葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本国憲法と「個人の尊重」

日本国憲法の根本原理は何か。それは、「個人の尊重(個人の尊厳の確保)」です。

これは、近代立憲主義が絶対君主の有する主権を制限し、個人の権利・自由を保護しようとする動きの中で生まれたものであるが、しかし「形だけの近代立憲主義憲法」であった大日本帝国憲法の下では個人の権利・自由が踏みにじられたことから、その反省を踏まえて制定されたのが日本国憲法であるという歴史に鑑みても明らかです。

日本国憲法は、その根本原理である「個人の尊重」を13条で謳っており、それゆえ13条は「基本的人権に関する総則的規定」であるといえます。つまり、例えば21条は「表現の自由」を人権として保障し、25条は「生存権」を人権として保障することで、究極的には「個人の尊重」を実現しようとするものであるといえるのです。さらに、日本国憲法が規定する統治機構も、憲法9条も、究極的には「個人の尊重」の実現を目的とするものであるといえます(特に憲法9条は、戦時中に「国家のために」という名目で個人の尊厳が踏みにじられた歴史に鑑みれば、それが究極的には「個人の尊重」の実現を目的とするものであることがよく分かるでしょう。なお、いうまでもないですが、尊厳を踏みにじられた「個人」は、「日本人」だけではありません。)。

もっとも、人間は個人として生きる存在であるとともに、社会のなかに生きる存在でもありますから、「個人として尊重される」とはいっても、個人の権利・自由が無制限であるというわけではありません。ただ、その制限の根拠も、やはり「個人の尊重」に求めるべきです。

昨今、どうやら「個」に「公」を対置させ、「個」ではなく「公」を出発点に据え、「個」を制限する根拠を「公」に求める考えがもてはやされる風潮があるようです。個人の権利・自由を制限する根拠を「公益及び公の秩序」に求める自民党改憲草案は、まさにそのような考えが尖鋭化したものであるといえるでしょう。たしかに、人間が社会のなかに生きる存在である点を強調すれば、「個」を制限する根拠を「公」に求める考えには説得力があるようにも思えます。しかし、そもそもなぜ、日本国憲法は「個人の尊重」を謳ったのでしょうか。それは、大日本帝国憲法の下で「公共ノ安寧秩序」や「公益ノ為」という名目によって個人の権利・自由が踏みにじられた歴史があるからです。しかるに、「個」ではなく「公」を出発点に据え、「個」を制限する根拠を「公」に求めるとすれば、また同じ過ちを繰り返すことになりかねません。

日本国憲法は、13条の前段で「個人の尊重」を、後段で「(個人の権利・自由に対する)『公共の福祉』による制限」を規定しています。思うに、これらは別個のものではなく、一体のものとして考えるべきです。すなわち、「個人として尊重されるが、個人の権利・自由は無制限ではな」く、「個人の権利・自由は無制限ではないが、個人として尊重される」ことに変わりはない、ということです(この点に関しては、自民党改憲草案の13条が「個人として尊重される」ではなく「人として尊重される」と規定していることに注目してください。自民党にとって、「個人の尊重」は個人の権利・自由を制限するうえで「荷厄介な代物」なのでしょう。)。

もっとも、この点に関しては、「公共の福祉」という言葉から、やはり日本国憲法も個人の権利・自由を制限する根拠を「公」に求めているのではないか、と思う人がいるかもしれません。たしかに、「公共の福祉」を個人の人権から離れて存在する制約原理であると考える見解がないわけではありません。しかし、大日本帝国憲法の下で「公共ノ安寧秩序」や「公益ノ為」という名目によって個人の権利・自由が踏みにじられた歴史に鑑みて、「公共の福祉」とは「すべての人権に論理必然的に内在している、人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である」と解するのが通説です。ただ、そうだとしても「すべての人権に論理必然的に内在している」というのは人権が社会性を有するということであるのだから、やはり個人の権利・自由を制限する根拠は「公」に求められるのではないか、と考える人もいるかもしれません。もちろん、前述のとおり人間は個人として生きる存在であるとともに、社会のなかに生きる存在でもあるゆえ、個人の人権が社会性を帯びるものであるというのは間違いではありません。しかし、社会において人権の矛盾・衝突が実質的公平の原理によって調整されるのは、(人権が普遍的なものであるゆえに)「自己が個人として尊重されるのだから、他者も当然に個人として尊重される」からです。つまり、個人の人権が社会性を帯びるものであったとしても、あくまでも「出発点」は「個人の尊重」なのです。

