葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「戦争と女性の人権博物館」を訪問見学しました。

先日、私は韓国・ソウルを旅行し、「戦争と女性の人権博物館」を訪問見学しました。

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恥を忍んで告白しますが、日本軍性奴隷問題に関する私の「知識」は、決して十分なものではありません。もちろん、新聞の報道や書籍によって得た、基本的な「知識」は持ち合わせているつもりです。しかし、そうして得た「知識」は客観性を僭称するものであるがゆえに、いくら基本的な「知識」は持ち合わせたところで、私は日本軍性奴隷問題を他人事のようにしか捉えていなかったのだと思います。

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もっとも、私は「男」ですから、被害者の「痛み」を想像はできても感じることはできません。また、「男」である私が「被害者に寄り添う」などと軽々しく言うのも、欺瞞的であると私は思います。

ですが、私が「男」であるからこそ、日本軍性奴隷問題は私にとって決して他人事ではないのです。というのは、「日本」という国で「男」として生まれ、「男」として生きる私は、紛うことなき「潜在的な加害者」なのですから。

誤解しないでいただきたいのは、私は決して性暴力を肯定するつもりはありません。しかし、いかなる状況においても自分だけは加害者にはならないなどと軽々しく言うこともできません。やはり、「日本」という国で「男」として生まれ、「男」として生きる存在である以上「潜在的な加害者」であることそれ自体は認め、それと同時に、性暴力があたかも「道徳的」であるかのような価値観を拒絶することが必要なのではないか、そう思うのです(なお、矛盾しているように思われるかもしれませんが、いわゆる「エロティックな表現」を守るためにも、性暴力があたかも「道徳的」であるかのような価値観を拒絶することが必要であると私は考えています。つまり、本稿では深入りしませんが、創作表現の自由を守ることと性暴力があたかも「道徳的」であるかのような価値観を拒絶することは、両立しうるということです。)。

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このように、「日本」という国で「男」として生まれ、「男」として生きる存在であるゆえに、日本軍性奴隷問題の「当事者」である私は、なによりもまず、被害者であるハルモニと、ハルモニの闘いを支える人々の「声」を真摯に聞こうと思います。それは、私が「日本」という国で「男」として生きることを選んだ責任として、そして究極的には、他でもない私自身が、尊厳ある一人の人間として生きるために。

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以上が、日本軍性奴隷問題に関する、今の私の率直な思いです。

なお、微力ながら連帯の意思表明として、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)の日本政府に対する抗議声明に署名しました。私は、今後も挺対協の活動を支持します。

 

 

 

「戦争と女性の人権博物館」日本建設委員会/自己紹介/博物館案内

map.konest.com

 

小池都知事は、その排外主義的な態度を即刻改めるべきである。

小池都知事「朝鮮学校に都民の税金使えない」 : スポーツ報知 http://www.hochi.co.jp/topics/20160909-OHT1T50050.html

残念ながら、小池都知事のこの発言に違和感を覚えない「都民」は少なくないのかもしれません。

しかし、小池都知事のこの発言が理不尽なものであることは、少し考えれば容易に分かるかと思います。

すなわち、朝鮮学校に子供を通わせている在日朝鮮人の方々も、日本国籍者である「都民」と同様に都民税を負担しています。そうだとすれば、在日朝鮮人の方々が納めた都民税も、紛れもなく「都民の税金」であるはずです。それにもかかわらず、どうして小池都知事は「朝鮮学校に都民の税金使えない」などと言うのでしょうか。(都民税を負担しているにもかかわらず)在日朝鮮人の方々は「都民」ではないとでもいうのでしょうか。

小池都知事のこの発言は、「都民の血税の適切な使用」という「正論」を装いながら、その実は在日朝鮮人の排除を目的とする排外主義的なもの以外のなにものでもありません。

韓国学校に関する「ここは東京であり、そして日本」という発言もそうですが、小池都知事の排外主義的な態度にはまったく呆れてしまいます。

そもそも、在日朝鮮人の方々が朝鮮学校を設立するきっかけを生み出したのは、他でもない帝国主義的暴力によって朝鮮民族から言語や文化を奪った「日本」自身です。そうだとすれば、帝国主義的暴力によって朝鮮民族から言語や文化を奪った責任として、むしろ「日本」の政府や自治体は朝鮮学校を支援するのが筋だといえるでしょう。それにもかかわらず、支援するどころか国家をあげてこれを排除しようとすることは、それこそ朝鮮民族の方の主体的な人間としての尊厳を踏みにじる「重大な人権侵害」だと言わざるを得ません。

以前のエントリでも述べましたが、たとえ小池都知事が「民主主義的」な手続(はたして、本当に「民主主義的」であるかはさておき)によって選ばれようと、民主主義は排外主義やレイシズムを許容するものではないのですから、排外主義的な態度が許されることはありません。小池都知事は、その排外主義的な態度を即刻改めるべきです。

私は、本稿をもって小池都知事の一連の排外主義的な発言に断固抗議します。

 

 

 

 

「ぼくらの民主主義」を乗り越えるために

「民主主義」ってなんでしょう?

