葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「三・一運動」から100年を迎えて

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今日3月1日は、日帝による植民地支配下の朝鮮の人民が、日帝による植民地支配からの独立を求めて立ち上がった「三・一運動」を記念する日である「三一節」です。そして、本年2019年は、1919年の「三・一運動」から100年の節目の年です。

「三一節」について、おそらく多くの日本国民の認識は、「よその国の記念日」あるいは「他人事」だというものでしょう(もっとも、「三一節」を知らない日本国民も少なからずいるでしょうが……)。それどころか、「いまいましい反日イベント」だという認識の日本国民も少なくないかもしれません。事実、ある「情報番組」のコメンテーターは「日本は3月1日まではできるだけ感情的にならないようにし3月1日を過ぎてから言いたいことを言うべき」*1だなどと、「三一節」をまるで日本を襲う嵐かなにかのように語っています(それにしても、「三一節」がどのような記念日であるかを都合よく忘れた、なんとも呆れた発言です。)。

しかしながら、「三一節」は日本国民にとって、はたして本当に「他人事」なのでしょうか。あるいは、「いまいましい反日イベント」なのでしょうか。

思うに、「三一節」を「他人事」と捉える日本国民の認識は、あまりにも無責任です。なぜなら、「三・一運動」は、ほかならぬ日帝による植民地支配からの独立運動なのですから。つまり、「三・一運動」は、日本国民が真摯に向き合うべき「日本の負の歴史」の一つであり、そして「三一節」は、日本国民が「日本の負の歴史」と真摯に向き合うための日なのです。

「三一節」を「日本国民が『日本の負の歴史』と真摯に向き合うための日」であると言うと、きっと日本国民の多くは「日本はいつまで過去の過ちを反省しなければならないのだ」と反発するでしょう。「三一節」を「いまいましい反日イベント」と捉えるのも、「韓国はいつまでも過去のことを蒸し返しやがって」という気持ちがあるからだと思います。

しかし、まず「日本はいつまで過去の過ちを反省しなければならないのだ」と反発する日本国民は、大きな誤解をしています。日本国民が「日本の負の歴史」と真摯に向き合うのは、かつて日帝に加害された国や民族(そして、日本政府とそれを支える国民が、日本軍性奴隷制日帝による朝鮮人強制動員といった、日帝による植民地犯罪の正当化に腐心し続けることで、今もなお加害され続ける国や民族)のためにするのではありません。それは、ほかならぬ日本国民が、日本帝国主義と永久に決別するためにするのです。そうであれば、「日本はいつまで過去の過ちを反省しなければならないのだ」などと言うのは、全くもってナンセンスです。「日本の負の歴史」と真摯に向き合うことに、「いつまで」などという期限はありません。日本国民が「いまの日本は大日本帝国とは違う」と言うのであれば、むしろいつまでも「日本の負の歴史」と真摯に向き合い続けるべきです。

また、「韓国はいつまでも過去のことを蒸し返しやがって」というのも、これまた大きな誤解です。韓国がいつまでも過去のことを蒸し返しているのでありません。日本政府とそれを支える国民が、日本軍性奴隷制日帝による朝鮮人強制動員といった、日帝による植民地犯罪の正当化に腐心し続けるから、日帝による植民地犯罪の被害者と被害者を支える韓国の市民は、日帝による植民地犯罪を告発し続けなければならないのです。そして、日帝による植民地犯罪の被害者と被害者を支える韓国の市民が、日帝による植民地犯罪を告発し続けるのは、それが反植民地主義ないしは個人の尊厳という価値の実現に資するからです。しかるに、日本国民が日帝による植民地犯罪を告発を「反日」だなどと誹謗するというのは、反植民地主義ないしは個人の尊厳という価値を共有しないということなのでしょうか。もしそうであれば、日本国民はおよそ日本帝国主義と決別したとはいえません。

