葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「民族差別は善である」という価値観の転倒について

職場や学校、あるいは家庭で、まるで天気の話でもするかのように「普通の日本人」が他民族を蔑視ないしは差別する言葉を発するのを耳にしたことがあるのは、おそらく私だけではないでしょう。

残念ながら、日本社会では「民族差別は悪である」という価値観が共有されず、むしろ「民族差別は善である」という価値観が共有されているように思えてなりません。思うに、それは「日本」という国民国家が民族差別を存立の拠り所としてきたというのもあるでしょうが、「国民」の価値観の形成に寄与するマスメディアの態度も大きな要因であるといえるでしょう。すなわち、マスメディアは、「国民」に対して「民族差別は悪である」というメッセージを明確に発しないどころか、むしろ無頓着に、あるいは巧妙に民族差別を煽動しています(私の知る限りでは、「民族差別は悪である」というメッセージを明確に発し続けているのは神奈川新聞だけです。)。もっとも、いわゆる大手リベラルメディアも、ときどき思い出したように「ヘイトスピーチ、許さない」と訴えてはいます。しかし、同じ口で(しかも上品な語り口で)民族差別を煽るといった体たらくです。

とまれ、もし本当に日本社会が「人権」という人類の普遍的価値を共有する社会であるならば、「民族差別は善である」という転倒した価値観と決別し「民族差別は悪である」という価値観を回復するためにも、マスメディアには広く「国民」に対して「民族差別は悪である」というメッセージを明確に発し続けてもらいたいと思います。もちろん、私たち一人ひとりが「民族差別は悪である」という価値観を共有し、「民族差別は悪である」と訴え続ける必要があることは、言うまでもありません。

それは、あなたが「国民」だからです。

あなたの「(日本)国民の常識感覚」からすれば何の問題もない言動が、「他者」から差別的であると批判されたとします。もしかすると、あなたは「国民の常識感覚からすれば何もおかしいことはなく、差別などではない(すなわち、国民の常識感覚からすれば差別だなどというのがおかしい)」と反論するかもしれません。

たしかに、「国民の常識感覚」からすれば何の問題もないのでしょうし、おそらく「国民」の多数もあなたと同じように考えるでしょう。しかし、だからといってそれが「真理」だなどと誤解してはなりません。つまり、あなたが「国民の常識感覚」を「正しい」と思うのは、あなたが「特権者」である「国民」だからです。「他者」を踏みつけている「特権者」だからこそ、「国民の常識感覚」からすれば何の問題もないなどと平気な顔で言えるのです。

もっとも、かく言う私も「特権者」である「国民」です。しかし、そんな私でも「他者」への想像力を働かせることはできます。しかるに、「他者」への想像力を働かせることを怠り、「国民の常識感覚からすれば何もおかしいことはなく、差別などではない」と言い放つのは、「国民の傲慢」と言わざるを得ないでしょう。

「ヘイトスピーチ」と「オタク」について

巷で繰り広げられている「ヘイトスピーチ」と「オタク」の関係についての議論は、どうも私にはいささか「雑な議論」に思えます。

たしかに、オタク趣味者が民族差別的な言動をとったからといって、それを直ちに「オタクの問題」とするのは間違いでしょう。

しかし、オタク趣味者が「アニメや漫画の表現の自由を守るためには、ヘイトスピーチの自由も守らなければならない」と主張し、ヘイトスピーチを許容する態度をとることは、紛れもなく「オタクの問題」です。しかるに、それさえも「オタクの問題」と捉えないのであれば、それはあまりにも「無責任」だといえます。思うに、オタク趣味のためにヘイトスピーチを許容するオタク趣味者の態度を「オタクの問題」として批判することは、決して「オタクに対する偏見」によるものなどではありません。なぜなら、むしろオタク趣味者こそ、オタク趣味の自由を守るためにも、(オタク趣味のために)ヘイトスピーチを許容するオタク趣味者の態度を「自己批判」すべきだからです。