学生時代から今に至るまで私が学んできた憲法学では、「民主主義」とは「治者と被治者の自同(同一)性」と定義されます。

現在の日本国は「民主主義」の国だと言われますが、そうだとすれば、現在の日本国では、当然に治者と被治者が同一であるはずです。

しかし、現実には、現代日本の「民主主義」制度は、治者ではない被治者を生み出しているという欠陥制度であると言わざるを得ないでしょう。

そのような欠陥制度である現代日本の「民主主義」制度を疑うことなく信奉してきたことを、私はいま、なによりもまず反省しなければなりません。

「ぼくらの民主主義」の場におけるヘゲモニー争いのツケを、現実問題として(ただし、あくまでも現実問題として、です。「民主主義」は、「敗者」に対し「敗けた責任」として「勝者」への隷属を強いることを許容するようなものでは決してありません)「ぼくら」が「ゲームの参加者」ゆえにある程度払わなければならないのは、致し方ないことなのかもしれません。しかし、実際にツケの多くを払わされるのは「ぼくらの民主主義」の場から疎外されている(ゆえに、本来であれば「債務」を負わないはずの)人々である、ということを「ぼくら」はどれほど認識しているでしょうか。

はたしていつまでも、「ぼくら」は「ぼくらの民主主義」の場に安住してしまってよいのでしょうか……いや、そうしてしまったら「ぼくら」は「民主主義」を語る資格を失うでしょう。つまり、治者ではない被治者を生み出しているような「ぼくらの民主主義」は所詮まがい物なのですから、そのような「まがい物」しか知らず、そして「まがい物」を知っただけで満足してしまうような「ぼくら」に、「民主主義」を語る資格などあるはずがない、ということです。

繰り返しになりますが、これまで「ぼくら」の一人として生きてきた私は、現代日本の「民主主義」制度を疑うことなく信奉してきたことを反省し、「ぼくらの民主主義」を乗り越えるための第一歩とする所存です。

 

 

民主主義をレイシズム容認の言い訳にしてはならない

先の東京都知事選では、「ここは日本」だなどという、まるで排外主義者が述べるような理由で東京都による韓国学校の移転支援計画を白紙撤回し、また、街頭演説で「ただただ有耶無耶のなかでどんどんと外国の労働者が増えていくということは、これは治安の関係からも、大いに問題だ」などという、排外思想が透けて見える言説を繰り出した*1小池百合子氏が都知事に当選しました。のみならず、排外主義団体の元会長が都知事選に出馬し、選挙演説に名を借りてヘイトスピーチを繰り出したあげく、当選こそしなかったものの11万票以上を獲得しました。

こうした状況を見て、もはや排外主義やレイシズムは「民意」によって容認された、と考える人がいるかもしれません。しかし、そのような考えは間違いです。

思うに、民主主義とは、平たく言えば一人ひとりが政治の主人公だという建前であって、政治的少数派に対して政治的多数派への隷属を強いるものなどでは決してありません。そして、民主主義が一人ひとりが政治の主人公だという建前であることに鑑みれば、その究極の目的は、個人の尊厳を確保することであるといえます。しかるに、個人の尊厳を確保するための手段である民主主義が、個人の尊厳を踏みにじるものである排外主義やレイシズムを容認すると考えるのは、民主主義の趣旨にもとるものといわざるを得ません。

このように、民主主義は排外主義やレイシズム容認の言い訳には到底なりえません。たとえ排外主義的あるいは人種・民族差別的な政策が政治的多数派の意思に基づくものであったとしても、それに服従するのではなく、むしろそれに対して異議を申し立て、批判し、抵抗することこそが、民主主義の理念に沿うものであると私は思います。

「日本政府による平和の少女像撤去要求問題」は、「表現規制問題」である。

慰安婦への支援事業 韓国に少女像の撤去促す方針 | NHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160813/k10010633561000.html

ソウルの日本大使館前に設置されている「従軍慰安婦平和の少女像」についてひとつ言えることは、この像は日本政府に対する韓国市民の「政治的表現」だということです。そしてそれは、あくまでも日本政府の戦争責任を問うものであって、昨今の日本における韓民族に対するヘイトスピーチのような人間の尊厳を踏みにじるものでは決してありません(従軍慰安婦日本軍性奴隷問題に関する日本政府の責任を問う声を「日本人に対するヘイトスピーチ」だなどと言う極右主義者の妄言には、到底賛同できません。)。

