葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

自民党政権がめざすのは「改憲」ではなく、「壊憲」である。

自民党政権がめざすのは『改憲』ではなく、『壊憲』である」などと言うと、おそらく自民党政権の支持者は、私が自民党政権のことが嫌いだからそのようなことを言うのだと思うでしょう。しかし、私は決して「好き嫌い」の問題としてそのようなことを言うのではありません。もし野党が自民党のものと同じような改憲草案を提示したとしても、私は同じように批判します。私がなぜ「自民党政権がめざすのは『改憲』ではなく、『壊憲』である」などと言うのか、それは次のような理由によります。

近代的な憲法は、国家権力を制限し、個人の人権を守るものです。しかるに、自民党改憲草案は、「公益」の名で呼ぶ国家の利益を守るためであれば、個人の人権を制限することもためらいません(例えば、包括的な制限規定である12条、表現の自由を制限する21条2項)*1。つまり、憲法を「国家権力」ではなく「個人」を縛るものだとする自民党改憲草案は、近代的な憲法の本質に反するものであるといえます。

もっとも、自民党政権とその支持者は、そもそも「近代的な憲法は、国家権力を制限し、個人の人権を守るものである」という考え方が間違いである、と言うかもしれません。実際、安倍首相は「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか」と述べています*2。つまり、近代的な憲法の意義を真っ向から否定するということです。しかし、それは現在もなお個人の人権が国家権力によって脅かされている(そして、それは他でもない自民党政権がしていることです)ことを不当に軽視するものであって、憲法を無意義なものとするものです。「日本という国の形、そして理想と未来を語る」ことは、何も憲法でそれをする必要はありません。どうしても語りたいのならば、法律で語ればよろしい(誤解のないように言っておきますが、もちろん私は、そのようなファシズム的な法律の制定には反対です。もっとも、そのようなファシズム的な法律は、すでに制定されてしまっていますが……)。法律ではできないことがあるからこそ、憲法が必要なのです。すなわち、現在もなお個人の人権が国家権力によって脅かされているからこそ、憲法が必要なのです。それにもかかわらず、近代的な憲法の意義を真っ向から否定するのは、まさしく憲法を破壊する「壊憲」であるといえます。

もちろん、「再構築」のためには「破壊」が必要となることがあるのは否定しません。しかし、自民党政権が行う「破壊」がもたらすのは、決して「再生」ではなく、「ニヒリズム」でしかないでしょう。そうだとすれば、一度「壊憲」されてしまうと、取り返しのつかないことになります。

「護憲」と「改憲」について非常に誤解が多いですが(もっとも、それは「護憲派」にも責任があります)、「護憲」と「改憲」は決して相容れないものでありません。「護憲」とは、字義どおり「憲法を護る」ことであって、憲法を全く変えないことではありません。「個人の人権を守る」という憲法の趣旨を護るためであれば、「改憲」も当然許されるのです。自民党政権の「改憲」が許されるべきではないのは、それが「個人の人権を守る」という憲法の趣旨を壊すものだからです。

表現の自由は、「ヘイトスピーチの自由」を守るためのものではない。

「イオ信組放火事件」*1や「朝鮮総連銃撃事件」*2などからもわかるように、ヘイトクライムが「いま、ここにある危険」となった現在も、まだ「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言ってはばからない人が少なくありません。

たしかに、「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」というのは、一見「表現の自由」の保障に重きを置くものであるように思えるかもしれません。しかし、はたして本当にそうでしょうか。

そもそも、なぜ日本国憲法は、「表現の自由」を人権として保障したのでしょうか。思うにそれは、表現の自由自己実現の価値(個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値)と自己統治の価値(言論活動によって個人が政治的意思決定に関与するという,民主政に資する社会的な価値)を有するからであり、これらの価値を守ることで、究極的には「個人の尊厳」を確保せんとする趣旨です。そうだとすれば、個人の尊厳を踏みにじるヘイトスピーチは、日本国憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨に悖るものであり、そのようなものが「表現の自由」として保障されるとするのは、「表現の自由」の保障に重きを置くものであるどころか、むしろ「表現の自由」の保障を軽んずるものであるといえます。

ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言ってはばからない人は、「自由」の意味を履き違えています。「自由」は、決して「傍若無人に振舞うことが許される特権」などではありません。「自由」が保障されるのは、何人も個人として尊重されるからです。あなたが「個人」として尊重されるのと同時に、他者も「個人」として尊重されるのです。それゆえ、あなたが「個人の尊厳」を踏みにじられないことを他者に求めるのであれば、あなたも他者の「個人の尊厳」を踏みにじってはならないのです。

