あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

差別主義者も「人間」だからこそ、私は断固として非難する。

「差別主義者は人間ではない」という言説を、しばしば見聞きします。

たしかに、差別は人間の尊厳を踏みにじる「反人間的な」ものですから、「差別主義者は人間ではない」と言いたくなる気持ちもわかります。しかし、差別主義者を「人間ではない」と言い切ることには、私はためらいを覚えます。

思うに、彼は「人間ではない」から、差別主義者なのではありません。むしろ彼は「自由な人間」だからこそ、差別主義者なのです。そして、差別主義者は「自由な人間」だからこそ、自己の言動について責任をとらなければならないのです。私は、差別主義者が「自由な人間」だからこそ、差別主義者を断固として非難します。

もっとも、差別主義者が「自由な人間」だからといって、彼の差別的言動を尊重しなければならないということにはなりません。つまり、差別主義者が「自由な人間」であるということと、彼の差別的言動が人間の尊厳を踏みにじる「反人間的」なものであるということは、また別の話だということです。しかるに、それらを混同して「差別主義者も自由な人間なのだから、彼の差別的言動を尊重しなければならない」などと言うのは、差別を肯定するための詭弁にほかなりません。

さて、差別主義者が「自由な人間」であり、彼を差別主義者として作り上げたのは他でもない彼自身だとしても、彼は何もないところから自らを差別主義者として作り上げたわけではありません。「状況」があったからこそ、彼は自らを差別主義者として作り上げることができたのです。そして、その「状況」を作り出したのは、紛れもなく「権力」です。この点、差別主義者が差別主義者たる所以を「民族性」に求める言説がしばしば見受けられます。しかし、それは問題の本質的構造を見誤ったものであり、また、梶村秀樹先生が指摘するように「絶望に通じていきかねない」ものです。つまり、もし差別主義者が差別主義者たる所以が「民族性」にあるならば、その民族を否定しないかぎり差別を克服することなどできないでしょう。しかし、だからといってその民族を否定するというのは、それこそ差別にほかなりません。そもそも、そのような考えは誤りであって、差別主義者を生み出すのは「民族性」といった自然現象のようなものではなく、権力によって作られた構造的な「状況」なのです。そして、それは人(権力)によって作られたものだから、私たちはそれを壊していくことができるのです。

差別主義者も「自由な人間」です。もっとも、彼が「自由な人間」であるのは、決して「傍若無人に振舞うことを許された特別な人間」だからではなく、「個人」として尊重されるからです。そして、「個人の尊重」は普遍的な価値です。そうであるならば、(彼が)差別的言動によって他者が「個人」として尊重されることを否定するというのは、彼自身が「自由な人間」である根拠を自ら失わしめるものであるといえます。その意味では、これまで述べてきたことと矛盾してしまいますが、彼が自らを差別主義者として作り上げることは、「自由な人間」であることを自らやめてしまうということなのかもしれません。

つまるところ、差別はあらゆる意味で「人間を殺す」のです。