葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

黒田成彦・長崎県平戸市長の発言に断固抗議する

たとえ他国に排外主義者がいたとしても、そのことをもって日本における排外主義やレイシズムを正当化することなど決してできない――市長ともあろう御仁が、なぜそんなことも分からないのでしょうか。

黒田市長の当該発言は、ヘイトスピーチヘイトクライムによる深刻な人権侵害をあまりにも軽視する、非難されてしかるべきものです。

市長が率先してこのような言動をとっていては、せっかくの平戸市人権教育・啓発基本計画も画餅に帰することになりかねません。

黒田市長は、インターネットで「反日デモ」とやらの画像を漁ることを推奨するより前に、市政の最高責任者として、ヘイトスピーチやヘイトデモによって深刻な人権侵害が全国各地で惹起されている昨今の現状をしっかりと認識されたほうがよろしいのではないでしょうか。

私は、本稿をもって黒田市長の当該発言に断固抗議するとともに、平戸市民の皆様にはぜひともこの件に関し賢明なご判断をしていただくことを切に願います。

なお、黒田市長の当該発言を理由に「平戸」そのものを揶揄したりするような言動は、厳に慎まなければならないことは言うまでもありません。

つまるところ、根は同じ――日本社会に蔓延る「差別と排除の論理」

障害者ら刺され19人死亡26人負傷、男逮捕 相模原:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASJ7V2650J7VULOB00C.html

もしかすると、今回の事件を「特異なもの」と感じている人は少なくないかもしれません。

たしかに、その犯行は卑劣かつ残忍なものです。しかし、人間の尊厳を無視し「異物」として排除するという点で、(人命が奪われるまでには至っていないものの)沖縄における日本政府による蛮行、あるいは排外主義団体による民族差別煽動と「根」は同じなのではないでしょうか。

思うに、くれぐれもこの事件に関する議論を、加害者を「異常者」として、日本社会全体に蔓延る「差別と排除の論理」を隠蔽し、あるいはしばしそれを忘却するための「スケープゴート」とするような方向に持っていってはなりません。しかし、残念ながらおそらく、この事件に関するマスメディアの今後の論調は、事件の背景に潜む、日本社会全体を貫いている「差別と排除の論理」を告発するものではなく、(「異常者」を社会から分離して排除する方法によって)「社会は防衛しなければならない」というものなのでしょう(既にその予兆は感じられます。)。

結局のところ、「日本社会」は「差別と排除の論理」に徹頭徹尾貫かれているのだと思います。

今回の事件は、日本社会全体に蔓延る「差別と排除の論理」によって引き起こされた「ヘイトクライム」だと言って間違いありません。しかるに、事件の「特異性」に目を奪われて事件に潜む「普遍性」を見失ってしまっては、このような「ヘイトクライム」を未然に防ぐことは決してできないでしょう。そしてまた、現にそうであるように、ヘイトクライム事件を利用した悪質なヘイトスピーチが生み出されてしまうことでしょう。

 

アニメや漫画などの表現の自由が守られるだけでは、アニメや漫画などの表現の自由を守ることはできない。

アニメや漫画などの表現に対する規制に反対する人の中には、「アニメや漫画などの表現の自由さえ守られれば、その他の表現の自由は守られなくても構わない」と考えている人がいるかもしれません。しかし、そのような考えは間違っています。私が思うに、アニメや漫画などの表現の自由が守られるだけでは、アニメや漫画などの表現の自由を守ることはできません。

よく、「アニメや漫画などの表現の自由を守るためには、アニメや漫画などの表現の自由を守ってくれる政治家を支持すべきだ」という言説を見聞きします。私はその言説にいささか違和感を覚えますが、しかしそれも一つの方法であることを否定するつもりはありません(もっとも、たとえ「アニメや漫画などの表現の自由を守ってくれる政治家」であろうと、排外主義政策を掲げるような人を支持することには、到底賛同できません。)。それはさておき、その言説を支持する人が忘れてはならないのは、「政治的表現の自由が保障されてはじめて、政治家はアニメや漫画などの表現の自由を守るために自由に活動することができる」ということです。そしてまた、「アニメや漫画などの表現の自由を守れ」という主張それ自体が、紛れもなく「政治的表現」そのものだということです。

残念ながら、オタク諸氏の中には「政治的表現」を忌避する人も少なくないようです。ですが「政治的表現の自由が保障されてはじめて、アニメや漫画の表現の自由を守ることができる」ということを、どうか忘れないでください。

