葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

もはや「民族差別は悪いことではない」という日本社会の風潮について

阪急バス、韓国人客の乗車券に差別表現を印字 会社は謝罪したが経緯解明できず http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/06/hankyu-bus_n_12370072.html

 

もはや「民族差別(蔑視)は悪いことではない」ということが社会の「常識」となってしまっているような「この国」では、「民族差別(蔑視)」は「国家的道徳」なのかもしれません。

そうして、少なくとも近代以降、「民族差別(蔑視)」さらに言えば「朝鮮(韓国)蔑視」は、「この国」の存立条件のひとつだということなのでしょう。

ですが、いつまでもそれを許容してしまっていて本当に良いのでしょうか。

私は、この社会で「尊厳あるひとりの人間」として生きることを希望します。それゆえ、普遍的価値としての「人間の尊厳」を確証するためにも、私は「この国」の根底にある「差別意識排除の論理」に異議を申し立てます。

もうそろそろ、「差別意識排除の論理」によって作られた「この国」を内側から解体して、再構築しませんか?そのためにも、まずはこの社会に蔓延る「民族差別(蔑視)は悪いことではない」という風潮に異議を申し立て、「空気」を壊していきましょう。

(残念ながら)当然、「民族差別(蔑視)は悪いことではない」という「空気」を壊すことに抵抗感を示す人もいることでしょう。もしかすると彼は、「この国」の存立を支える「論理」が否定されることで、「ダイニッポンの<おれ>」が崩壊してしまうことを恐れているのかもしれません。ですが、思うに彼のそれは迷妄です。なぜなら、彼が「自由な」人間であれば、たとえ「ダイニッポン」が解体されることで「ダイニッポンの<おれ>」が崩壊しようとも、彼は「自由に」彼自身を再び作ることができるのですから。もっとも、それは彼が「尊厳あるひとりの人間」として「自由に」生きることを希望すればの話ですが。

 

「地方蔑視」と「民族差別」についての試論

いわゆる「地方蔑視」に批判的ではない人が、民族差別に反対する人の中にもしばしば見受けられます。どうやら彼らは、「ヘイトスピーチ」の定義に該当しないから許される、と考えているふしがあるように思われます。また、彼らは、「地方蔑視」に批判的ではない彼らの態度に対する批判に対して、「『田舎の停滞性や閉鎖性』を批判できなくなってしまうではないか」と反論するかもしれません。

たしかに、彼らが言うように「ヘイトスピーチ」の定義に照らせば、「地方蔑視」はヘイトスピーチそのものではないでしょう。しかし、私は、「地方蔑視」にはヘイトスピーチ、さらにいえば民族差別の根底にある思想に通じるものがあると考えています。

すなわち、それは日本帝国主義によるアジア侵略や植民地支配を支えた思想の一つである、「(アジア)停滞史観」に通じるものがある、ということです。こんなことを言うと「いい加減なこじつけだ」と批判されるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。たとえば、日本政府の沖縄政策は、沖縄を(文明化の)「遅れた土地」であると見る史観に支えられているのではないでしょうか。また、大日本帝国にとって「朝鮮」や「台湾」は、(「帝都」の対極という意味で)「究極の地方」だったのではないでしょうか。

このように、現在の沖縄問題や過去の(もっとも、未だ清算されてはいませんが)植民地問題の根底に横たわっているのは、「帝都>周縁」という「帝国主義的」な権力(暴力)構造です。そうして「地方蔑視」は、まさしくそのような権力構造によって生み出されたものであるといえるでしょう。つまり、「地方蔑視」の延長線上に、植民地に対する蔑視とそれによる植民地支配の正当化がある、ということです。

ところで、前述のように「地方蔑視」に批判的ではない人は、「地方蔑視」に批判的ではない彼らの態度に対する批判に対して、「『田舎の停滞性や閉鎖性』を批判できなくなってしまうではないか」と反論するかもしれません。しかし、そもそも「停滞性や閉鎖性」というのは、本当に「地方」固有の問題なのでしょうか。

