あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

表現の自由に関する自民党改憲草案の問題点は、いったいどこにあるのか。

東京新聞:表現の自由に制約「当然」 自民、改憲草案撤回せず:政治(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016112590070454.html

 

東京新聞のこの報道により、インターネット上では自民党改憲草案に対して批判の声が多く上がっています。

たしかに、中谷氏が自民党を代表して示した見解はもちろん、自民党改憲草案そのものも批判されてしかるべきものです。

ですが、私は、「表現の自由に制約『当然』」というこの報道の見出しと、これに基づく批判に、どうも違和感を覚えます。

それというのも、表現の自由が制限されることそれ自体が問題であるかのような印象を読者に与えるこの見出しは、表現の自由が絶対無制限であるとの誤解を招きかねないからです。

誤解のないようにお断りしておきますが、私は別に表現規制に関する自民党の見解や改憲草案を擁護したいわけではありません。表現の自由に関する自民党改憲草案の問題とヘイトスピーチ規制に関する問題をこじつけ、反差別を揶揄する「詭弁使い」が現れることを、私は危惧しているのです。

さて、それでは表現の自由に関する自民党改憲草案の問題点は、いったいどこにあるのでしょうか。

思うに、それは「制約根拠」にあります。

現行憲法においても、表現の自由は絶対無制限ではなく、憲法規定にかかわらず全ての人権に論理必然的に内在する「公共の福祉」によって制約される、と考えるのが通説です。かかる通説によれば、表現の自由を制約できるのは、他者の人権との矛盾・衝突を調整する限りにおいてです。
他方、自民党改憲草案は規定を新たに設け*、「公益及び公の秩序」維持により表現の自由を制約できるとしていますが、かかる「公益及び公の秩序」を根拠とすることは、〈個人〉と相互補完的関係にある概念である「公〈共〉」とは異なり〈個人〉とは対極的関係にある「公」という言葉からもわかるように、国家による恣意的かつ過度に広汎な制約を招くことにもつながりかねません。また、「公共の福祉」が「他者の人権との矛盾・衝突を調整する限りにおいて」というようにその制約の程度が客観的に定まっているのと比べて、「公益及び公の秩序」は国家当局の主観が入りやすいものであることを考えると、やはり表現の自由が不当に制限される危険は現行憲法に比べてきわめて高いといえるでしょう。

つまり、自民党改憲草案における表現の自由の保障は、表現の自由が「法律の範囲内に於いて」のみ許される(「表現の自由が『法律の範囲内に於いて』のみ許される」とは、裏を返せば法律によって表現の自由を容易に奪うことができるということであり、つまりは憲法による表現の自由の保障など画餅にすぎないということです)にすぎなかった大日本帝国憲法におけるそれと実質的に異ならない、ということです。

このように、自民党改憲草案は、時代の変化に対応したものであるどころかむしろ時代に逆行するものであり、そしてそれは表現の自由の保障に限った話ではなく、全体的に見て現行憲法が立脚する「個人の尊厳」を蔑ろにするものであって、およそ近代憲法の名に値しない代物であるといえます。

ただ、そうは言っても、やはり問題点を正確に把握して批判することが、批判に妥当性を持たせるためにも必要であると思い、本稿をしたためた次第です。

 

自民党憲法改正草案 第21条第2項

 前項の規定にかかわらず,公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。