もっとも、「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言うような人は、「ヘイトスピーチは『個人』の権利を侵害するものではない」とも言うでしょう。たしかに、その点については議論があるのはたしかです。しかし、「ヘイトスピーチは『個人』の権利を侵害するものではない」などと言う人には、ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられる人の姿が見えていません。ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられるのは、たとえば「在日コリアン」という抽象的な「記号的存在」ではありません。ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられるのは、一人ひとり、名前も、性別も、年齢も、声も、容姿も異なる、生身の人間なのです。

表現の自由を守るためには、ヘイトスピーチの自由も守らなければならない」などという詭弁は、もうやめにしましょう。「ヘイトスピーチの自由」を守るということは、「表現の自由」を守ることなどではなく、むしろ「表現の自由」を殺し、「人間」を殺すことなのです。あなたが本当に「表現の自由」を守りたいのであれば、どうかそのことを忘れないでください。

 

 

「日本は民主主義国家である」と信じて疑わない「日本国民」に、伝えたいこと。

おそらく、「日本国民」の多くが「日本は民主主義国家である」と信じて疑わないでしょう。たしかに、日本は政体として代表民主制を採用していますから、その限りでは「日本は民主主義国家である」と言えるかもしれません。しかし、民主主義の本質に鑑みると、私は「日本は民主主義国家である」と言い切ることに、どうしても躊躇いを覚えます。

民主主義は、「治者と被治者の自同性」すなわち治めるものと治められる者が同一であることをその本質としますが、はたして日本では、「治者と被治者の自同性」が実現されているといえるでしょうか。この点に関しては、たしかに「日本国民」に限って言えば「治者と被治者の自同性」が実現されているといえるでしょう。しかし、他方で「日本国民」と同じように日本という国で生まれ、「日本国民」と同じように日本という国で生活し、「日本国民」と全く同じ義務を負わされてるにもかかわらず、「『日本国民』ではない」というただそれだけの理由で治者の地位を奪われている被治者が存在することを、決して看過してはなりません。つまり、日本では未だ完全に「治者と被治者の自同性」が実現されてはおらず、それゆえに「日本は民主主義国家である」と言い切ることはできないのです。

私自身は、日本という国で生まれ、日本という国で生活している「日本国民」です。しかし、だからといって、私の「ルーツ」は日本だけではありません。私は、日本の他に韓国を「ルーツ」とする人間です。そのような私が「日本国民」であるのは、父親が「日本国民」だという、ただそれだけのことであって、それ以外に、私と同じように日本という国で生まれ、日本という国で生活している「韓国を『ルーツ』とする人」と異なる点はありません。それなのに、親が「日本国民ではない」という、ただそれだけの理由で治者の地位を奪われている人が、この国には存在するのです。はたしてそのような国が、真の「民主主義国家」であるといえるでしょうか。

もっとも、そうだからいって「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと言うのも問題です。なぜなら、今日までの「日本国民」は、「同化と排除の論理」に貫かれた概念であるからです。それゆえ、今日までの「日本国民」の概念を、「共生の論理」に基づき新しく構築しなおすことなしに「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと言うことはできません。つまり、「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと軽々しく言うのは、マジョリティの傲慢以外の何ものでもないということです。

“3.11”以降、「民主主義」という言葉がよく聞かれるようになりました。もちろん、それ自体は歓迎すべき変化だと思います。しかし、民主主義を唱える人々の口から発せられる「民主主義は主権者である国民が作る」という言葉を聞いてしまうと、どうしても彼らの唱える「民主主義」に疑問を禁じえません。たしかに、「民主主義国家」においては主権は国民にあるでしょう。しかし、主権が国民にあったとしても、治者ではない被治者が存在するのであれば、民主主義が完全に実現されているとはいえません。民主主義を完全に実現するには、「治者と被治者の自同性」を回復するという「縦の関係」で民主化するだけではなく、「治者」ではない「被治者」を生み出すようなシステムを変えるという「横の関係」で民主化することも必要なのです。

安倍政権倒閣の気運が高まる今、安倍政権を倒し真の民主主義を実現するためにも、いま改めて「民主主義」の意義を問い直してみませんか?

 

「ヘイトスピーチ、許さない」だけでは、「木を見て森を見ず」である。

政権与党である自民党の議員が「ヘイトスピーチ、許さない」と言ったとして、それを好意的に受け止める人は少なくないでしょう。

もちろん、私はそれを悪いことだと言うつもりはありません。しかし、私はそれを手放しで称賛することに、どうしてもためらいを感じてしまいます。

ヘイトスピーチ、許さない」と言う(政権与党である)自民党の議員は、日本による侵略や植民地支配を正当化せんする日本政府の歴史修正主義的な態度や、朝鮮学校に対する差別政策、あるいは入管当局による差別や人権侵害について、はたしてどのように考えているのでしょうか。もし、彼がそれらについて肯定的に考えているのだとすれば、彼がいくら「ヘイトスピーチ、許さない」と言ったところで、それは欺瞞でしかないでしょう。なぜなら、日本政府の歴史修正主義的な態度も、朝鮮学校に対する差別政策も、入管当局による差別や人権侵害も、どれもヘイトスピーチの「題材」を提供するものであり、あるいはヘイトスピーチに「お墨付き」を与えるものだからです。