たしかに、彼らが何を批判したいかは、私にもわかります。しかし、だからといってそれを「地方」固有の問題と捉えてしまうと、問題の本質を見誤ることになります。

思うに、ここで問われるべきは「地方」ではなく、(差別の根源である)「『イエ』的日本」です。しかるに、「『イエ』的日本」の問題を「地方」の問題に矮小化し、「地方」をスケープゴートにすることは、「『イエ的』日本」を解体するどころか、むしろ問題の本質を隠蔽し「『イエ』的日本」を温存する結果を招くのではないでしょうか。

民族差別の問題においては、「帝都>周縁(へ向かう権力という名の暴力)」という「帝国の論理」が問われなければならない――民族差別に反対する諸姉諸兄には、どうかこのことを認識していただきたいと思います。

 

 

 

 

 

「戦争と女性の人権博物館」を訪問見学しました。

先日、私は韓国・ソウルを旅行し、「戦争と女性の人権博物館」を訪問見学しました。

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恥を忍んで告白しますが、日本軍性奴隷問題に関する私の「知識」は、決して十分なものではありません。もちろん、新聞の報道や書籍によって得た、基本的な「知識」は持ち合わせているつもりです。しかし、そうして得た「知識」は客観性を僭称するものであるがゆえに、いくら基本的な「知識」は持ち合わせたところで、私は日本軍性奴隷問題を他人事のようにしか捉えていなかったのだと思います。

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もっとも、私は「男」ですから、被害者の「痛み」を想像はできても感じることはできません。また、「男」である私が「被害者に寄り添う」などと軽々しく言うのも、欺瞞的であると私は思います。

ですが、私が「男」であるからこそ、日本軍性奴隷問題は私にとって決して他人事ではないのです。というのは、「日本」という国で「男」として生まれ、「男」として生きる私は、紛うことなき「潜在的な加害者」なのですから。

誤解しないでいただきたいのは、私は決して性暴力を肯定するつもりはありません。しかし、いかなる状況においても自分だけは加害者にはならないなどと軽々しく言うこともできません。やはり、「日本」という国で「男」として生まれ、「男」として生きる存在である以上「潜在的な加害者」であることそれ自体は認め、それと同時に、性暴力があたかも「道徳的」であるかのような価値観を拒絶することが必要なのではないか、そう思うのです(なお、矛盾しているように思われるかもしれませんが、いわゆる「エロティックな表現」を守るためにも、性暴力があたかも「道徳的」であるかのような価値観を拒絶することが必要であると私は考えています。つまり、本稿では深入りしませんが、創作表現の自由を守ることと性暴力があたかも「道徳的」であるかのような価値観を拒絶することは、両立しうるということです。)。

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このように、「日本」という国で「男」として生まれ、「男」として生きる存在であるゆえに、日本軍性奴隷問題の「当事者」である私は、なによりもまず、被害者であるハルモニと、ハルモニの闘いを支える人々の「声」を真摯に聞こうと思います。それは、私が「日本」という国で「男」として生きることを選んだ責任として、そして究極的には、他でもない私自身が、尊厳ある一人の人間として生きるために。

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以上が、日本軍性奴隷問題に関する、今の私の率直な思いです。

なお、微力ながら連帯の意思表明として、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)の日本政府に対する抗議声明に署名しました。私は、今後も挺対協の活動を支持します。

 

 

 

「戦争と女性の人権博物館」日本建設委員会/自己紹介/博物館案内

map.konest.com

 

小池都知事は、その排外主義的な態度を即刻改めるべきである。

小池都知事「朝鮮学校に都民の税金使えない」 : スポーツ報知 http://www.hochi.co.jp/topics/20160909-OHT1T50050.html