 

参考:日本国憲法改正草案 | 自由民主党 憲法改正推進本部

「多数決」は民主主義の本質ではない

「民主主義の本質」について、「民主主義=多数決」であると考えている人は、おそらく少なくないでしょう。たしかに、代表民主制においては決議の方法としてたいてい多数決が採用されていますし、また、「小学校で『民主主義=多数決』であると習ったから」と言う人もいるのでしょう。しかし、「民主主義=多数決」というのは、大きな誤解なのです。

「民主主義=多数決」であると信じて疑わない人は、まずは「民主主義」という言葉を素直に読んでみてください。そうして、「民主主義」とは文字通りに読めば、「民」が「主」であるという建前です。ここで注意すべき点は、「民」が「主」であるということは、「民」が“主人”であるからといって他者を服従させることができるということではなく、「民」の“主人”は「民」である自分自身であり、何者にも隷属しないということです。このことを講学上「治者と被治者の自同性」といいます。

そもそも、民主主義はそれ自体が目的ではなく、その究極の目的は「個人の尊厳」を確保することです。そうだとすれば、民主主義においては「民」の一人ひとりが意思決定の「主体」なのですから、意思決定の方法も本来的には多数決ではなく全会一致であるのが民主主義の理念にかなうといえます。つまり、「民主主義」と「多数決」の関係には、なんら必然性はないのです。

しかしながら、現実には、多人数からなる会議体において意思決定を全会一致によって行うのは非常に困難です。それゆえ、いわば「次善の策」として、意思決定を多数決によって行うのです。つまり、「多数決」は民主主義における意思決定の方法の一つにすぎないのであって、民主主義の本質ではないということです。

もっとも、現実的に多数決を採用せざるをえないとしても、多数決は結果的に少数意見を切り捨てるものですから、民主主義においては「民」の一人ひとりが意思決定の「主体」であるということと本来的には矛盾するものであるといえます。そこで、この矛盾を可及的に解消するべく、多数派は少数派の意見も尊重し、折り合いをつけるべく、十分な議論を尽くすことが必要となるのです。つまり、多数決の結果が正当性を持ちうるためには、十分な議論が尽くされなければなりません。しかるに、残念ながら「民主主義=多数決」という誤解が支配的である昨今の日本では、この大切なことが看過されてしまっています。「少数派の意見を尊重した十分な議論」を欠く多数決は、よく言われるように「数の暴力」でしかありません。

さて、「民主主義=多数決」であるという誤解に便乗して傍若無人に振る舞う(もっとも、どうやら安倍首相本人が「民主主義=多数決」であると誤解しているようですが……)安倍政権ですが、その安倍政権に批判的な人からは、「言うこと聞かせる番だ、(主権者である)俺たちが」という声がしばしば聞かれます。もちろん、そう言いたい真情は理解できますが、しかし、それもまた「民主主義」を誤解したものであるといえます。

前述したように、「民」が「主」であるということは、「民」の“主人”は「民」である自分自身であり、何者にも隷属しないということであって、「民」が“主人”であるからといって他者を服従させることができるということではありません。しかるに、「言うこと聞かせる番だ、(主権者である)俺たちが」というのは、民主主義を「民」が“主人”であるからといって他者を服従させることができると誤解したものであるといえます。「安倍政権批判」の文脈では分かりづらいかもしれませんが、「言うこと聞かせる番だ、(主権者である)俺たちが」というのが「マイノリティは主権者であるマジョリティな俺たちの言うことを聞け」ということまでも許容しうるものである(たとえ、そんな「心算」がなかったとしても)ことを考えれば、その危うさが分かるかと思います。

あなたが「民主主義者」であるならば、言うべきことは「言うこと聞かせる番だ、(主権者である)俺たちが」ではなく、「民主主義の場では、私のことは私が決めるのだから、安倍政権は勝手に決めるな。それでも安倍政権が勝手に決め続けるのならば、安倍政権は民主主義の場から退場しろ!」ということです。