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三・一運動」100周年に関して、日本では、「三・一運動」100周年があたかも「反日キャンペーン」であるかのような印象を国民に植え付け、韓国に対する憎悪を煽るような報道が連日なされています*2*3。残念ながら、そのような国を挙げての煽動に煽られて、韓国に対する憎悪を増幅させてしまっている国民も少なくないかもしれません。しかし、本稿をここまでお読みいただければ、「三・一運動」100周年が「反日キャンペーン」などではないことは、容易にお分かりいただけると思います。先に述べたように、「三一節」は、日本国民が「日本の負の歴史」と真摯に向き合うための日です。そうであれば、「三・一運動」100周年は、「反日キャンペーン」どころか、むしろ(残念ながら、いまだ日本帝国主義と決別することができたとはいえない)日本国民が、日本帝国主義と決別し、真の民主化を獲得するための大切なきっかけであるといえるでしょう。

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「煽動機関」と化した、日本のマスメディアの頽落。

「日本製品買うな」まさかの条例案にソウル市民は…

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000148280.html

news.tv-asahi.co.jp

テレビ朝日がネット配信しているこの記事、「スーパーJチャンネル」の放送をネット配信用に編集したものでしょうが、これを見る限りでは、問題の条例案の内容が「日本製品買うな」というものであることしか分かりません。このように、問題の条例案の内容が不明確である一方、

「ソウル市民たちの間では日本製品が変わらず人気となっているようです」

「今回のソウル市議会の条例案だが、市民にはどのように受け止められているか?」

などと報じていることから、この記事を閲覧した人は、市民が日本製品を購入することを禁止する条例案であると認識するでしょう。

しかしながら、その認識は正しくありません。それというのも、洪聖龍ソウル市議会議員が提出した問題の条例案は、「ソウル市庁、市議会、市の傘下機関が日本の戦犯企業と随意契約を締結しないようソウル市長が努力しなければならない」とするものであって、市民が日本製品を購入することを禁止するものではないからです*1。しかるに、この記事は条例案の内容が明確にしない一方で、先に述べたように「ソウル市民たちの間では日本製品が変わらず人気となっているようです」あるいは「今回のソウル市議会の条例案だが、市民にはどのように受け止められているか?」などと報じているのですから、この記事は閲覧者の誤解を誘発する意図で編集されたのではないかと勘繰りたくなります。

それにしても、なぜテレビ朝日はこのような閲覧者の誤解を誘発する記事をネットで配信するのでしょうか。思うに、これまで述べたように閲覧者の誤解を誘う編集である点、記事中で記者が「反日」などという言葉を用いている点、そしてこの記事がネット配信用に編集されたものである点に鑑みると、それは韓国に対する日本国民の敵意や蔑視を煽る意図のものであると言わざるを得ないでしょう。実際に、ネット上ではこの記事をもとに韓国に対する日本国民の敵意や蔑視が煽られてしまっています*2。また、昨今のテレビ朝日の報道姿勢*3も、この記事が韓国に対する日本国民の敵意や蔑視を煽る意図で編集され、ネット配信されたものであることを強く疑わせます。

残念ながら、テレビ朝日はもはや報道機関ではなく、産経同様の「煽動機関」と化してしまったようです。もっとも、それはテレビ朝日に限った話ではありません。昨今の「徴用工問題」や「韓国海軍レーダー照射問題」に関する日本のマスメディアの報道をみてわかるように、「対韓国」に関して日本のマスメディアは、揃いも揃って「煽動機関」と化してしまっています。昨今、「記者は国民の代表として質問に臨んでいる」という東京新聞の見解を否定する官邸の態度が問題となっていますが*4、官邸の傲慢な態度は言語道断だとしても、はたして「煽動機関」と化した日本のマスメディアが、本当に私たちの「代表」でいいのでしょうか。もっとも、韓国に対する国民の敵意や蔑視を煽る日本のマスメディアの姿勢は、「国民」にとっては「国民の代表」に相応しいものなのかもしれませんが。

 

*1:

jp.yna.co.kr

*2:※差別的表現多数につき閲覧注意。本来このような「まとめサイト」は引用したくありませんが、問題を可視化するためにあえて引用します。

blog.livedoor.jp

*3:

matome.naver.jp

*4:

www.asahi.com

外国人参政権の実現は「外国人参政権の実現」ではなく、「完全な民主主義の実現」だ。

「外国人の人権問題」としてよく議論になるテーマの一つが、「永住外国人参政権」です。これについて1995年2月28日の最高裁判決は、永住外国人地方参政権に関して「法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である」と判示しています*1

