あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「反日/親日」というモノサシは、もう捨てよう。

日本では、相変わらず「反日親日二分法思考」が蔓延しています。それは多くの場合、韓国や中国をバッシングするために用いられます(「親日」でさえも、「◯◯国は親日だ。それに比べて、韓国や中国は……」というように。)。ですが、時として「韓国(人)だって全てが反日ではない。韓国(人)にだって、親日な部分(人)はある(いる)」というように、「反日バッシング」に対する反論として用いられることがあります。

おそらく、そのような反論に共感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、私はどうしてもそのような反論には共感できません。

いったいどうして、「反日親日」というモノサシを捨てようとしないのでしょうか。そもそも、どうして「日本」に反抗してはならないのでしょうか。どうして「日本」を無条件に好きでいなければならないのでしょうか。そのような「日本」とは、いったい何様のつもりなのでしょうか。

つまり、「反日親日二分法思考」というのは、「他者への想像力」に欠けた、どこまでも「自己中心的」なものだということです。もっとも、「日本人なのだから、日本本位に考えるのは当然だ」と言う人がいるかもしれません。ですが、そのような考え方こそ、まさに「他者への想像力」に欠けた、どこまでも「自己中心的」なものではないでしょうか。そのような考え方をする人は誤解しているのかもしれませんが、「他者への想像力を働かせる」ということは、なにも「他者に阿る」ということではありません。「他者への想像力を働かせる」ということをそのように誤解するというのも、ある意味では「反日親日二分法思考」の弊害なのかもしれません。

結局のところ、「反日親日二分法思考」に囚われている人は、「他者」を自分より下に見ているということです。残念ながら、「差別主義者」のみならず、反差別や民族の友好を訴える人のなかにも「反日親日二分法思考」にとらわれている人がしばしば見受けられます。しかしそれでは、「真の友好関係」など築くことは到底できないでしょう。たとえ反差別や民族の友好を訴えるためであっても、「〇〇人のうち反日はごく一部であって、多くの人は親日家だ」などということは、少なくとも「日本人」の側から言うべきではないと思います。

真に差別の解消や民族の友好関係を実現するためにも、反差別や民族の友好を訴える人こそ「反日親日」というモノサシを捨てて欲しいと、私は切に思います。

もちろん、「反日親日」というモノサシを捨てることは、真に差別の解消や民族の友好関係を実現するためだけではありません。それはなによりも私たち自身にとって、「共同の幻想」に囚われることなく「自由な人間」として生きるために必要なことなのではないでしょうか。