葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「平和の少女像」が日本国民に問うていること

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日本では「慰安婦像」などという名前で呼ばれる「平和の少女像」について、これを「反日の象徴」だなどと忌み嫌う日本国民は少なくないのではないかと思います。

おそらく、日本国民は日本軍による戦時性暴力に関して自分が責められていると感じるゆえに、「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと忌み嫌うのでしょう。そもそも、「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと捉えるのが間違いですし、「日本という国に対する批判」を「自分に対する批判」と捉えるのも如何なものかと思いますが、それはともかく、「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと忌み嫌う日本国民は、残念ながら「平和の少女像」が日本国民に対して問いかけるその「声」を、まるで聞こうとしていないのではないでしょうか。

思うに、「平和の少女像」は、日本軍による戦時性暴力に関し、今現在の日本国民に対して非難を加えているのではありません。「平和の少女像」が今現在の日本国民に問うているのは、今まさに日本国民が植民地支配や戦時性暴力を否定する価値観を共有することができるかどうか、です。もっとも、前述したように「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと忌み嫌う日本国民は、そもそも「平和の少女像」が日本国民に対して問いかけるその「声」を聞こうとしていないのでしょうが、もし「声」を聞いたとして、日本国民は植民地支配や戦時性暴力を否定する価値観を共有することができないのでしょうか。日本国民は、今もこれからも植民地支配や戦時性暴力を肯定する価値観を持ち続けるのでしょうか。

日本国民(もちろん、私自身もその例外ではありません。)は、「周囲の雑音」に惑わされることなく、ぜひとも「平和の少女像」が問いかけるその「声」に、しっかりと耳を傾けるべきです。そして、「平和の少女像」の問いかけに真摯に答え、植民地支配や戦時性暴力を否定する価値観を共有するべきです。それこそが、今を生きる日本国民が植民地支配や戦時性暴力の被害者に対して果たすべき「責任」であり(もちろん、日本政府が植民地支配や戦時性暴力の被害者に対して果たすべき責任は、これとはまた別のものです。)、「平和の少女像」の「願い」なのだと、私は思います。