もっとも、「オタク」をコミュニティとして捉え、そのコミュニティが総体的に民族差別に対して寛容であるならば、それを「オタクの問題」として論じることは間違いではないと思います。例えば、「オタク」が被差別グループだというのなら(なお、私は「オタク差別」の存在には懐疑的です。しかし、客観的な問題としての「オタク差別」はなくても、主観的な問題としての「オタク蔑視」はあると思います。)、なぜ差別の愚劣さを知りながら民族差別的な言動をとるのか、というように。つまり、もし「オタク」という属性が被差別的属性であるなら、「オタク」だからこそ差別に対して厳然とした態度をとるべきでしょうが、そのように「オタク」という属性を問題とする点で、「オタクの問題」だということです。また、「オタク的コンテンツ」が内包する性差別的要素を「オタクの問題」として論じるのも間違いではありませんが、その点の議論については本稿では割愛いたします。

他方、「日本国民の差別性」を「オタクの差別性」に矮小化するのも、これもまた間違いです。もっとも、これに対して「『人間の差別性』を『日本国民』の差別性に矮小化するのも間違いだ」という人がいるかもしれませんが、それは誤解です。なぜなら、「日本国民の差別性」は生来的なものではなく、「日本」という国民国家によって作られたものなのですから。

とまれ、私は一人のオタク趣味者として、「オタク的表現」の自由を守るためにも、表現の自由の価値を傷つけるヘイトスピーチを断固として許しません。

「平和の少女像」は、「日本」が向き合わなければならない「歴史」である。

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先般、韓国を旅した私は、在韓(ソウル)日本大使館“前”の「平和の少女」像を訪問しました。

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大使館“前”とはいっても、ご覧のとおり、それは比較的広い道路を隔てた場所です。そのような場所で、静かに(しかし、力強い意志のこもったまなざしで)対峙する小さな「平和の少女」の、いったい何を日本政府は恐れているのでしょうか。ご存知のように、日本政府は「平和の少女」像を「公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害(であり、外交関係に関するウィーン条約に違反する)」だなどと攻撃しています。しかし、実際に現地を訪問してみれば、「平和の少女」像の存在が「公館の安寧を妨害」するなどというのが、いかに馬鹿げた話であるか分かるでしょう。

思うに、日本政府が恐れているのは、「平和の少女」像が象徴する「戦時性暴力」という日本の「負の歴史」と向き合うことで、日本の「虚栄心」が傷つくことです。そもそも、なぜ日本政府は、「平和の少女」像が日本大使館の威厳を侵害するなどというのでしょうか。「平和の少女」像が象徴する「戦時性暴力」という日本の「負の歴史」と向き合うことは、日本という国の威厳を高めこそすれ、低めるものではないはずです。つまり、「負の歴史」と向き合うことで損なわれるような「威厳」など、所詮は虚栄でしかないということです。

警察車両を何台も並べた厳重な警備は、おそらく日本政府が韓国の警察当局に要請したものでしょう。どうやら、日本政府は「平和の少女」のまなざしに怯えているようですが、日本政府がとらわれている恐怖は、「平和の少女」の存在によって生み出されたものではなく、他でもない日本の「虚栄心」によって生み出されたものです。また、何台も並べられた警察車両によって日本大使館から「平和の少女」の姿が見えなくなったとしても、決して「平和の少女」の存在が無くなるわけではありません。いくら日本政府が「負の歴史」を隠蔽したところで、史実が無くなるわけではないのと同じように。

残念ながら、「平和の少女」を敵視する日本国民は少なくないでしょうが、「平和の少女」は、決して「日本」が対峙すべき「敵」などではありません。本当に「日本」が対峙し克服すべき「敵」は、「日本」の内にあります。それは、戦時性暴力という「負の歴史」を隠蔽し、あるいは正当化せんとする「虚栄心」です。「平和の少女」は、日本国民の「敵」であるどころか、むしろ日本国民が一人の人間として「内なる敵」と闘い、克服するための「力強い味方」なのです。

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なお、私は微力ながら連帯の意志を表して、署名とカンパをしました。今後も、私にできることをしていきたいと思います。

自民党政権がめざすのは「改憲」ではなく、「壊憲」である。

自民党政権がめざすのは『改憲』ではなく、『壊憲』である」などと言うと、おそらく自民党政権の支持者は、私が自民党政権のことが嫌いだからそのようなことを言うのだと思うでしょう。しかし、私は決して「好き嫌い」の問題としてそのようなことを言うのではありません。もし野党が自民党のものと同じような改憲草案を提示したとしても、私は同じように批判します。私がなぜ「自民党政権がめざすのは『改憲』ではなく、『壊憲』である」などと言うのか、それは次のような理由によります。

