葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

戦争の惨禍を繰り返さないために語り継ぐべき「記憶」

「戦争の惨禍が再び繰り返されないようにするためにも、『戦争の記憶』を語り継がなければならない」ということがしばしば言われます。

「『戦争の記憶』を語り継がなければならない」ことには、私も異論はありません。しかしながら、そこで語られる「戦争の記憶」とは、「空襲被害」や「日本軍兵士の戦死や抑留体験」といった、「日本人」が「戦争の被害者」であるものが殆どであるように思われます。もちろん、戦争のおぞましさを知るうえで、そのような記憶を語り継ぐことも大切だとは思います。ですが、はたして本当にそれだけでよいのでしょうか。

空襲被害や出征によって多くの「日本人」の命が失われたからこそ、そのような惨禍が再び繰り返されないようにするために「日本人」が「戦争の被害者」である記憶を語り継ぐべきだというのは、それはそれで一理あるとは思います。ですが、日本の国土が空襲の被害に遭いさえしなければ、日本が加担する「帝国の戦争」において他の国の国土が空襲により焦土と化してもかまわないのでしょうか。日本の若者が戦地に赴きさえしなければ、日本が加担する「帝国の戦争」において他の国の若者が日本の若者の代わりに戦地に赴き命を落としてもかまわないのでしょうか。

そもそも「戦争の惨禍が再び繰り返されないようにするためにも……」というのは、正しくありません。先の戦争において、日本は紛れもなく「加害者」です。そうであるならば、「戦争の記憶」を語り継ぐのは、戦争の惨禍を再び繰り返さないようにするためです。そのためにも、なによりもまず語られなければならないのは、「日本という国家が戦争の加害者である記憶」であると思います。

しかるに、「日本という国家が戦争の加害者である記憶」を語り継ぐことを蔑ろにしてきた結果、日本の国土が戦火に見舞われることばかりを憂い、日本が加担せんする「帝国の戦争」によって他の国の国土が戦火に見舞われる危険に関しては甚だ無頓着であるような「国民の意識」が形成されてしまったのではないでしょうか。

敗戦の日」を前に、平和を願い反戦を訴える諸姉諸兄には、「戦争の惨禍を再び繰り返さないために語り継ぐべき『戦争の記憶』」について今一度考えていただければ、と切に思います。