もちろん、永住外国人地方参政権を認める、この最高裁判例の結論は妥当です。しかしながら、この判例の「法律をもって……選挙権を付与する」という点に、私はどうしても疑問を禁じ得ません。

永住外国人参政権は、はたして法律という「国民の意思」によって付与されるものなのでしょうか。この問いに対して、「それが民主主義だ」と答える人も少なくないでしょう。しかし、むしろ私は「民主主義の本質」に鑑みて、永住外国人参政権を法律という「国民の意思」によって付与されるものと考えることに疑問を覚えるのです。

民主主義の本質は、「治者と被治者の自同性」、すなわち治めるものと治められる者が同一であることです。それゆえ、日本が民主主義国家であるならば、納税など日本国籍者と同様の義務を負う「被治者」である永住外国人も当然「治者」であるはずです。しかるに、日本では永住外国人参政権がなく、永住外国人は「被治者」であるにもかかわらず「治者」ではないのですから、日本は民主主義国家ではないとは言わないまでも、やはり日本は完全な民主主義国家ではないと言わざるを得ないでしょう。つまり、永住外国人参政権を実現することは、「外国人参政権の実現」ではなく、「完全な民主主義の実現」なのです。

このように、永住外国人参政権は「民主主義の本質」から要請されるものであって、決して「国民」という特権階級から与えられるものではありません。そして、国際人権規約B規約*2第25条に鑑みれば、それは人権の普遍性から要請されるものであるともいえるでしょう。

韓国国会議長に問われた「戦後民主主義」の欺瞞

www.bloomberg.co.jp

 

日本軍性奴隷問題について天皇の謝罪を求める文喜相韓国国会議長の発言は、戦後天皇制が戦前天皇制と非連続的なものではないことに鑑みれば(戦後天皇制を戦前天皇制は全く異なるものと考えている人も少なくないでしょうが、戦後天皇制は戦前天皇制から主権を差し引いたものにすぎず、すなわち「象徴天皇制」は戦前天皇制を象徴機能に純化したものであって、戦前天皇制と全く異なるものではありません。なお、戦前天皇制の象徴性と戦後天皇制の象徴性とは本質的に異なると解するのが憲法学の通説ですが、しかし、両者に共通する権威主義的な国民統合という点に鑑みれば、はたして戦前天皇制の象徴性と戦後天皇制の象徴性とは本質的に異なるといえるかどうかは甚だ疑問です。)、至極当然のことを言ったまでであって、「極めて不適切なもの」*1などではありません。むしろ、日本軍性奴隷制という日帝による加害の歴史を正当化することに腐心する日本政府の態度こそ、極めて不適切だといえます。

しかしながら、日本軍性奴隷問題について天皇明仁氏に謝罪させることには、たとえ明仁氏の退位後であっても、私は賛同できません。誤解がないようにお断りしておきますが、私は決して、天皇裕仁氏の息子である明仁氏には日帝による植民地犯罪について責任がないと考えているわけではありません。明仁氏は天皇の地位を裕仁氏から承継したからこそ天皇であるのですから、裕仁氏が果たさなかった責任を明仁氏が承継しない理由はないはずです。私が明仁氏に謝罪させることに賛同できないのは、日本国憲法においては主権在民が建前であるがゆえに、天皇上皇)に国家を代表して日帝による植民地犯罪について謝罪させることは違憲であり、また、たとえ退位後であっても明仁氏の謝罪が「天皇」という存在の権威をさらに高め、天皇制のさらなる強化につながるおそれがあるからです。思うに、主権在民の建前の下では、内閣総理大臣が国家を代表して日帝による植民地犯罪について謝罪すべきです。

もっとも、そうはいっても天皇日帝による植民地犯罪について責任を負っているにもかかわらず、日本国憲法における主権在民の建前ゆえに謝罪させられないというのは、やはり理不尽だといえるでしょう。つまるところ、ここに「戦後民主主義」あるいは「象徴天皇制」の欺瞞があります。文喜相議長の発言によって問われているのは、まさにこの「戦後民主主義」あるいは「象徴天皇制」の欺瞞ではないでしょうか。そして、この問いに答えることなく、単に主権在民の建前を持ち出して文喜相議長の発言を批判するのは、それもまた欺瞞かつ傲慢な態度だといえます。