近代的な憲法は、国家権力を制限し、個人の人権を守るものです。しかるに、自民党改憲草案は、「公益」の名で呼ぶ国家の利益を守るためであれば、個人の人権を制限することもためらいません(例えば、包括的な制限規定である12条、表現の自由を制限する21条2項)*1。つまり、憲法を「国家権力」ではなく「個人」を縛るものだとする自民党改憲草案は、近代的な憲法の本質に反するものであるといえます。

もっとも、自民党政権とその支持者は、そもそも「近代的な憲法は、国家権力を制限し、個人の人権を守るものである」という考え方が間違いである、と言うかもしれません。実際、安倍首相は「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか」と述べています*2。つまり、近代的な憲法の意義を真っ向から否定するということです。しかし、それは現在もなお個人の人権が国家権力によって脅かされている(そして、それは他でもない自民党政権がしていることです)ことを不当に軽視するものであって、憲法を無意義なものとするものです。「日本という国の形、そして理想と未来を語る」ことは、何も憲法でそれをする必要はありません。どうしても語りたいのならば、法律で語ればよろしい(誤解のないように言っておきますが、もちろん私は、そのようなファシズム的な法律の制定には反対です。もっとも、そのようなファシズム的な法律は、すでに制定されてしまっていますが……)。法律ではできないことがあるからこそ、憲法が必要なのです。すなわち、現在もなお個人の人権が国家権力によって脅かされているからこそ、憲法が必要なのです。それにもかかわらず、近代的な憲法の意義を真っ向から否定するのは、まさしく憲法を破壊する「壊憲」であるといえます。

もちろん、「再構築」のためには「破壊」が必要となることがあるのは否定しません。しかし、自民党政権が行う「破壊」がもたらすのは、決して「再生」ではなく、「ニヒリズム」でしかないでしょう。そうだとすれば、一度「壊憲」されてしまうと、取り返しのつかないことになります。

「護憲」と「改憲」について非常に誤解が多いですが(もっとも、それは「護憲派」にも責任があります)、「護憲」と「改憲」は決して相容れないものでありません。「護憲」とは、字義どおり「憲法を護る」ことであって、憲法を全く変えないことではありません。「個人の人権を守る」という憲法の趣旨を護るためであれば、「改憲」も当然許されるのです。自民党政権の「改憲」が許されるべきではないのは、それが「個人の人権を守る」という憲法の趣旨を壊すものだからです。

表現の自由は、「ヘイトスピーチの自由」を守るためのものではない。

「イオ信組放火事件」*1や「朝鮮総連銃撃事件」*2などからもわかるように、ヘイトクライムが「いま、ここにある危険」となった現在も、まだ「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言ってはばからない人が少なくありません。

たしかに、「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」というのは、一見「表現の自由」の保障に重きを置くものであるように思えるかもしれません。しかし、はたして本当にそうでしょうか。

そもそも、なぜ日本国憲法は、「表現の自由」を人権として保障したのでしょうか。思うにそれは、表現の自由自己実現の価値(個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値)と自己統治の価値(言論活動によって個人が政治的意思決定に関与するという,民主政に資する社会的な価値)を有するからであり、これらの価値を守ることで、究極的には「個人の尊厳」を確保せんとする趣旨です。そうだとすれば、個人の尊厳を踏みにじるヘイトスピーチは、日本国憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨に悖るものであり、そのようなものが「表現の自由」として保障されるとするのは、「表現の自由」の保障に重きを置くものであるどころか、むしろ「表現の自由」の保障を軽んずるものであるといえます。

ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言ってはばからない人は、「自由」の意味を履き違えています。「自由」は、決して「傍若無人に振舞うことが許される特権」などではありません。「自由」が保障されるのは、何人も個人として尊重されるからです。あなたが「個人」として尊重されるのと同時に、他者も「個人」として尊重されるのです。それゆえ、あなたが「個人の尊厳」を踏みにじられないことを他者に求めるのであれば、あなたも他者の「個人の尊厳」を踏みにじってはならないのです。