そうだとすれば、そのような韓国市民の「表現の自由」を、日本政府が外交的圧力を用いて間接的にではあるにせよ制約する権限など、いったいどこにあるというのでしょうか。すなわち、日本政府という〈権力〉が外交的圧力を用いて従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求することは、韓国市民の「表現の自由」に対する不当な侵害だということです。

したがって、「日本政府による従軍慰安婦平和の少女像撤去要求問題」に関しては、これを単なる「日韓間の政治・外交問題」としてではなく、「日本政府による韓国市民の『表現の自由』に対する不当な侵害」という「表現規制問題」、すなわち国際的な人権問題として論じる必要があると、私は思います。

そもそも、日本政府は何の合理的理由があって従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求しているのでしょうか。ソウルの日本大使館前に従軍慰安婦平和の少女像が設置されていることで、何か後ろめたさを感じているのでしょうか。それとも、ただ単に「不快」なのでしょうか。しかし、そうだとすると「特定の表現を不快だから排除する」というその態度は、まさしく「表現規制反対派」の人がしばしば批判する「表現規制賛成派」の人の態度そのものではないでしょうか。

いずれにせよ、日本政府は従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求するのであれば、韓国市民の「表現の自由」に対する制約を正当たらしめる合理的理由をしっかりと示すべきです(もっとも、そのような合理的理由など何一つないでしょうが……)。しかるに、「10億円を拠出するのだから」などというのが合理的理由たりえないのは、言うまでもないでしょう。

 

黒田成彦・長崎県平戸市長の発言に断固抗議する

たとえ他国に排外主義者がいたとしても、そのことをもって日本における排外主義やレイシズムを正当化することなど決してできない――市長ともあろう御仁が、なぜそんなことも分からないのでしょうか。

黒田市長の当該発言は、ヘイトスピーチヘイトクライムによる深刻な人権侵害をあまりにも軽視する、非難されてしかるべきものです。

市長が率先してこのような言動をとっていては、せっかくの平戸市人権教育・啓発基本計画も画餅に帰することになりかねません。

黒田市長は、インターネットで「反日デモ」とやらの画像を漁ることを推奨するより前に、市政の最高責任者として、ヘイトスピーチやヘイトデモによって深刻な人権侵害が全国各地で惹起されている昨今の現状をしっかりと認識されたほうがよろしいのではないでしょうか。

私は、本稿をもって黒田市長の当該発言に断固抗議するとともに、平戸市民の皆様にはぜひともこの件に関し賢明なご判断をしていただくことを切に願います。

なお、黒田市長の当該発言を理由に「平戸」そのものを揶揄したりするような言動は、厳に慎まなければならないことは言うまでもありません。

つまるところ、根は同じ――日本社会に蔓延る「差別と排除の論理」

障害者ら刺され19人死亡26人負傷、男逮捕 相模原:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASJ7V2650J7VULOB00C.html

もしかすると、今回の事件を「特異なもの」と感じている人は少なくないかもしれません。

たしかに、その犯行は卑劣かつ残忍なものです。しかし、人間の尊厳を無視し「異物」として排除するという点で、(人命が奪われるまでには至っていないものの)沖縄における日本政府による蛮行、あるいは排外主義団体による民族差別煽動と「根」は同じなのではないでしょうか。

思うに、くれぐれもこの事件に関する議論を、加害者を「異常者」として、日本社会全体に蔓延る「差別と排除の論理」を隠蔽し、あるいはしばしそれを忘却するための「スケープゴート」とするような方向に持っていってはなりません。しかし、残念ながらおそらく、この事件に関するマスメディアの今後の論調は、事件の背景に潜む、日本社会全体を貫いている「差別と排除の論理」を告発するものではなく、(「異常者」を社会から分離して排除する方法によって)「社会は防衛しなければならない」というものなのでしょう(既にその予兆は感じられます。)。

結局のところ、「日本社会」は「差別と排除の論理」に徹頭徹尾貫かれているのだと思います。

今回の事件は、日本社会全体に蔓延る「差別と排除の論理」によって引き起こされた「ヘイトクライム」だと言って間違いありません。しかるに、事件の「特異性」に目を奪われて事件に潜む「普遍性」を見失ってしまっては、このような「ヘイトクライム」を未然に防ぐことは決してできないでしょう。そしてまた、現にそうであるように、ヘイトクライム事件を利用した悪質なヘイトスピーチが生み出されてしまうことでしょう。