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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

あえて言おう、「『ヘイトスピーチ』の自由」は「表現の自由」ではない、と。

私はこれまで「『ヘイトスピーチ』は断固として許すべきではないが、しかし『表現の自由』の重要性に鑑みれば、『ヘイトスピーチ』に対する法的規制については慎重であるべきだ」と考えてきました。

ですが現在、私はその考えを変えつつあります。というのも、ヘイトスピーカーヘイトスピーチに「寛容」な人々は「表現の自由」が憲法上保障される趣旨をはき違えているのみならず、彼らの言動は、法規制慎重派がしばしば自説のために援用する、「思想の自由市場」の根底を崩すものであるとしか思えないからです。

そもそも、「ヘイトスピーチ」といった他者の人権を踏みにじる「自由」を守るために、憲法は「表現の自由」を保障したのでしょうか。

ヘイトスピーカーヘイトスピーチに「寛容」な人の中には、「表現は当然に人権侵害を伴うものだ」と嘯く人もいるでしょう。しかし、憲法が究極的には人権を守るものであることに鑑みれば、他者の人権を踏みにじる「自由」を守るために憲法が「表現の自由」を保障したとは到底考えられません。その証左に、日本国憲法は12条で権利の濫用を戒めています。

また、「表現の自由」が重要な権利として憲法上保障されるのは、それが民主制の維持発展に資するという「自己統治」の価値を有することのほかに、個人の人格形成・発展に資するという「自己実現」の価値を有するからである、と考えるのが一般的です。とすれば、「ヘイトスピーチ」が果たして「個人の人格形成・発展に資する」ものであるといえるか、甚だ疑問だといえるでしょう。

さて、仮に「『ヘイトスピーチ』の自由」が憲法上保障される「表現の自由」に含まれるとして(私はそれを否定しますが)、法規制慎重派がしばしば自説のために援用する「『思想の自由市場』における『対抗言論』」の原則は、本当にヘイトスピーチの規制をめぐる議論においても妥当するのでしょうか。

思うに、「『思想の自由市場』における『対抗言論』」の原則が妥当性を持つためには、何よりもまず言論空間の平等が確保されなければなりません。

しかし、ヘイトスピーカーヘイトスピーチに「寛容」な人の中には、「ヘイトスピーチされたくなければ、マイノリティやその支援者たちは口を噤め」などと人がいます。つまり、彼らは議論するためではなく、相手を黙らせるために「ヘイトスピーチ」しているわけですが、このような彼らの態度は、彼らが自説の拠り所とする「思想の自由市場」を自ら否定するものだといえるでしょう。また、ヘイトスピーチという「暴力」にさらされている外国籍であるマイノリティの人々は、「民主政治」の場において自らの意見を表明する手段を持ち合わせていません。他方で、本当であればヘイトスピーチの「価値」を否定すべき立場であるはずの、大学教授といった「有識者」や、出版社や新聞社といった「マスメディア」が、ヘイトスピーチに「価値」を与え続けてしまっているという現状があります。

このような「状況」に鑑みれば、およそ言論空間の平等が確保されているとはいえず、「『思想の自由市場』における『対抗言論』」の原則がヘイトスピーチの規制をめぐる議論においても妥当するとは、とても思えません。

ヘイトスピーチに「寛容」な人々は、ヴォルテールが言ったとされる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という格言を、しばしば好んで援用します。ですが、果たして彼らは、マイノリティの人々が意見を主張する権利も命をかけて守る覚悟を持っているのでしょうか。まさか、「ヘイトスピーカーが差別や民族的憎悪感情を表明する主張する権利しか命をかけて守るつもりはない」などとは言わないでしょう。

もっとも、ヘイトスピーチ規制を口実に公権力があらゆる表現を規制する危険を考えると、法規制しないに越したことはありません。だからこそ表現の自由を守るためには、「ヘイトスピーチ」を止めなければならないのです。くれぐれも誤解してはならないのは、「表現の自由」にとって重大な脅威なのはヘイトスピーチに対する法的規制ではなく、表現規制の口実となるヘイトスピーチこそ「表現の自由」にとって重大な脅威である、ということです。