あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

『リトルバスターズ!』と永遠回帰

以下の拙稿は、TVアニメ『リトルバスターズ!~Refrain~』に関する考察です。

「理樹と鈴を成長させるために、理樹と鈴が待ち受ける過酷な現実に負けない強い〈力〉を得ることができるようにするために、永遠に1学期が繰り返される世界を作り出した」と、恭介は言う。

だが、「全く同一のものが繰り返される」としたとして、はたして理樹と鈴を成長させることはできるのだろうか。つまり、「全く同一のものが繰り返される」としたのでは、「弱さ」といった否定的なものまでもが、永遠に繰り返されてしまうのではないだろうか。

たしかに、リトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々が「永遠」に続くことを望む理樹にとっては、「リトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々」という「全く同一のものが繰り返される」世界は、理想的なものであるかもしれない。しかし、それでは理樹と鈴を成長させることはできず、「世界」は存在の理由を失う。

そうだとすれば、やはり「永遠の世界」など存在せず、麻枝准は『リトルバスターズ!』という作品をもって、「永遠の世界」を否定したとも思える。

「僕は知りたくなかったんだ。 生きることが、失うことだったなんて」と、理樹は言う。

「失うことのない世界、なにもかも、変わることのない世界」が「永遠の世界」であるならば、たしかに「〈永遠〉なんて、なかったんだ」といえるであろう。

しかし、はたして「永遠」とは、「失わないこと、なにもかも、変わらないこと」でしかないのだろうか。

私が思うに、たとえリトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々を失ってしまったとしても、何度でも仲間達と過ごす楽しい日々を再び繰り返すことはできるはずだ。理樹が、失うことを怖れる「弱さ」といった否定的なものを放逐し、仲間達と過ごす楽しい日々を再び繰り返すことを肯定し、そしてそれを自らの意志で選ぶのであれば。

このことに理樹と鈴が気付き、それを強く意志した時、もはや恭介が作り出した「永遠に1学期が繰り返される世界」は、滅びなければならない。それは、理樹と鈴が、そして、恭介や小毬、リトルバスターズの皆が、「世界」を生成するためである。そしてまた、「永遠に1学期が繰り返される世界」が滅びることは、「ゲームマスター」が滅びなければならないことを意味するであろう。

理樹は、かつて恭介に救われたかもしれない。しかし、恭介は、決して理樹に救われることを望みはしない。むしろ、恭介は、滅びることを望むであろう。そうはいっても、恭介はただ滅びるのではない。恭介は、恭介自身を生成することを繰り返すために、滅びるのである。

「永遠に1学期が繰り返される世界」が滅びなければならないとしても、それは決して、麻枝准が『リトルバスターズ!』という作品をもって、「永遠の世界」を否定したということではない。

リトルバスターズ!』という作品で麻枝准が辿り着いた「永遠の世界」は、「“永遠に”なにもかも変わらずに同一のものが繰り返される世界」ではなく、「(消滅と)生成が“永遠に”繰り返される世界」である。そしてそれは、神という「永遠」なる存在によって与えられる「世界」ではなく、人間が自ら選択することで、「永遠」に繰り返すことのできる「世界」である。

たとえ、何もかも変わらずにいられなかったとしても、永遠は〈此処〉にあるのだ。

つまり、麻枝准は、『リトルバスターズ!』という作品で、ようやく確信を持って「永遠の世界」を肯定するに至ったのである。