日帝による植民地犯罪について責任を負っている天皇に謝罪させることが、日本国憲法における主権在民の建前に反するという、「戦後民主主義」あるいは「象徴天皇制」が抱える矛盾。この矛盾を解消するには、やはり天皇制を廃止するしかありません。そもそも、日帝による侵略戦争と植民地支配の原動力となったのが、ほかでもない天皇制です。その天皇制を日本国民が自らの手で廃止することもせずに、はたして本当に日本国民は日本帝国主義と決別したといえるのでしょうか。本当に日本国民が日本帝国主義と決別したというのであれば、日本国民は天皇制を自らの手で廃止すべきです。そして、それは日帝による植民地犯罪について日本国民が果たすべき責任のひとつです。

日帝による植民地犯罪について日本国民が果たすべき責任に関して、「国民主権のもとでは、天皇裕仁氏の責任を承継するのは、明仁氏ではなく主権者である国民だ」と言う“民主主義者”もいることでしょう。しかし、それは「国民主権」を巧みに利用した(“民主主義者”の皮をかぶった)天皇主義者の詭弁です。日帝による植民地犯罪について日本国民が果たすべき責任は、決して天皇裕仁氏から承継するものではなく(前述のとおり、裕仁氏の責任を承継するのは明仁氏です。)、国民固有の責任です。

繰り返しになりますが、私が天皇明仁氏に謝罪させることに賛同できないのは、日本国憲法においては主権在民が建前であるがゆえに、天皇に国家を代表して日帝による植民地犯罪について謝罪させることは違憲であり、また、たとえ退位後であっても明仁氏の謝罪が「天皇」という存在の権威をさらに高め、天皇制のさらなる強化につながるおそれがあるからです。もっとも、このことは、日帝による植民地犯罪の被害者、あるいは韓国の政府や国民にとっては全く関係のない話です。つまり、天皇制の問題は、日本国民が本当に日本帝国主義と決別したといえるかどうか、あるいは身分差別を是とするかどうかという(よく語られる「明仁氏の人柄」など、はっきり言ってどうでもいいことです。)、日本国民自身の問題なのです。

マイノリティの人権は、マジョリティからの“ご褒美”ではない。

マイノリティの権利(もっとも、それは単なる権利ではなく人権ですので、以下ではマイノリティの権利=人権であるとして話を進めます。)について、マジョリティはしばしば「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」と言います。おそらく、この言説に共感するマジョリティは少なくないでしょう。しかし、私は、私自身がマジョリティではあるものの、この欺瞞に満ちた言説には共感できません。

いったい、いつになったらマジョリティはマイノリティに共感するというのでしょうか。おそらく、「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと言うマジョリティは、マイノリティがどれだけ誠実に訴えたとしても、あれやこれやと難癖をつけて、いつまでも共感しないでしょう。なぜなら、彼は自分の持っている権利をマイノリティが持っていないことで、自分が「(マイノリティが持っていない)権利を持つ価値のある、特別な人間」であることを確認することができるのですから。しかし、彼は本当に「権利を持つ価値のある、特別な人間」なのでしょうか。彼の持っている権利は、本当に彼のようなマジョリティしか持つことができないものなのでしょうか。

そもそも「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと言うマジョリティは、勘違いしています。マイノリティの人権は、マジョリティから“ご褒美”として与えられるものではありません。人権は、誰かから与えられるようなものではなく、人間が人間であることにより当然に有する権利です。しかるに、どうして人間として当然の権利を主張するのに、マイノリティはマジョリティのご機嫌をうかがわなくてはならないのでしょうか。マイノリティの人権は、マジョリティのご機嫌次第で認められるようなものではありません。マイノリティの人権がマジョリティのご機嫌次第で認められるものだとするのは、「マイノリティを煮て食おうと焼いて食おうとマジョリティの勝手」だと言うようなものです。「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」という言説に共感するマジョリティは、その醜悪さにいい加減気づくべきです。

