいたいと思います。

なお、私は野田氏や「HINOMARU」を支持する彼のファン、あるいは「ネット右翼」の「愛国」が、偽りのものであるか否かを議論するつもりはありません。なぜなら、「日本」という「国」が今の「日本」という「国」のままであるかぎり、誰が愛したとしても同じだからです。正直なところ、私は「愛国者」のヘゲモニー争いに、いささか辟易しています。

ヘイトスピーチ問題は、「好き嫌い」の問題ではない。

ヘイトスピーチ問題に関して、たとえば「醜悪なマイノリティを嫌いだと言うことさえも許されないのか」と言う人がいたとします。他方、「たとえ醜悪なマイノリティのことが嫌いであっても、マジョリティは醜悪なマイノリティに対して寛容であるべきだ」と言う人がいたとします。もしかすると、前者に反感を覚えるものの、後者には共感を覚える人もいるかもしれません。しかしながら、そもそもどちらの言説も間違っています。なぜなら、ヘイトスピーチ問題は、「好き嫌い」の問題ではないからです。

もし、あなたが「マイノリティは嫌われているからヘイトスピーチを浴びせられる」のだと思っているのならば、どうかその認識を改めてください。マイノリティは、嫌われているからヘイトスピーチを浴びせられるのではありません。マイノリティは、差別されているからヘイトスピーチを浴びせられるのです。

ヘイトスピーチは、「好き嫌い」という個人的な感情や趣味の問題ではありません。ヘイトスピーチは、この社会において客観的に存在する構造的な差別の問題です。もし、ヘイトスピーチが「好き嫌い」の問題だとすれば、つまるところ「個人の勝手」であって仕方がない、ということになるかもしれませんが、そうではなく、この社会において客観的に存在する構造的な差別の問題なのですから、「個人の勝手」であって仕方がない、では済まないのです。

ヘイトスピーチ問題で問われているのは、「醜悪なマイノリティを嫌いだと言うことの許否」ではありません。マイノリティを「醜悪なもの」と見る、マジョリティの「差別的なまなざし」が問われているのです。そうであれば、「マジョリティは醜悪なマイノリティに対して寛容であるべきだ」というのも、マジョリティは寛容云々以前に、マイノリティを「醜悪なもの」と見る「差別的なまなざし」を捨てるべきです。

繰り返し言いますが、ヘイトスピーチ問題は「好き嫌い」の問題ではありません。どうかヘイトスピーチ問題を「好き嫌い」の問題に矮小化するのはやめてください。

 

 

「民族差別は善である」という価値観の転倒について

職場や学校、あるいは家庭で、まるで天気の話でもするかのように「普通の日本人」が他民族を蔑視ないしは差別する言葉を発するのを耳にしたことがあるのは、おそらく私だけではないでしょう。

残念ながら、日本社会では「民族差別は悪である」という価値観が共有されず、むしろ「民族差別は善である」という価値観が共有されているように思えてなりません。思うに、それは「日本」という国民国家が民族差別を存立の拠り所としてきたというのもあるでしょうが、「国民」の価値観の形成に寄与するマスメディアの態度も大きな要因であるといえるでしょう。すなわち、マスメディアは、「国民」に対して「民族差別は悪である」というメッセージを明確に発しないどころか、むしろ無頓着に、あるいは巧妙に民族差別を煽動しています(私の知る限りでは、「民族差別は悪である」というメッセージを明確に発し続けているのは神奈川新聞だけです。)。もっとも、いわゆる大手リベラルメディアも、ときどき思い出したように「ヘイトスピーチ、許さない」と訴えてはいます。しかし、同じ口で(しかも上品な語り口で)民族差別を煽るといった体たらくです。

とまれ、もし本当に日本社会が「人権」という人類の普遍的価値を共有する社会であるならば、「民族差別は善である」という転倒した価値観と決別し「民族差別は悪である」という価値観を回復するためにも、マスメディアには広く「国民」に対して「民族差別は悪である」というメッセージを明確に発し続けてもらいたいと思います。もちろん、私たち一人ひとりが「民族差別は悪である」という価値観を共有し、「民族差別は悪である」と訴え続ける必要があることは、言うまでもありません。

それは、あなたが「国民」だからです。

あなたの「(日本)国民の常識感覚」からすれば何の問題もない言動が、「他者」から差別的であると批判されたとします。もしかすると、あなたは「国民の常識感覚からすれば何もおかしいことはなく、差別などではない(すなわち、国民の常識感覚からすれば差別だなどというのがおかしい)」と反論するかもしれません。

たしかに、「国民の常識感覚」からすれば何の問題もないのでしょうし、おそらく「国民」の多数もあなたと同じように考えるでしょう。しかし、だからといってそれが「真理」だなどと誤解してはなりません。つまり、あなたが「国民の常識感覚」を「正しい」と思うのは、あなたが「特権者」である「国民」だからです。「他者」を踏みつけている「特権者」だからこそ、「国民の常識感覚」からすれば何の問題もないなどと平気な顔で言えるのです。

もっとも、かく言う私も「特権者」である「国民」です。しかし、そんな私でも「他者」への想像力を働かせることはできます。しかるに、「他者」への想像力を働かせることを怠り、「国民の常識感覚からすれば何もおかしいことはなく、差別などではない」と言い放つのは、「国民の傲慢」と言わざるを得ないでしょう。

