葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「フォアグラ」論争とエロティシズム

ファミマのフォアグラ弁当の発売中止騒動 ネットでは行き過ぎた抗議に反発多数 http://huff.to/1e0NqrL

 

世間を騒がせている、「フォアグラ」の話題。

多くの人が言うように、「食べるということ自体そもそも残酷だ」というのは、たしかにその通りだとは思います。

しかしながら、そこからさらに理屈をこねていくと、答えはそう簡単には出せるものではないのかもしれません。

すなわち、「人間が生きていくうえで、他の命を犠牲にすることは止むを得ないものである」ということを前提として、「だからこそ、犠牲となった命に対する感謝の気持ちを忘れなければ、どのような生物をどのような方法で食べようとも許されるのだ」という理屈を突き詰めれば、「フォアグラは残酷な食べ物である」という結論は、センチメントな馬鹿げたものであると言えます。

他方、同じく「人間が生きていくうえで、他の命を犠牲にすることは止むを得ないものである」ということを前提として、「だからこそ、過剰な殺生は厳に慎むべきである」という理屈を突き詰めれば、「フォアグラは残酷な食べ物である」という結論も、決して導き出すことのできない結論ではないのかもしれません。

結局のところ、フォアグラが「残酷な食べ物」か否かは、「食べるということ自体そもそも残酷だ」という理屈のみで答えを出すことはできず、答えを出すにはそこからさらに価値判断が必要な問題ではないだろうかと思うのです。

ただ、もしもこの世界に物事の「正解」が無いのだとすれば、答えを出すことは「信仰」での領域での話となってしまうのかもしれません。しかしそれでは、世界は分断され単純化され硬直化してしまうでしょう。もっとも、信仰の領域で留まって先に進めないというのが、私たちが生きている現代の状態なのかもしれませんし、果たしてここから先の領域があるのかどうかも、まさしく「神のみぞ知る」なのかもしれませんが。

さて、どっちつかずの事を言うと「じゃあ、お前はいったいどっちの立場なんだ」とお叱りを受けてしまうかもしれません。そこで、私自身の考えを述べてみたいと思います。

人間の本質は「過剰の生ずる欲望」であり(人間には動物と違って「理性」があるだろうとのお叱りを受けそうですが、理性があるからこそ、欲望に過剰が生ずるのだと思うのです)、フォアグラはまさに「過剰な食欲の追求」を具現化したものであるから、それを否定することは人間の本質を否定してしまうことになる(もっとも、「理性」こそ人間の本質であると考えるのであれば、むしろ逆の結論を導くことが正しいかと思われる。やはり、「信仰」の領域で答えを出すしかなさそうです。)。ただ、そうは言っても他の命を犠牲にするものである以上、過剰を消尽する(平たく言えば、料理を粗末にせずしっかりと味わい食べ尽くす)ことで折り合いをつけるべきである。

これが私の出しうる、この話題についての答えです。

さらに、敢えて言うなら、この論争は「食のエロティシズム」と「禁欲主義の司祭」との宗教戦争なのかもしれません。

最後に、ただひとつ、この話題における「正解」を挙げるとするならば、プロレタリアートに属する私にとって「フォアグラ」なる食材は縁遠いものである、ということです……。