なお、表現の自由は「恩恵として与えられるもの」などでは決してありません。ですから、「アニメや漫画などの表現の自由を守ってくれる政治家」を無批判的に支持するだけでは、本当の意味で表現の「自由」を守ることはできないということを、最後に付言しておきたいと思います。

 

「〈反日/親日〉二分法的思考」は、もうやめよう。

「まるで戦争」 静かなレストラン一転 ダッカ襲撃事件:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASJ725W3VJ72UTIL026.html

まずはじめに、今回の事件で亡くなられた全ての方々に、深く哀悼の意を捧げます。

さて、この事件の報道に関して、違和感を覚えたことが一つあります。それは、「親日国なのに、こんなひどいことが起こるなんて信じられない」という「日本人」の声や、マスコミの論調について、です。

どうして、彼らはこれまで「親日国ならばこんなひどいことは起こらない」と信じて疑わずにきたのでしょうか。私は、むしろそのことのほうが信じられません。

誤解していただきたくないのは、私は「親日国でも危険な目に遭う時は遭う」とか「反日国でも危険な目に遭うとは限らない」などと言いたいのではありません。私が言いたいのは、そもそも〈反日親日〉という概念それ自体がナンセンスである、ということです。

反日親日〉という概念そのものが、他者を自己より劣位に置く傲慢で愚かなものですが、それはまた、硬直化した二分法的思考による認識の歪みという弊害をもたらします。「親日国ならばこんなひどいことは起こらない」などというのは、まさしくこの弊害であるといえるでしょう。

前述の〈反日親日〉という概念の性質に鑑みれば、「親日」なる客体に対する優位な主体のまなざしは、気まぐれで憎悪に満ちたものへと豹変する危険を孕んだものであるといえます。現にネット上では「バングラデシュは恩を仇で返した」などという言説が散見されます。今回亡くなられた方々は、なにも恩を売るつもりで協力事業に力を尽くしたわけではないでしょう。しかるに、そのような言説を「日本人」が発するのは、志半ばで亡くなられた「同胞」に対する冒涜ではないでしょうか。また、たとえバングラデシュ国民が自嘲的にそのような言説を発したとしても、それを「日本人」が己の虚栄心を満たすために利用するなど言語道断です。

とまれ、「〈反日親日〉二分法的思考」は、私たちの「目」を曇らせます。「日本人」は、他でもない「日本人」自身のために「〈反日親日〉二分法的思考」をそろそろやめるべきではないでしょうか。

 

いちオタクである私が、自民党を支持するオタク諸氏にお願いしたいこと

創作物あるいは創作活動を愛するオタク諸氏の中には、自民党を支持する方もいらっしゃるでしょう。

もちろん、どの政党を支持するかは個人の自由です。ですが、自民党を支持する方は、自民党がその憲法改正草案で、表現の自由に関して「公の秩序を害することを目的とした活動を行(う)……ことは、認められない」としている点について、どのようにお考えでしょうか。

自民党憲法改正草案
表現の自由
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行 い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

つまり私が言いたいのは、例えば「エロティック」な創作活動などは「公の秩序を害することを目的とした活動」であるとして、公権力によって簡単に規制されかねない、ということです。

もっとも、自民党改憲草案の「公の秩序」による制限も、日本国憲法の「公共の福祉」による制限も、そう変わらないのではないか、と思う方もいらっしゃるかもしれません。ですが、それは誤解です。というのは、「公共の福祉」の通説的見解に従えば「人権を制約できるのは人権だけ」ですが、しかし「公の秩序」とすれば、「お上」が決めた「秩序」(残念ながら歴史に鑑みれば、日本における「公の秩序」なる概念はそのようなものでしょう)に反する表現活動であれば、たとえ他者の人権と矛盾衝突しなくても制約できることになるからです。

具体的な表現活動の規制は法律によってなされますが、このような憲法改正がなされてしまうと、現在よりも容易に規制立法が行なわれるでしょうし、また事後的に司法的救済を求めることも著しく困難となってしまうでしょう。

このように、「憲法改正問題」は、創作物あるいは創作活動を愛する私たちオタクにとっても、決して看過できないものなのです。

自民党憲法改正草案の問題点は、なにも憲法9条だけではありません。どうか、自民党を支持するオタク諸氏には、憲法21条に関する自民党憲法改正草案の問題点について今一度よく考えていただきたいと、創作物あるいは創作活動を愛するいちオタクとして思います。

 

 

 

 