ところで、巷でまことしやかに語られる「デモは民主主義ではない」という言説が誤解であることは、本稿をここまでお読みいただければ。もうお分かりでしょう。「民主主義=多数決」ではなく、民主主義においては「民」の一人ひとりが「主」であって何者にも隷属しないということに鑑みれば、「少数派の意見を尊重した十分な議論」を欠く多数決の結果に少数派である一人ひとりの「民」が服従しなければならない理由などどこにもないのです。それどころか、「治者」と「被治者」が乖離してしまった場合にあっては、「デモ」は「主」である「民」が「治者」と「被治者」の自同性を回復するための重要な手段であるといえます。つまり、デモは「民主主義ではない」どころか、むしろ「民主主義」を実現するための重要な手段の一つなのです(もちろん、それが唯一絶対の手段ではないことは、言うまでもありません。)。

とまれ、昨今の日本では、どうも「民主主義」という言葉が“なんとなく”使われてしまっているような気がしてなりません。「民主主義」を論ずるにあたっては、やはり「民主主義」という言葉の意義に常に立ち返ることが大切です。

「内地」という言葉

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この記事は大変示唆に富んでおり、岸政彦先生のおっしゃることにも異存があるどころか、むしろ感銘を受けました。

しかしながら、「内地」という言葉がためらいなく使われている点だけは、どうしても違和感を禁じ得ません。

誤解のないようにお断りしておきますが、私は沖縄や北海道で「内地」という言葉が日常的に使われていることを問いたいのではありません。私は、「“内地”の人間」が「内地」という言葉をためらいなく使うことが、はたして妥当であるかを問いたいのです。

そもそも「内地」とは、歴史的には(大日本帝国に占拠されていた)朝鮮や台湾、南洋諸島などといった「外地」に対する大日本帝国の「本土」を意味する言葉です。もっとも、現在の沖縄や北海道では「内地」という言葉の差別性は忘却されて使われているのかもしれません。しかし、だからといって「内地」という言葉に差別的ニュアンスがないと言うのは、「支那という言葉は差別用語ではない」と言うのと同じようなものであると思います。

そうはいっても、たしかに沖縄や北海道では、「内地」という言葉は日常的に使われているでしょう。しかし、だからといって「“内地”の人間」が「内地」という言葉をためらいなく使うことが妥当であるとは、私は思いません。沖縄の人に沖縄県外を「内地」と呼ばせたのは、いったい誰でしょうか。「内地」という言葉をためらいなく使う「“内地”の人間」にとって、いったいいつまで沖縄は「外地」なのでしょうか。上記記事中で岸先生の著書の「沖縄の人々が内地を区別しているのではなく、沖縄という地域が、日本という国の中で、区別されているからである。あるいは、『差別』と言ってもよい。」という一文が引用されていますが、沖縄の人に沖縄県外を「内地」と呼ぶのは、まさに「沖縄という地域が、日本という国の中で、区別(差別)されているから」ではないでしょうか。そうだとすれば、「“内地”の人間」が「内地」という言葉をためらいなく使うことは、やはり「差別」に無頓着であると言わざるを得ません。

もっとも、沖縄が「外地」ではないからといって、私は「沖縄は当然に日本である」というつもりはありません。なぜなら、沖縄が「日本」であるか否かは、沖縄の人が決めることだからであり、私のような「ヤマト」の人間が沖縄が「日本」であるか否かを語るのは、それこそ岸先生のおっしゃる“沖縄を「勝手に語る」”ことであると思います。

「内地」という言葉をためらいなく使う「“内地”の人」は、どうか「内地」という言葉の意味を今一度よく考えてみてください。そしてまた、できれば「内地」という言葉を日常的に使う沖縄や北海道の人にも、「内地」という言葉の意味を今一度考えていただければと思います。たとえ「内地」という言葉の歴史的な意味が忘却されたとしても、歴史そのものが消えてなくなるわけではないのですから。

 

日本における民族差別の本質的な原因について

日本における民族差別の本質的な原因を「日本人の民族性」に求める人がいます。もしかすると、リベラルな人の中にはこれを「正答」だと思う人も少なくないかもしれません。しかし、私はそれには賛同できません。誤解しないでください、私は「日本における民族差別の本質的な原因を『日本人の民族性』に求めるのは日本人差別だ」などと言いたいのではありません。日本における民族差別の本質的な原因を「日本人の民族性」に求めるのは「問題の本質」を見誤ったものであるから、私は賛同できないのです。