もっとも、「ヘイトスピーチの自由も表現の自由として保障される」と言うような人は、「ヘイトスピーチは『個人』の権利を侵害するものではない」とも言うでしょう。たしかに、その点については議論があるのはたしかです。しかし、「ヘイトスピーチは『個人』の権利を侵害するものではない」などと言う人には、ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられる人の姿が見えていません。ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられるのは、たとえば「在日コリアン」という抽象的な「記号的存在」ではありません。ヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられるのは、一人ひとり、名前も、性別も、年齢も、声も、容姿も異なる、生身の人間なのです。

表現の自由を守るためには、ヘイトスピーチの自由も守らなければならない」などという詭弁は、もうやめにしましょう。「ヘイトスピーチの自由」を守るということは、「表現の自由」を守ることなどではなく、むしろ「表現の自由」を殺し、「人間」を殺すことなのです。あなたが本当に「表現の自由」を守りたいのであれば、どうかそのことを忘れないでください。

 

 

「日本は民主主義国家である」と信じて疑わない「日本国民」に、伝えたいこと。

おそらく、「日本国民」の多くが「日本は民主主義国家である」と信じて疑わないでしょう。たしかに、日本は政体として代表民主制を採用していますから、その限りでは「日本は民主主義国家である」と言えるかもしれません。しかし、民主主義の本質に鑑みると、私は「日本は民主主義国家である」と言い切ることに、どうしても躊躇いを覚えます。

民主主義は、「治者と被治者の自同性」すなわち治めるものと治められる者が同一であることをその本質としますが、はたして日本では、「治者と被治者の自同性」が実現されているといえるでしょうか。この点に関しては、たしかに「日本国民」に限って言えば「治者と被治者の自同性」が実現されているといえるでしょう。しかし、他方で「日本国民」と同じように日本という国で生まれ、「日本国民」と同じように日本という国で生活し、「日本国民」と全く同じ義務を負わされてるにもかかわらず、「『日本国民』ではない」というただそれだけの理由で治者の地位を奪われている被治者が存在することを、決して看過してはなりません。つまり、日本では未だ完全に「治者と被治者の自同性」が実現されてはおらず、それゆえに「日本は民主主義国家である」と言い切ることはできないのです。

私自身は、日本という国で生まれ、日本という国で生活している「日本国民」です。しかし、だからといって、私の「ルーツ」は日本だけではありません。私は、日本の他に韓国を「ルーツ」とする人間です。そのような私が「日本国民」であるのは、父親が「日本国民」だという、ただそれだけのことであって、それ以外に、私と同じように日本という国で生まれ、日本という国で生活している「韓国を『ルーツ』とする人」と異なる点はありません。それなのに、親が「日本国民ではない」という、ただそれだけの理由で治者の地位を奪われている人が、この国には存在するのです。はたしてそのような国が、真の「民主主義国家」であるといえるでしょうか。

もっとも、そうだからいって「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと言うのも問題です。なぜなら、今日までの「日本国民」は、「同化と排除の論理」に貫かれた概念であるからです。それゆえ、今日までの「日本国民」の概念を、「共生の論理」に基づき新しく構築しなおすことなしに「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと言うことはできません。つまり、「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと軽々しく言うのは、マジョリティの傲慢以外の何ものでもないということです。

“3.11”以降、「民主主義」という言葉がよく聞かれるようになりました。もちろん、それ自体は歓迎すべき変化だと思います。しかし、民主主義を唱える人々の口から発せられる「民主主義は主権者である国民が作る」という言葉を聞いてしまうと、どうしても彼らの唱える「民主主義」に疑問を禁じえません。たしかに、「民主主義国家」においては主権は国民にあるでしょう。しかし、主権が国民にあったとしても、治者ではない被治者が存在するのであれば、民主主義が完全に実現されているとはいえません。民主主義を完全に実現するには、「治者と被治者の自同性」を回復するという「縦の関係」で民主化するだけではなく、「治者」ではない「被治者」を生み出すようなシステムを変えるという「横の関係」で民主化することも必要なのです。

安倍政権倒閣の気運が高まる今、安倍政権を倒し真の民主主義を実現するためにも、いま改めて「民主主義」の意義を問い直してみませんか?