「意識」を変えるべきなのは、マイノリティではなく、ほかならぬマジョリティです。つまり、マジョリティである私やあなたは、マイノリティに対して「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと求める(それは、マジョリティの傲慢以外の何ものでもありません。)のではなく、私たちが「しなければならないこと」をするべきです。ただ、それはマイノリティの主張に共感することではありません(もちろん、マイノリティの主張に共感してはならないなどと言うつもりはありません。ですが、そもそもマイノリティの人権は、私たちの共感などとは関係なく存在するのです。)。マジョリティである私たちが、なによりもしなければならないのは、マイノリティを踏みつけているこの足を退け、マイノリティを踏みつけているあの足を退けさせることです。もっとも、それは、決してマイノリティのためにするのではありません。それは、私やあなたの「個人の尊厳」のためにするのです。マイノリティの「個人の尊厳」が確保されない社会は、およそ「個人の尊厳」が確保されるものではないのですから。

日本軍性奴隷問題は「国家間の問題」ではない。

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どうやら、日本軍性奴隷問題を日本と韓国の「国家間の問題」と捉えている人が少なくないようです。

もっとも、日本のマスメディアの報道に接していれば、そのように捉えてしまうのも無理はないのかもしれません。しかし、「国家間の問題」と捉えるのは、日本軍性奴隷問題の本質を見誤っています。

日本軍性奴隷問題は、日本と韓国の「国家間の問題」ではなく、「〈国家〉対〈被害者(と被害者を支える市民)〉」の問題です。だからこそ、被害者を支える日本の市民は未だ国家責任を認めず真摯に謝罪しない日本政府を批判し、被害者を支える韓国の市民は被害者を蔑ろにして日本政府と不当な合意を結んだ朴槿恵政権を批判するのです。

いわゆる「慰安婦問題日韓合意」についても、韓国政府はあくまでも被害者の「代理人」です。したがって、日本軍性奴隷問題において韓国政府がいちばんに考えなければならないのは、「国益」などではなく「被害者の尊厳回復」です。しかるに、朴槿恵政権は、「米日韓三角軍事同盟の維持・発展を目的とする『日韓65年体制』の維持」という「国益」のために、被害者を蔑ろにして日本政府と不当な合意を結びました。それゆえ、朴槿恵政権は被害者を支える韓国の市民に批判されたのです。

このように、日本軍性奴隷問題は、日本と韓国の「国家間の問題」ではありませんが、ただ、ひとつ忘れてはならないことがあります。それは、日本と韓国の「国家間の問題」ではないからといって、日本国民が「日本国民としての責任」を免れるわけではないということです。たしかに、「国家=国民」ではありません。しかし、日本という国家において「国民」が主権者であるならば、「国民」には主権者として、日本という国家が負う日帝の加害責任について「日本国民としての責任」を負っているはずだからです。もっとも、「日本国民としての責任」というのは、国家責任を認めず真摯に謝罪しない日本政府に代わって日本国民が被害者に謝罪して賠償することではありません。「日本国民としての責任」というのは、日本軍性奴隷問題という日本による加害の歴史と向き合い、日本政府に国家責任を認めさせて真摯に謝罪させることです。

日本軍性奴隷問題が「〈国家〉対〈被害者(と被害者を支える市民)〉」の問題だということは、すなわち、それは「被害者の尊厳回復」という人権の問題だということです。そうであれば、「慰安婦問題で、日韓関係が冷え込んでいる」などというのが、いかに的外れであるかがよくわかるでしょう。「被害者の尊厳回復」という人権の問題で、「日韓関係が冷え込む」などというのは、本来であればおかしなことです。なぜなら、日韓両国がどちらも真剣に「日本軍性奴隷制被害者の尊厳回復」を志向しているのであれば、「日韓関係」が冷え込むはずがないのですから。それなのに「日韓関係が冷え込む」というのは、つまるところ日本政府が日本軍性奴隷問題の正当化に腐心し、国家責任を認めず真摯に謝罪しないからです。