誤解がないようにお断りしておきますが、何も私は、自民党議員による「反ヘイトスピーチ」を好意的に受け止める人を冷笑したいのではありません。私が言いたいのは、ヘイト団体やヘイトメディアによるヘイトスピーチだけを問題視して、自民党政権歴史修正主義的な態度や民族差別政策を等閑視するというのは、「木を見て森を見ず」であるということです。もちろん、ヘイト団体やヘイトメディアを批判することも大切ですが、しかし、自民党の議員が、もし本当に「ヘイトスピーチ、許さない」のであれば、なによりもまず自党の歴史修正主義的な態度や民族差別政策を批判すべきです。しかるに、それができないのならば、自民党議員の「ヘイトスピーチ、許さない」は、政権与党の歴史修正主義的な態度や民族差別政策から市民の目をそらし、あるいは差別に反対する市民の“ガス抜き”をするものでしかないでしょう。

もしかすると、リベラルの方の中には、拙稿の見解を「ヒネクレた見方」であると思う方もおられるかもしれません。あるいは、「自民党だからと全否定するのは、悪しきセクト主義だ」と批判する方もおられるでしょう。私はセクト嫌いなので「悪しきセクト主義だ」との批判は心外ですが、ただ、たしかに私はヒネクレ者ですから、拙稿の見解を「ヒネクレた見方」であるという批判は甘受しましょう。しかし、むしろ私は、本稿で述べた点を看過して自民党議員による「反ヘイトスピーチ」を手放しで称賛する声に、どうしても「危うさ」を感じてしまうのです。

人権は「人間の権利」であって、「国民の権利」ではない。

日本国憲法第11条は「『国民』は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」と規定し、また、第12条は「この憲法が『国民』に保障する自由及び権利は……」と規定していることから、日本国憲法による人権の保障が及ぶのは、あたかも「日本国民」だけであるかのように思えるかもしれません。

たしかに、「国民」という条文の文言に拘泥し、「日本国憲法の規定する人権は、日本国民にのみ保障される」とする見解や「憲法の人権規定のうち、『国民は』となっている規定は、外国人には適用されない」とする見解もないわけではありません。しかし、そもそも人権とは、「人種、性、身分等の区別に関係なく、人間であれば当然に享有できる権利」です(人権の普遍性)。しかるに、人権が「日本国民」にしか保障されないとするのは、人権の本質に悖るといえます。したがって、日本国憲法による人権の保障は、権利の性質上「日本国民」のみをその対象としていると解されるものを除き、日本国に在留する「外国人」に対しても等しく及ぶ、とするのが通説・判例*1です。つまり、日本国憲法の規定の「国民」という文言に、特段意味はないということです。

もっとも、前述のとおり「国民」という文言ゆえに「日本国憲法の規定する人権は、日本国民にのみ保障される(すなわち『外国人』には保障されない)」と解する余地がないわけではなく(ただし、そのような解釈が人権の本質に悖るものであることは前述のとおり)、そして、そのような解釈が排外主義あるいは民族差別の煽動に利用されるという問題もあります。それゆえ、やはり、日本国憲法の規定の「国民」という文言は改正されるべきであると私は思います。これこそ、まさに「個人の尊重」という日本国憲法の基本理念に適う、「憲法を護るための改憲」です。

「個人の尊重」という日本国憲法の基本理念を真に実現するには、さらに「国民」の意義そのものを問い直すことが必要です。つまり、「日本」という国を、そこで生活する一人ひとりが尊厳ある人間として生きることのできる国にするには、「同化と排除の論理」に基づいて構築された現在の「日本国民」の概念を、「共生の論理」に基づき新しく構築しなおすことが、ぜひとも必要なのです。

「表現の自由」について論じる上で、大切なこと。

ある表現に対する私人(個人)による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じる人が、しばしば見受けられます。おそらく、彼らは自分たちの愛好する表現が迫害されているように感じるゆえに、私人による批判をあたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように捉えてしまうのでしょう。

もちろん、自分たちの好きな表現が批判されて不愉快に思う気持ちは分からなくもありません。しかし、ある表現に対する私人による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じるのは、憲法学的に見ると誤った議論です。