思うに、日本における民族差別の本質的な原因を「日本人の民族性」という自然的なものに求めるとすれば、それは「自然的なものならば仕方がない」という絶望に通じていきかねません。また、もし日本における民族差別の本質的な原因が「日本人の民族性」であるならば、日本における民族差別をなくすためには「日本人の民族性」を否定する必要がありますが、しかしそれでは「反民族差別」が拠って立つ「民族の尊重」という普遍的価値を否定することになってしまいます。こうして考えてみると、日本における民族差別の本質的な原因を「日本人の民族性」という自然的なものに求めるのは、やはり間違いであると言わざるを得ないでしょう。

民族差別の本質的な原因を「日本人の民族性」という自然的なものに求めるのが間違いであるとして、それでは日本における民族差別の本質的な原因はいったい何か。思うに、日本における民族差別は、それを必要としている者、すなわち「国家権力」によって作られたものです。「国家権力」が「同化と排除の論理」で貫かれた日本社会の差別構造を作り上げるから、そこで生きる「日本国民」は「他民族」を差別するのです。そうであれば、日本における民族差別をなくすためには、「国家権力」によって作り上げられた日本社会の差別構造を壊す必要があります。そして、それが「国家権力」によって作られたものであれば、私たち人民はそれを壊すことができるのです。

私たちは、「自由な人間」であるがゆえに「差別主義者」であることもできるのでしょうが、「差別主義者」は権力によって作られた社会の差別構造に囚われているという点で、「もはや自由を失った人間」であるといえます。つまり、たとえ「差別主義者になる自由」があるとしても、「差別する自由」はないのです。なぜなら、「差別主義者」は「自由な人間」ではないのですから。

あなたは「自由な人間」として、権力によって作られた社会の差別構造に囚われた不自由な人間である差別主義者になることを選びますか?それとも、自由な人間であり続けるために、権力によって作られた社会の差別構造に抗いこれを壊すことを選びますか?もちろん、私は「自由な人間」として、自由な人間であるつづけるために、権力によって作られた社会の差別構造に抗い、これを壊すことを選びます。

 

 

前エントリ「税関当局による朝鮮高校修学旅行土産の不当没収に断固抗議する」について若干の補足

yukito-ashibe.hatenablog.com

税関当局にによる朝鮮高校修学旅行土産の不当没収について、「日本は“法治国家”なのだから、没収されて当然だ」などと言う人がいます。そのようなことを言う人は、おそらく不当没収に対する抗議を「感情論」だと思っているのでしょう。

しかしながら、それは誤解です。私は、「修学旅行のお土産くらい見逃してあげればいいのに、税関当局には血も涙もないのか」というような人情論で税関当局の不当没収に抗議しているのではありません。修学旅行のお土産を没収することがはたして(“経済制裁”の妥当性はさておき)“経済制裁”の法的根拠である外為法の趣旨に適うのか、甚だ疑問であり、修学旅行のお土産を没収することが法の趣旨を逸脱するものであれば、それは人格権および財産権を侵害する違憲なものでしかないから、私は抗議するのです。

「日本は“法治国家”なのだから」という言葉を使いたがる人は、もしかすると税関や警察といった公権力のすることは常に正しいと思っているのかもしれませんが、それは大きな誤解です。公権力のすることが常に正しいのであるならば、そもそも憲法など必要ありません。つまり、公権力によって個人の人権が侵害されることがあるからこそ、個人の人権を保障する憲法が必要なのです。

日本は、たしかに「法治国家」でしょうが、しかし、それのみならず「法の支配」の原理(専断的な国家権力の支配を排し、権力を法(ここにいう「法」は、議会で制定される、いわゆる「法律」のことではありません。)で拘束する原理)を採用している国家であるはずです。そうであれば、「没収されて当然」ではなく、むしろ人格権および財産権を侵害する違憲な没収は許されないのが当然なのです。

税関当局による朝鮮高校修学旅行土産の不当没収に断固抗議する

修学旅行で北朝鮮土産「税関が不当に押収」 総連が抗議:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASL6Y5SB8L6YUTIL036.html

 

この事件に関して、案の定というか、残念ながら「法的根拠があるのだから税関による没収は正当だ」などという声が散見されます。

しかし、そもそも日本政府が「経済制裁」の根拠とする、外国為替及び外国貿易法外為法)による規制の趣旨は、「我が国(日本)の平和及び安全の維持」であって*1、決して「北朝鮮敵視」ではないはずです。そうして、コリア半島の和平が進展するなか、今後の朝日和平において在日コリアンの若者が朝鮮と日本の「かけはし」となる点に鑑みれば、税関当局が「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言わんばかりに朝鮮高校生の朝鮮修学旅行土産を没収するというのは、「我が国の平和及び安全の維持」に資するどころか、むしろマイナスであるといえます。したがって、今回の税関当局による没収は、たとえ「経済制裁」に基づく措置一般に法的根拠があったとしても、法の趣旨を逸脱する不当なものであると言わざるを得ません。