「ヘイトスピーチ」と「オタク」について

巷で繰り広げられている「ヘイトスピーチ」と「オタク」の関係についての議論は、どうも私にはいささか「雑な議論」に思えます。

たしかに、オタク趣味者が民族差別的な言動をとったからといって、それを直ちに「オタクの問題」とするのは間違いでしょう。

しかし、オタク趣味者が「アニメや漫画の表現の自由を守るためには、ヘイトスピーチの自由も守らなければならない」と主張し、ヘイトスピーチを許容する態度をとることは、紛れもなく「オタクの問題」です。しかるに、それさえも「オタクの問題」と捉えないのであれば、それはあまりにも「無責任」だといえます。思うに、オタク趣味のためにヘイトスピーチを許容するオタク趣味者の態度を「オタクの問題」として批判することは、決して「オタクに対する偏見」によるものなどではありません。なぜなら、むしろオタク趣味者こそ、オタク趣味の自由を守るためにも、(オタク趣味のために)ヘイトスピーチを許容するオタク趣味者の態度を「自己批判」すべきだからです。

もっとも、「オタク」をコミュニティとして捉え、そのコミュニティが総体的に民族差別に対して寛容であるならば、それを「オタクの問題」として論じることは間違いではないと思います。例えば、「オタク」が被差別グループだというのなら(なお、私は「オタク差別」の存在には懐疑的です。しかし、客観的な問題としての「オタク差別」はなくても、主観的な問題としての「オタク蔑視」はあると思います。)、なぜ差別の愚劣さを知りながら民族差別的な言動をとるのか、というように。つまり、もし「オタク」という属性が被差別的属性であるなら、「オタク」だからこそ差別に対して厳然とした態度をとるべきでしょうが、そのように「オタク」という属性を問題とする点で、「オタクの問題」だということです。また、「オタク的コンテンツ」が内包する性差別的要素を「オタクの問題」として論じるのも間違いではありませんが、その点の議論については本稿では割愛いたします。

他方、「日本国民の差別性」を「オタクの差別性」に矮小化するのも、これもまた間違いです。もっとも、これに対して「『人間の差別性』を『日本国民』の差別性に矮小化するのも間違いだ」という人がいるかもしれませんが、それは誤解です。なぜなら、「日本国民の差別性」は生来的なものではなく、「日本」という国民国家によって作られたものなのですから。

とまれ、私は一人のオタク趣味者として、「オタク的表現」の自由を守るためにも、表現の自由の価値を傷つけるヘイトスピーチを断固として許しません。

「平和の少女像」は、「日本」が向き合わなければならない「歴史」である。

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先般、韓国を旅した私は、在韓(ソウル)日本大使館“前”の「平和の少女」像を訪問しました。

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大使館“前”とはいっても、ご覧のとおり、それは比較的広い道路を隔てた場所です。そのような場所で、静かに(しかし、力強い意志のこもったまなざしで)対峙する小さな「平和の少女」の、いったい何を日本政府は恐れているのでしょうか。ご存知のように、日本政府は「平和の少女」像を「公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害(であり、外交関係に関するウィーン条約に違反する)」だなどと攻撃しています。しかし、実際に現地を訪問してみれば、「平和の少女」像の存在が「公館の安寧を妨害」するなどというのが、いかに馬鹿げた話であるか分かるでしょう。

思うに、日本政府が恐れているのは、「平和の少女」像が象徴する「戦時性暴力」という日本の「負の歴史」と向き合うことで、日本の「虚栄心」が傷つくことです。そもそも、なぜ日本政府は、「平和の少女」像が日本大使館の威厳を侵害するなどというのでしょうか。「平和の少女」像が象徴する「戦時性暴力」という日本の「負の歴史」と向き合うことは、日本という国の威厳を高めこそすれ、低めるものではないはずです。つまり、「負の歴史」と向き合うことで損なわれるような「威厳」など、所詮は虚栄でしかないということです。

警察車両を何台も並べた厳重な警備は、おそらく日本政府が韓国の警察当局に要請したものでしょう。どうやら、日本政府は「平和の少女」のまなざしに怯えているようですが、日本政府がとらわれている恐怖は、「平和の少女」の存在によって生み出されたものではなく、他でもない日本の「虚栄心」によって生み出されたものです。また、何台も並べられた警察車両によって日本大使館から「平和の少女」の姿が見えなくなったとしても、決して「平和の少女」の存在が無くなるわけではありません。いくら日本政府が「負の歴史」を隠蔽したところで、史実が無くなるわけではないのと同じように。

残念ながら、「平和の少女」を敵視する日本国民は少なくないでしょうが、「平和の少女」は、決して「日本」が対峙すべき「敵」などではありません。本当に「日本」が対峙し克服すべき「敵」は、「日本」の内にあります。それは、戦時性暴力という「負の歴史」を隠蔽し、あるいは正当化せんとする「虚栄心」です。「平和の少女」は、日本国民の「敵」であるどころか、むしろ日本国民が一人の人間として「内なる敵」と闘い、克服するための「力強い味方」なのです。

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なお、私は微力ながら連帯の意志を表して、署名とカンパをしました。今後も、私にできることをしていきたいと思います。