残念ながら、小池都知事のこの発言に違和感を覚えない「都民」は少なくないのかもしれません。

しかし、小池都知事のこの発言が理不尽なものであることは、少し考えれば容易に分かるかと思います。

すなわち、朝鮮学校に子供を通わせている在日朝鮮人の方々も、日本国籍者である「都民」と同様に都民税を負担しています。そうだとすれば、在日朝鮮人の方々が納めた都民税も、紛れもなく「都民の税金」であるはずです。それにもかかわらず、どうして小池都知事は「朝鮮学校に都民の税金使えない」などと言うのでしょうか。(都民税を負担しているにもかかわらず)在日朝鮮人の方々は「都民」ではないとでもいうのでしょうか。

小池都知事のこの発言は、「都民の血税の適切な使用」という「正論」を装いながら、その実は在日朝鮮人の排除を目的とする排外主義的なもの以外のなにものでもありません。

韓国学校に関する「ここは東京であり、そして日本」という発言もそうですが、小池都知事の排外主義的な態度にはまったく呆れてしまいます。

そもそも、在日朝鮮人の方々が朝鮮学校を設立するきっかけを生み出したのは、他でもない帝国主義的暴力によって朝鮮民族から言語や文化を奪った「日本」自身です。そうだとすれば、帝国主義的暴力によって朝鮮民族から言語や文化を奪った責任として、むしろ「日本」の政府や自治体は朝鮮学校を支援するのが筋だといえるでしょう。それにもかかわらず、支援するどころか国家をあげてこれを排除しようとすることは、それこそ朝鮮民族の方の主体的な人間としての尊厳を踏みにじる「重大な人権侵害」だと言わざるを得ません。

以前のエントリでも述べましたが、たとえ小池都知事が「民主主義的」な手続(はたして、本当に「民主主義的」であるかはさておき)によって選ばれようと、民主主義は排外主義やレイシズムを許容するものではないのですから、排外主義的な態度が許されることはありません。小池都知事は、その排外主義的な態度を即刻改めるべきです。

私は、本稿をもって小池都知事の一連の排外主義的な発言に断固抗議します。

 

 

 

 

「ぼくらの民主主義」を乗り越えるために

「民主主義」ってなんでしょう?

学生時代から今に至るまで私が学んできた憲法学では、「民主主義」とは「治者と被治者の自同(同一)性」と定義されます。

現在の日本国は「民主主義」の国だと言われますが、そうだとすれば、現在の日本国では、当然に治者と被治者が同一であるはずです。

しかし、現実には、現代日本の「民主主義」制度は、治者ではない被治者を生み出しているという欠陥制度であると言わざるを得ないでしょう。

そのような欠陥制度である現代日本の「民主主義」制度を疑うことなく信奉してきたことを、私はいま、なによりもまず反省しなければなりません。

「ぼくらの民主主義」の場におけるヘゲモニー争いのツケを、現実問題として(ただし、あくまでも現実問題として、です。「民主主義」は、「敗者」に対し「敗けた責任」として「勝者」への隷属を強いることを許容するようなものでは決してありません)「ぼくら」が「ゲームの参加者」ゆえにある程度払わなければならないのは、致し方ないことなのかもしれません。しかし、実際にツケの多くを払わされるのは「ぼくらの民主主義」の場から疎外されている(ゆえに、本来であれば「債務」を負わないはずの)人々である、ということを「ぼくら」はどれほど認識しているでしょうか。

はたしていつまでも、「ぼくら」は「ぼくらの民主主義」の場に安住してしまってよいのでしょうか……いや、そうしてしまったら「ぼくら」は「民主主義」を語る資格を失うでしょう。つまり、治者ではない被治者を生み出しているような「ぼくらの民主主義」は所詮まがい物なのですから、そのような「まがい物」しか知らず、そして「まがい物」を知っただけで満足してしまうような「ぼくら」に、「民主主義」を語る資格などあるはずがない、ということです。

繰り返しになりますが、これまで「ぼくら」の一人として生きてきた私は、現代日本の「民主主義」制度を疑うことなく信奉してきたことを反省し、「ぼくらの民主主義」を乗り越えるための第一歩とする所存です。