国家責任を認めて真摯に謝罪することを日本政府に求めるのは「反日」的態度だと言う日本国民が少なくありませんが、そのようなことを臆面もなく言う日本国民は、いい加減気づくべきです。愛する「日本」のことを、「反人権国家」だと貶めていることに(もっとも、日本の国家としての威厳や名誉など、日本軍性奴隷制被害者の尊厳や名誉に比べれば、まったくもって取るに足らないものですが。)。

日本の市民であるあなたは、どうか誤解しないでください。日本軍性奴隷制被害者と、被害者を支える韓国の市民は、あなたに敵対する相手ではありません。あなたが対峙するべき相手は、個人の尊厳を権力で踏みにじり、その非を認めようとしない国家です。そして、あなたがそのような国家と対峙するとき、日本軍性奴隷制被害者と、被害者を支える韓国の市民は、あなたの力強い味方であるはずです。

 

株式会社FMGによる韓国人スタッフに対する人権侵害に、断固抗議する。

チェジュ航空の日本協力企業「慰安婦後援ブランドのカバン持つな」

| Joongang Ilbo | 中央日報

https://japanese.joins.com/article/641/249641.html

 

この事件、卑劣な、あまりにも卑劣な、人間の尊厳に対する蹂躙です。

韓国・中央日報に記事によれば、空港地上支援業務を請け負っている日本企業である株式会社FMGが、同社で勤務する韓国人スタッフAさんにした「マリーモンド*1のカバンを持つな」との指示は、(Aさんの話によると)「入社1年内に退社するとひと月分の月給より多い違約金を支払うことになっている雇用契約のため、異議を提起でき」ず、「入社前、会社側が外国人労働者ビザを受け入れたので違約金条項を甘受するよう強要し……仕事場を見つけなければならなかったため、使用側が提示した勤労契約書に同意するほかはない状況だった」という、入社して間もない外国人労働者の弱い立場につけこむという(そもそも、労働契約に違約金を規定することは、労働基準法第16条に抵触し違法です。)、卑劣極まりないものだといえます。そして、たしかにマリーモンドは日本軍性奴隷被害者を支援していますが(そもそも、日本軍性奴隷被害者を支援することの何が悪いというのでしょうか?)、マリーモンドのカバンそのものは「政治スローガンが書かれていたものでもな」く(そもそも、日本軍性奴隷問題は「政治」や「イデオロギー」の問題ではありませんが)、また、マリーモンドのカバンを持つことが空港地上支援業務を支障をきたすなどということは、常識的に考えてありえないのですから、「マリーモンドのカバンを持つな」との指示は、明らかに合理的根拠を欠く不当な「良心の自由」の侵害であるといわざるをえません。

このように、株式会社FMGが、同社で勤務する韓国人スタッフAさんにした「マリーモンドのカバンを持つな」との指示は、Aさんの「良心の自由」を不当に侵害するものであって、たとえ私企業といえども到底許されない人権侵害ですが、問題はそれだけではありません。それというのも、マリーモンドが日本軍性奴隷被害者を支援していることを理由に「マリーモンドのカバンを持つな」というのは、日本軍性奴隷被害者の方の尊厳を踏みにじるものでもあり、また、日本国民の他民族憎悪を助長するものであるからです。つまり、二重三重の意味で人間の尊厳に対する蹂躙であるといえます。

この事件の発端は、共同通信の報道によれば*2「社外の人からの指摘があった」とのことです。そうだとすれば、この事件は、日本軍性奴隷問題の正当化に腐心する日本政府や右翼による、日本軍性奴隷被害者とその支援者に対する敵視扇動が惹き起こしたものであるといえるでしょうし、そもそも、日本軍性奴隷被害者とその支援者を敵視し、人間の尊厳を軽んずる「価値観」が、日本社会であまねく共有されているからこそ惹き起こされたともいえるでしょう。つまり、この事件は単に一企業の問題ではなく、日本社会そのものの問題であり、そうであればこそ、私たち日本の市民は、私たちの社会の問題を勇気をもって告発してくださった韓国のAさんを、絶対に孤立させてはなりません。

以上、本稿をもって株式会社FMGによる韓国人スタッフに対する人権侵害に、断固抗議します。