あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

差別に「寛容」であることは、「寛容の精神」を殺す。

「寛容の精神を貫くのであれば、差別にも寛容であるべきだ」と言う人がいます。もしかすると、「その通りだ」と思う人も少なくないかもしれません。ですが、本当に「寛容の精神を貫くのであれば、差別にも寛容であるべき」なのでしょうか。

たしかに、「差別を許さない」というのは差別に「不寛容」なわけですから、「寛容の精神」を貫くのであれば、差別にも寛容であるべきようにも思えます。しかし、そのように思う人は、ひとつ大事なことを見落としています。それは、差別に寛容であることは、差別によって踏みにじられる人の尊厳には不寛容である、ということです。

なぜ、そのような過ちを犯すのか。それは、「寛容」という言葉を表面的にしか捉えていないからです。表面的にしか捉えていないから、「寛容」を「無頓着」と誤解するのです。

思うに、「寛容であること」が求められるのは、「すべて人間は、個人として尊重される」からです。しかるに、個人の尊厳を踏みにじるものである差別に寛容であることは「寛容であること」が求められる趣旨に悖るものであって、いわば「寛容の精神」を殺すようなものです。はたして「寛容の精神」は、自分を殺すものである「差別」を許容するでしょうか。

このように「寛容」を論ずるにあたっては、「寛容であること」が求められる趣旨にさかのぼって考えることが必要です。そうして考えてみると、「寛容の精神を貫くのであれば、差別にも寛容であるべきだ」というのは、結局のところ差別を正当化するための詭弁でしかないでしょう。

「寛容の精神」を真に貫くのであれば、差別を決して許してはならないのです。