ある表現に対する私人による批判を、あたかも国家による規制や介入と同じものであるかのように論じる人は、大事な点を見落としています。つまり、それはある表現を批判する私人も、ある表現を行う私人と同様に「表現の自由の主体」だということです。その点で、私人の批判は国家による規制や介入とは大きく異なります。立憲主義憲法は、国家権力の制限を目的とするものですから、そもそも国家は「表現の自由の主体」たりえません。しかし、人権が普遍的なものであることに鑑みれば、いかなる私人も「表現の自由の主体」たりうるのですから、ある表現を行う私人の表現の自由憲法上保障されるのであれば、その表現を批判する私人の表現の自由もまた憲法上保障されるのです。

憲法は、原則として「国家と私人(個人)の関係を規律する」ものです。もっとも、資本主義の高度化にともない、大企業やマスメディアのような大きな力を持った私的団体による人権侵害の危険が顕著となったことから、憲法を「私人と私人の関係」に適用する必要性が論じられるようになりましたが、前述したように私人が「自由の主体」であることに鑑みて、憲法は「私人と私人の関係」では民法公序良俗規定のような私法の一般条項を通じて間接的に適用されると解するのが通説・判例*1です。

この点に関連して、よく誤解されているのが、いわゆる「表現の自主規制」です。表現の萎縮効果をもたらすような規制や介入は、もちろん「表現の自由」に対する重大な脅威です。ただし、ここで誤解してはならないのは、あくまでも「加害者」は表現の萎縮効果をもたらすような規制や介入を行う国家であって、萎縮効果の影響によって自主規制を行う私人(私的団体)は「被害者」であるということです。しかるに、萎縮効果の影響によって自主規制を行う私人が「加害者」であることを前提とした議論は、「真の敵」を見誤ったものであるといえます。また、ある表現行為の主体たる私人(私的団体)が、その表現に対する私人の批判を十分に斟酌した上で、自由な意思によって表現行為を差し控えることは、表現行為の主体たる私人の「表現の自由」であり、その表現に対する私人の批判は「表現弾圧」などではありません。もちろん、その表現に対する私人の批判が、暴力や脅迫によって表現行為の主体たる私人の自由な意思決定を妨げるようなものであれば、それは表現の自由に対する不当な侵害以外のなにものでもありませんが……。

表現の自由とその規制」は憲法上の問題ですから、それを論ずるにあたっては、「憲法は国家と私人の関係を規律するものである」という原則を踏まえることが必要です。また、これは法学全般についていえることですが、「木を見て森を見ず」にならないように、常に「対立利益」を意識することが大切です。つまり、自己の正当な権利が尊重されるのであれば、他者の正当な権利もまた同様に尊重されるのだということに、思いを至らせることが大切なのです。

「日本の民主化」を実現するために

おそらくこれまでは、多くの日本国民が「日本は民主主義国家である」と信じて疑わなかったでしょう。しかし、「森友学園問題」で「日本は民主主義国家である」という確信が揺らいだのでしょうか、「日本を民主化しよう」という声が上がり始めています。

もちろん、私も「日本の民主化」を希求する一人ですから、そのような声が上がり始めたことを大変心強く思います。しかし、同時に「民主化」という言葉がどうも独り歩きしてしまっているように思えてなりません。

それでは、「民主化」とはいったい何か。これについては、「民主主義」の意義から考える必要があります。

「民主主義」とは、憲法学上「治者と被治者の自同性」であると定義されます。すなわち、「治める者と治められる者が同一である」ということです。かかる定義に鑑みれば、「民主化」とはまさに「治者と被治者の自同性」を実現することであるといえます。

そうだとすれば、「治者」と「被治者」の乖離が甚だしい今日、まずは「治者と被治者の自同性」を回復しなければなりません。安倍政権を終わらせることが必要なのも、そのためです。しかし、そのような「縦の関係」で民主化するだけでは不十分です。それというのも、日本の民主主義システムは、「治者」ではない「被治者」を生み出すような不完全なものだからです。したがって、「治者」ではない「被治者」を生み出すような民主主義システムを変えるという、「横の関係」で民主化することも必要です。しかるに残念ながら、日本では「横の関係」での民主化が軽視ないしは無視されているように思えてなりません。

安倍政権打倒の気運に水を差すなと叱られるかもしれませんが、安倍政権打倒の気運が高まる今だからこそ、私は言いたいと思います。安倍政権を倒すだけでは、決して「日本の民主化」は完成しません。もちろん、それは「日本の民主化」への大切な第一歩ですが、しかし、あくまでも「第一歩」なのです。安倍政権を倒し、さらには自民党政権を倒すことで「治者と被治者の自同性」を回復した「日本国民」が、「日本の民主化」のために是非ともしなければならないのは、「治者」ではない「被治者」を生み出す日本の民主主義システムを変えることです。そうして、日本の民主主義システムを「治者」ではない「被治者」を生み出すことのないものへと変えることができたときにはじめて、日本は「民主化」を実現したということができるのです。