「外国語」を学ぶ意義についての私論

私は今、独学で韓国語を勉強しています。それは決して、「ビジネスに役立つから」ではありません。よく、「◯◯語なんて勉強しても役に立たないから、英語を勉強した方が良い」という言説を耳にします。しかし、私はそのような言説には賛同できません。おそらく、「役に立つ」というのは「ビジネスの役に立つ」という意味なのでしょうが、それを絶対視する風潮には疑問を感じます。

たしかに、「合理性」や「有用性」は人間が死なないために大切なものだと思います。しかし、そういった「ものさし」を絶対視してしまうと、人間が生きるために大切なものを見失ってしまうのではないでしょうか。

そうして、「外国語」を学ぶことは、「自由な人間」として生きるために必要なことであると、私は思います。つまり、「母国語」という〈権力〉に支配されて社会生活を送っている私たちが、その支配から逃走し「自由な人間」として生きるためには、母国語でコミュニケーションを図り、母国語で思考するのと並行して、外国語でコミュニケーションを図り、外国語で思考することが必要なのではないか、そう思うのです。

そもそも、「ビジネスに役立つから」といって、それは本当に私自身の「利益」になるものなのでしょうか。もちろん、「報酬」や「賃金」という形で、私も「分け前」にあずかることができるでしょう。しかし、それは本当に「正当な分け前」であるといえるでしょうか。

こうして考えてみると、「ビジネスに役立つから」などという理由は、どうにも胡散臭く私には感じられます。そうだとすれば、たとえ世間一般で「◯◯語なんて勉強しても役に立たない」などと言われていようとも、そんなことは気にせずに自分の興味のある「外国語」を勉強するのがいちばんだと思います。

 

 

思うに、「ヘイトスピーチ対策法」反対論者は「思想の自由市場」論を誤解している。

先般施行された「ヘイトスピーチ対策法」反対論者は、反対論の論拠としてしばしば「思想の自由市場」論を持ち出します。

たしかに、民主主義社会においては言論には言論で対抗するのが原則です。しかし、私にはどうしても、彼らが「思想の自由市場」論を「各人が好き勝手に自分の思うことを言い放つ自由を尊重する」考え方であると誤解しているように思えてなりません。

「思想の自由市場」論は、「各人が好き勝手に自分の思うことを言い放つ自由を尊重する」考え方などではなく、「国家の介入がなく、すべての思想が市場に登場することを認めれば、自由競争により、表現の自由を支える価値である人格の実現や民主主義過程の維持保全にとってよい結果が達成されうる」という考え方です。そうだとすると、「◯◯人を殺せ」や「◯◯人は寄生虫だ」、あるいは「◯◯人を日本から追い出せ」などといったヘイトスピーチが、はたして表現の自由を支える価値である人格の実現や民主主義過程の維持保全に資するものといえるでしょうか。また、「自由競争」の前提として、はたして言論空間の平等が確保されているといえるでしょうか。未だ政府が民族差別政策をとり、一部のマスメディアが「報道の自由」に名を借りた民族差別煽動を繰り返している現状に鑑みると、ヘイトスピーチに対する対抗言論がどれほど有効であるかは、甚だ疑問です。

つまり、ヘイトスピーチはそもそも「思想の自由市場」論の趣旨に悖るものであって、「ヘイトスピーチ対策法」反対論の論拠として「思想の自由市場」論を持ち出すのは妥当ではないと思います。もっとも、反対論者は「ヘイトスピーチは『思想の自由市場』論の趣旨に悖る」という価値判断さえも否定するかもしれません。ですが、私はそのようなニヒリスティックな考えには到底賛同できません。

2016年6月2日に、在日コリアンの排斥を訴えるヘイトスピーチデモの主催者に対して出された仮処分決定*1で、裁判所は、ヘイトデモを「人格権に対する違法な侵害行為に当たる」と認定し、その違法性が顕著であれば「憲法が定める集会や表現の自由の保障の範囲外」であると判示しています。ヘイトスピーチ憲法で保障される「表現」であると信じて疑わず、「思想の自由市場」論に固執する「ヘイトスピーチ対策法」反対論者は、裁判所がなぜヘイトデモ(スピーチ)の違法性が顕著であれば憲法が定める集会や表現の自由の保障の範囲外であると判示したのか、そしてそもそも憲法がなぜ「表現の自由」を基本的人権として保障したのか、その趣旨を今一度よく考えて欲しいと思います。

 

*1:ヘイトデモ:接近禁止の仮処分決定 横浜地裁支部 - 毎日新聞http://mainichi.jp/articles/20160603/k00/00m/040/075000c