 

 

民主主義をレイシズム容認の言い訳にしてはならない

先の東京都知事選では、「ここは日本」だなどという、まるで排外主義者が述べるような理由で東京都による韓国学校の移転支援計画を白紙撤回し、また、街頭演説で「ただただ有耶無耶のなかでどんどんと外国の労働者が増えていくということは、これは治安の関係からも、大いに問題だ」などという、排外思想が透けて見える言説を繰り出した*1小池百合子氏が都知事に当選しました。のみならず、排外主義団体の元会長が都知事選に出馬し、選挙演説に名を借りてヘイトスピーチを繰り出したあげく、当選こそしなかったものの11万票以上を獲得しました。

こうした状況を見て、もはや排外主義やレイシズムは「民意」によって容認された、と考える人がいるかもしれません。しかし、そのような考えは間違いです。

思うに、民主主義とは、平たく言えば一人ひとりが政治の主人公だという建前であって、政治的少数派に対して政治的多数派への隷属を強いるものなどでは決してありません。そして、民主主義が一人ひとりが政治の主人公だという建前であることに鑑みれば、その究極の目的は、個人の尊厳を確保することであるといえます。しかるに、個人の尊厳を確保するための手段である民主主義が、個人の尊厳を踏みにじるものである排外主義やレイシズムを容認すると考えるのは、民主主義の趣旨にもとるものといわざるを得ません。

このように、民主主義は排外主義やレイシズム容認の言い訳には到底なりえません。たとえ排外主義的あるいは人種・民族差別的な政策が政治的多数派の意思に基づくものであったとしても、それに服従するのではなく、むしろそれに対して異議を申し立て、批判し、抵抗することこそが、民主主義の理念に沿うものであると私は思います。

「日本政府による平和の少女像撤去要求問題」は、「表現規制問題」である。

慰安婦への支援事業 韓国に少女像の撤去促す方針 | NHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160813/k10010633561000.html

ソウルの日本大使館前に設置されている「従軍慰安婦平和の少女像」についてひとつ言えることは、この像は日本政府に対する韓国市民の「政治的表現」だということです。そしてそれは、あくまでも日本政府の戦争責任を問うものであって、昨今の日本における韓民族に対するヘイトスピーチのような人間の尊厳を踏みにじるものでは決してありません(従軍慰安婦日本軍性奴隷問題に関する日本政府の責任を問う声を「日本人に対するヘイトスピーチ」だなどと言う極右主義者の妄言には、到底賛同できません。)。

そうだとすれば、そのような韓国市民の「表現の自由」を、日本政府が外交的圧力を用いて間接的にではあるにせよ制約する権限など、いったいどこにあるというのでしょうか。すなわち、日本政府という〈権力〉が外交的圧力を用いて従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求することは、韓国市民の「表現の自由」に対する不当な侵害だということです。

したがって、「日本政府による従軍慰安婦平和の少女像撤去要求問題」に関しては、これを単なる「日韓間の政治・外交問題」としてではなく、「日本政府による韓国市民の『表現の自由』に対する不当な侵害」という「表現規制問題」、すなわち国際的な人権問題として論じる必要があると、私は思います。

そもそも、日本政府は何の合理的理由があって従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求しているのでしょうか。ソウルの日本大使館前に従軍慰安婦平和の少女像が設置されていることで、何か後ろめたさを感じているのでしょうか。それとも、ただ単に「不快」なのでしょうか。しかし、そうだとすると「特定の表現を不快だから排除する」というその態度は、まさしく「表現規制反対派」の人がしばしば批判する「表現規制賛成派」の人の態度そのものではないでしょうか。

いずれにせよ、日本政府は従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求するのであれば、韓国市民の「表現の自由」に対する制約を正当たらしめる合理的理由をしっかりと示すべきです(もっとも、そのような合理的理由など何一つないでしょうが……)。しかるに、「10億円を拠出するのだから」などというのが合理的理由たりえないのは、言うまでもないでしょう。