それとも、日本政府は、「北朝鮮」にかかわるものを全て敵視し排除するのが「我が国の平和及び安全の維持」に資するとでもいうのでしょうか。そのような排外主義的で好戦的な態度は、東アジアの和平にとって脅威以外の何ものでもありません。

もっとも、おそらく税関当局も、朝鮮高校生の朝鮮修学旅行土産を没収することが不当であることをうすうす分かっているのでしょう。だからこそ、任意放棄を強要するという卑劣な手段を用いたのだと思います。このような卑劣な手段を用いることは、憲法の適正手続条項に違反するものであって、決して許されるものではありません。

今回の税関当局による没収は、たとえ「経済制裁」(もっとも、私に言わせればそれは「経済制裁」に名を借りた「帝国主義的暴力」です。)に法的根拠があるとしても、朝鮮高校の学生の人権を踏みにじる違憲な処分です。税関当局および経済産業省は、今回の不当没収について朝鮮高校の学生の皆さんに真摯に謝罪し、不当没収を二度と行わないことを確約しなければなりません。

もっとも、今回の問題は、決して税関当局や経済産業省だけの問題ではありません。今回の不当没収のような日本政府の在日コリアンに対する人権侵害を支えているのは、紛れもなく「日本国民」です。「日本国民」が日本政府の在日コリアンに対する人権侵害を許容するから、日本政府の在日コリアンに対する人権侵害が増長するのです。

以上、私は本稿をもって、税関当局による朝鮮高校修学旅行土産の不当没収に断固抗議します。私は、朝鮮高校の学生の人権を踏みにじる日本政府の卑劣な行為を、絶対に許しません。

 

 

*1:外国為替及び外国貿易法 第10条〉 我が国の平和及び安全の維持のため特に必要があるときは、閣議において、対応措置(この項の規定による閣議決定に基づき主務大臣により行われる第16条第1項、第21条第1項、第23条第4項、第24条第1項、第25条第6項、第48条第3項及び第52条の規定による措置をいう。)を講ずべきことを決定することができる。

「旭日旗問題」は、「日本人自身の問題」である。

サッカーの国際試合等でしばしば問題になる「旭日旗の使用」ですが、なぜ旭日旗を使用することが問題なのかと問えば、おそらく日本人の多くは「韓国に非難されるから」と答えるでしょう。そのような答えは、裏を返せば「(旭日旗の使用は)韓国さえ非難しなければ、そもそも何の問題にもならない」と主張するものだといえます。実際に「旭日旗そのものに問題はなく、韓国が旭日旗を戦犯旗だと一方的に問題視するから問題化してしまうのである」などという主張や、「旭日旗は韓国以外の国では特に問題とされていない」などという主張も見受けられます。

旭日旗」に対する問題提起の多くが韓国からなされるのは、たしかにそうでしょう。しかし、私は「旭日旗そのものに問題はなく、韓国が旭日旗を戦犯旗だと一方的に問題視するから問題化してしまうのである」などという主張には、到底賛同できません。

思うに、「旭日旗の使用」は「韓国に非難されるから」問題なのではありません。韓国に非難されようがされまいが、「旭日旗の使用」はそれ自体が問題なのです。つまり、「旭日旗問題」は、「日本人はいつまで過去の日本の侵略戦争を美化し、正当化し続けるのか」という「日本人自身の問題」なのです(なお、旭日旗が過去の日本の侵略戦争の象徴であったという歴史的事実を否定するような言説は、そもそも論外です。)。

繰り返しますが、「韓国が非難するしない」は、そもそも問題ではありません。日本人が本当に過去の侵略戦争と決別したというのならば、韓国に非難されようとされまいと、日本人自らの手で「旭日旗」を焼き払わなければならないのです。しかるに、日本人がなおも旭日旗を振り続けるのであれば、日本人が過去の日本の侵略戦争と決別したというのも所詮は「口からでまかせ」だということになりますが、はたして日本人は本当にそれで良いのでしょうか。