9月某日から数日間、韓国の首都ソウルを旅しました。
奇妙なことに、私はこの色、におい、ざわめきにコヅかれ、ゆれながら、ふと自分の肉体の故郷にかえった懐しさ、温かみを覚える。私の祖先は韓国から来たのではなかったかもしれないが。それよりも、ここは人間の本来的な生き方のふるさとなのだ。(岡本太郎『韓国発見』)
ソウルは、「風水都市」だと言われています。しかし私には、ソウルはデュオニソス的な力に満ちた「祝祭都市」であるように感じられました。
もちろん、ソウルの<街>は、しばしばアポロン的な顔ものぞかせます。
つまり、ソウルという都市は、〈ディオニュソス的なもの〉と〈アポロン的なもの〉がせめぎ合う「芸術」そのものである、そんな気がするのです。
そんな、ソウルの〈街〉は、私の中の何かを激しく、しかし優しく壊していきました。私の中の何か――それは、月並みな言い方をしてしまえば、「固定観念」かもしれません。ですが、それは決してこの〈街〉に対する「固定観念」などではなく、私が囚われていた、「生きるということ」についての「固定観念」です。
そうして、「生きるということ」についての「固定観念」から解放された私を包み込んだものは、もしかすると、かつてこの〈街〉を訪れた岡本太郎氏が触れたものと、同じものだったのかもしれません。
私は、別に私が五感で感じたソウルの〈街〉の姿こそが真実であると言うつもりは毛頭もありません。ですが、日本の巷でまことしやかに語られているソウルの〈街〉の姿よりも、私が五感で感じたソウルの〈街〉の姿のほうが、私にとってははるかに〈リアル〉であるということ――これだけは、声を大にして言っておきたいと思います。